新連載

【新連載】3 回シリーズ(3)

「子どもと森を歩く」

京都森林インストラクター会 会員 松井 千代栄

 昨年の夏、近くの森を散歩していたときに急に来たのです。「ん?これ、カブトムシのにおいやん!」そして思い出しました。小さい頃、近所のおじさんがカブトムシ捕りに連れて行ってくれたこと・・・。今、森歩きを楽しんでいるのは、あのおじさんのおかげかもしれません。

 さて、子どもたちといっしょに森を歩いていると、「こんな石みつけた♡」とうれしそうに手のひらにのせて見せてくれることが何度かありました。これは、私の中ではちょっとした謎だったのです。だんご虫が好きなのはわかりやすいけど、石ころかぁ・・・みたいな感じです。そんな中、昨年の10 月に川原できれいな石を探すイベントがあり、思いきって一人で参加しました。集合場所にはリュックを背負った大人たちや家族連れなど20 数名が集まっていました。川原まで約15 分歩き、現地で簡単な説明を聞いたあと、みんな散らばって石を探し始めました。もちろん黙々と。

これはかなり面白い光景ではないかと、顔を上げて周りを見渡したとき、「あっ、そうか!」と思いました。私を含め、大人たちはみんな腰をかがめて探していたのですが、小さな子どもたちは普段歩いている姿のまま、顔だけ下向きで探していました。しかも、きれいなガーネットや紅柱石を上手に見つけているのです。

 今考えれば当たり前のことですが、子どもたちは大人たちよりずっと近くで石を見ることができるのでした。子どもは背が低い―つまり地面に近いのです。いっしょに森を歩いていても、身長160cm の私が見ている森と、身長100cm の子どもが見ている森は違うかもしれません。地面に近いということは、土のにおいを強烈に感じたり、茂みの中のカサカサした音も敏感に聞き取れたりするのではないかな・・・と楽しい想像がふくらみます。きっと、子どもたちは見ている、聞いている、感じているけれど、大人にはわからないことがもっといっぱいあるんだろうなと思いました。

 そういう視点でこれまでいっしょに森を歩いた時の子どもたちの様子をふり返ってみると、みんな小さなからだ全体で森と関わっていたのだなぁと改めて感じます。岩の間からちょろちょろ流れる水にそっと指を近づけてみる、ふかふかのコケをごそっとひっくり返してみる、倒れた木に生えたきのこをつついてみる、落ち葉のじゅうたんを蹴飛ばしてみる等々、子どもたちは子どもたちのやり方で森を楽しんでいたのでした。

 「森は楽しいよ!」といっても、子どもは一人では森へ行けませんし、行ってはいけません。いっしょに出かけてくれる大人が必要です。家族、幼稚園の先生など身近な大人といっしょに出かけるのが最高です。そして、近くに住んでる森好きのおじさんやおばさんもいます。今年も歩きますよ、子どもたちといっしょに。

【新連載】3 回シリーズ(2)

「センスオブワンダー!」

京都森林インストラクター会 会員 板倉 豊

 最近特に幼稚園や保育園の自然観察会を引き受けることが多いいのですが、子供達はキノコを見るとすぐに「これ食べられる?毒キノコ?」と聞いてきます。変わった虫や植物を見つけると「名前は?!」と聞きます。いちいち答えますが「これはイヌビワ!名前はビワだけどイチジクの仲間だよ!」と説明しますが、子供達はメモすることもないので、その場で忘れてしまいます。現場で指導する先生方も植物や鳥や虫の名前を全部知っていなくていいのです、かくいう私も全部は知りません!あの有名な女性の生態学者のレイチェル・カーソンは著書の「センスオブワンダー」の中
で「もし、あなた自身は自然への知識をほんの少ししか持っていないと感じていたとしても、親として、たくさんのことを子供にしてやることができます。―中略―台所の窓辺の小さな植木鉢にまかれた一粒の種子さえも、芽を出し成長していく植物の神秘について、子供達と一緒にじっくり考える機会を与えてくれるでしょう。」と名前など知っている必要はまずないと言っています。

 最近自然観察会を行った某幼稚園の先生からこんなお礼のメールをいただきましたのでご紹介します。

 「今回改めて、小さな自然のひとつひとつに目を向けてみることでたくさんの発見がありました。鹿などの動物が降りてくる獣道があったり、木の実を食べた後があったり、蜘蛛の巣ひとつをとっても、糸にかかった虫が体液だけ吸われて体が残っている様子を見ることができたり、普段は見過ごしてしまっていることに目を向けられる良いきっかけになりました。川にはたくさんの鳥がいて、カワセミが魚を取る様子や、鵜が羽を乾かす様子なども観察でき、身近にこんなに素晴らしい自然があることに感動しました。子どもたちはお家に帰ってからたくさんお話ししたようで、保護者
の方からは『普段幼稚園の様子をぜんぜん喋ってくれない子なのに、この日は一晩中話し続け、気になったことを図鑑やネットで一緒に調べ、土日には散歩をしながら板倉先生に教わったことを、目を輝かせながら話してくれまた!』」

 自然観察会を企画した森林インストラクターにとってこんな嬉しいことはありません!

 ところで実際に自然観察会を企画するとき依頼者側では経費や日時の設定にとても苦労されているようです。半年も前に年間の行事を決めて保護者に通知しておく必要があるそうで、年度の途中で観察会なんか入れられませんよ!とのこと、悩ましいですね。京都森林インストラクター会の事務局には叱られそうですが個人的には経費はおひるご飯か交通費の実費で十分です!教え子に(元某大学の環境教育の教員でしたので)保育士、小学校教員が多くよく頼まれますが食育をやっている保育園ではそのサンプル試食で十分でした。日時の設定も雨天予備日さえたくさん用意しておけば
対応が可能です。ある保育園では「おおきな おおきなお芋!」の向こうをはって「雨でもかっぱと長靴と雨傘でランラン!カエルやカタツムリがたくさん見られるよ!」と雨天決行となりました。

 ご相談に乗りますのでまずは森に行う!川に行う!植物園に行う!公園に行う!

 最後に、またレイチェル・カーソンの言葉「私は、子供にとっても、どのようにして子供を教育すべきか頭を悩まさせている親にとっても、『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。子供達が出会う事実の一つ一つが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子供時代は、この土壌を耕すときです。」

【新連載】3 回シリーズ(1)

「京都の森林のお話をしましょう」

京都森林インストラクター会 会長 篠部 幸雄

 今京都市の中心に立って見ると、東北西の三方が山の緑に囲まれており、大きな都会ではあるけれど京都らしさを醸しだす要素の一つとなっています。緑は目にも優しく、心を落ち着かせてくれるものとなっています。また東山山麓には大きな寺や神社も多く、その風景林として機能しています。また森林は、くわしい定義は別として、二酸化炭素を吸収して地球温暖化防止に貢献すると考えられているのはご存知の通りです。

 江戸時代の浮世絵などを見てみても、東山はあまり樹木の生えていないところがありました。半世紀少し前までは森林は住いや燃料を供給するために広く継続的に利用されていたのです。それが、戦後の木材不足を解決するための拡大造林、東京オリンピックの頃をターニングポイントとする化石燃料を主体とする燃料革命などにより、全国の森林は天然林・人工林とも着実に蓄積を増やしてきています。

 上流の森林が荒れると、災害特に水害に見舞われることが増えてきます。京都では平安遷都以来、水害が繰り返されています。平安時代、白河法皇は意のままにならないものの筆頭に賀茂川の水を挙げています。これとても森林荒廃が原因の一つであったかもしれません。明治時代の地図で、鴨川の高野川合流地点上流が砂利におおわれて水流が隠れているのも、その影響を感じさせます。

 昭和10 年、京都の中心街でも大水害が起こっています。集中豪雨により、鴨川をはじめ各地で溢水が発生しました。前年の室戸台風による山地の荒廃と倒木の放置が、その要因であると指摘されています。

 最近では、3年前台風21 号が来襲、強烈な南風により広範囲の倒木をもたらしました。

 森林の土壌には樹木の根がはりめぐらされていることや土壌生物によって細かい隙間が多くあります。それが雨を吸収し、時間をかけてゆっくり流していくことにより、晴れた日も川の水は流れています。ご存知の方は少ないのですが、鹿ケ谷の上流に楼門の滝という立派な滝があり、晴れが続いても滝が枯れることはまずありません。

 また木の根が土壌の下の岩盤まで届き土石をしっかり抱えていることや、落ち葉や草が表面を覆っていることにより、雨の日に土砂が流れることが少なくなります。雨の日でも川の水が茶色になっていなければ、上流の森林は比較的健全に保たれているといえるでしょう。

 最後に、ある外国出身の経営者の言葉を添えておきます。「自然に近いところに身を置くと、いつもやすらぎとエネルギーが得られると感じています。自然とのつながりを取り戻し、生命のリズムを感じる」。この自然とはすなわち森林のあるところに他なりません。

 是非近くの森林に出かけ、自然を感じてください。いろんな発見・驚きに満ちあふれていることと思います。

【新連載】2回シリーズ(2)

保育者の働き方改革の実際

佛教大学教育学部教育学科 教授 佛教大学附属幼稚園 園長   佐藤 和順  

 保育者の働き方をより良いものにしていくためにはどのようなことが必要となるのでしょうか。 第一に,保育者が安心して働ける職場環境を作ることが前提となります。具体的には,保育者の休憩時間の確保を含む勤務時間の改善や有給休暇の取得促進などを進める。また,育児・介護休業法に基づく育児・介護休業制度や短時間勤務制度,子の看護休暇・介護休暇制度などについて就業規則などに整備することです。また,勤務時間・雇用形態にかかわらず,保育者の技能,経験,役割に応じた処遇に努めなければなりません。

 第二に,保育や行事の見直しです。行事の負担感が大きいという意見は,保育者からよく聞かれます。その行事が何を目的としていて,子どもの育ちにどのような影響を有しているのかを再度考える必要があるでしょう。例年通りではなく,その行事の持つ意義を検討しなくてはいけません。このことはコロナ禍により多くの園でも実践されてきたことではないかと思います。また,行事加えて,日々の保育の方法についても,検討をしている段階かと思います。

 第三に,書類削減,ICT 化などの活用による業務改善です。例えば「クラス記録(保育日誌など)」「長期的な計画」「短期的な計画」については最低限必要な項目を定め,簡素化するなど標準化することで保育者の負担軽減につながるのではないかと考えられます。行政との連携も必要となるでしょう。それをICT 化すれば負担は一層軽減されるでしょう。園ごとに検討することも必要ですが,国や自治体などが中心となりこのようなひな形を示すことが早急に求められます。

 第四に,多様な人材活用による業務改善です。例えば,行事に必要な装飾の企画やデザインはクラス担任が,そのデザインを基に製作する作業を保育補助者が担当するように役割分担を行うことなどが考えられます。
担当をすみ分けることによりクラス担任の行事準備にかかる負荷が減るという仕組みです。実現のためには,両者間でしっかりと意思の疎通が必要となるでしょうし,いかに雇用するのかということも課題となります。

 以上のような保育者の働き方改革が目指すものは,まずはノンコンタクトタイムの確保です。保育者の子どもの育ちに常にかかわりたいという気持ちは十分にわかりますが,時間は有限ですし,一人当たりがこなすことが出来る業務には限りがあります。時間を効率的に利用する高い時間意識を保育者間に定着させることが必要です。

 これまで述べてきたように保育者の働き方改革は,保育者,園だけではなく,運営事業者そして国や自治体すべてが連携をして進めていかなければならないものです。そして,すべては保育の質の向上,子どもの育ちを確かなものにするために行われるという意識が必要です。保育者にとって魅力的な園は,きっと子どもにとっても魅力的な園に違いないと思います。魅力的な園で,しっかりと子どもの育ちを支える,保育者が自己実現できることを目指して日々保育に勤しみたいものです。

【新連載】2回シリーズ(1)

保育者の働き方改革の必要性

佛教大学教育学部教育学科 教授 佛教大学附属幼稚園 園長   佐藤 和順  

  働き方改革関連法が施行され,その必要性やワーク・ライフ・バランスの実現が保育現場でも課題となっています。しかし,実際には「毎日残業」「事務仕事が増えている」「ノンコンタクトタイムなんてとっても無理」という声が多く聞かれます。一方で,実際に働き方改革に取り組んで,一定の成果を出している園もあります。どこにその違いがあるのでしょうか。

 保育者は長時間労働になりやすい傾向があります。「子どもの最善の利益」「子どもファースト」の理念のもと,子どものことを中心に考えることは大切です。しかし,生産性などで判断できないためにどこまでやればよいのかが見えにくいことも事実です。そのために保育者が長時間労働を強いられ,持ち帰りの作業があったりするのが現実です。保育者の就業継続の困難感や労働環境が低下するのであれば,そのことが子どもの育ちの保障に支障をきたすことも認識しておかなければなりません。

 安易な残業依存や仕事の持ち帰り体質が保育の現場にある背景には,必要な時にはいつでも残業や持ち帰りができる仕事中心の保育者が多く存在していることがあります。そのような働き方を前提とすると,働く時間や場所に制約があったり,仕事も仕事以外の生活も大事にしたいと考える人材活用が困難となります。短時間勤務,パートを希望する保育者,またフルタイム勤務でも残業免除で働きたい保育者,さらには仕事だけではなく仕事以外の生活を大事にする価値観を持った保育者などが働きにくい職場環境であれば,保育者不足は一層深刻化し,正規の保育者の負担が一層増加することになります。このことは新人保育者の就業継続にも影響を及ぼすことでしょう。

もちろん,仕事が好きなことは悪いことではありません。しかし,仕事が好きでも,仕事のみの生活をしている保育者は,視野や人間関係が仕事に偏ることで成長機会が制約される懸念もあります。このことは,保育者の成長を望む園にとっても課題となります。

 長時間労働や仕事の持ち帰りに疲れて,就業継続が困難になる。このような悪循環を断つためには,「今までそうやってきた」,「みんなそうしている」ではなく,自律的な時間管理のもとでの,自分で考える時間意識の高い働き方への転換が必要となるのです。企業と同様に園においても「仕事総量」を所与としてすべての業務が完了するまで労働サービスを投入し続けるような働き方ではなく,「時間総量」を所与として,その時間で最大の不可価値を生み出すことが求められるのです。保育はどこまでやっても,完ぺきということはないのではないでしょうか。そのことが保育の質の向上につながることも事実ですが,終わりがないということも働き方を考える上では難しい課題です。一定の質を保つことを前提として,ある程度のところで切り上げるという態度も今後は必要となるでしょう。

【新連載】3回シリーズ(3)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(3)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 では、最初の回で述べた例、B 子ちゃんに「静かにして」と何回も言われて、歌う声を小さくしたにもかかわらず更に要求されたため、ついに蹴っ飛ばした事件のA 君への対処はどうしましょう?色々な対処法があると思います。ここでは案の一つを述べてみます。

完全解では到底ありませんが、少なくともA 君の判断力を付けられるかもしれないと思います。親でも先生でもいいのですが、大人の振る舞い方を考えたいのです。多分、女の子が泣き出し「A 君が蹴った!」と訴えたところから事件は発覚です。大人から見れば小さな事件ですが、その子たちには生きている事そのものの大きな事件です。そのプロセスを子どもがいかに体験するかは、その子達の育ちに影響するのではないかと私は考えています。ここでは先生(または親)とA君との会話を想像で書いてみます。

 (先生がそれぞれの気持ちを汲みながら話せば、B子ちゃんと3 人でも、よく似た形で出来ると思います)
先生「あら、A 君。B 子ちゃんを蹴ったの?どういう事でそうなったか教えてくれる?」(一方的に怒られないと思った子供はスムーズに事実を話す可能性があります。)
先生「そうか~。A 君、よっぽど歌いたかったんだね?」
A 君「うん」
先生「その時B 子ちゃんは何してたの?」
A 君「絵本見てた」
先生「そうか~。だから声を小さくして協力したんだね」
A 君「うん、そう」
先生「でも、同じような事を何回も繰り返したんだね。…今その状況を思い出してね、A 君はどうすればよかったと思う?」
A 君「歌いたいから、B 子ちゃんに他のとこへ行って読んでよ、って言えばよかった」
先生「他のやりかたもある?」
A 君「他にはない」
先生「そうか~。…A 君が他の所へ行って歌う、という手もあるかなあ?」
A 君「それ、したくない」
先生「そうか~。すると、A 君は歌いたい、B 子ちゃんは静かに本を読みたい。これはけんかになるね~。どうしようか?」
A 君「う~ん、…僕、他の所に行って歌ってもいい」
先生「そうか、すると蹴っ飛ばさなくても歌えてそれはそれで気持ちいいかな~」
A 君「うん、多分ね」
先生「蹴ったことはどう思う?」
A 君「蹴らなくても良かった。B 子ちゃんは本読みたいんだ。でも僕歌いたい。どうしようって、言ってもよかった。」
先生「そうだね~。歌いたかったことは置いといて、蹴ったことは謝る?」
A 君「うん。謝る」
 こううまくいくかどうかは不明ですが、少なくとも私の今までの経験では、相手の感情を大切にして、行動をそのまま受け入れて話を聞くと、相手の気持ちが静まっていき、客観的に状況を理解しはじめ、小さな子でもそれなりの結論を出してきます。上記の対処を可能にしているのは、「反映的な聴き方」と呼ばれる相手の感情を映す聴き方と、「問題解決の模索」という手法です。よく、「相手に寄り添って」と言いますが、まさにそれが必要だと思います。大人が言葉で自立を強制することなく、プロセスを大切にしながら感情に寄り添い、子どもがした経験を子どもに考えてもらうように沿っていく事で、子どもが判断の力を蓄えていき、大人から自然にはがれるように自立していけたら、と願っています。

【新連載】3回シリーズ(2)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(2)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 子育ての目標は何でしょう?と保護者に問うと返ってくる答え。元気で優しい子に。健康で人の事も考えられる子に。大人になった時、自分で考えて行動できる人に。毎日が楽しめる子に、等々。それぞれナルホドと思います。気は優しくて力持ちの桃太郎さん。望ましいですね~。かっての私もそう思い、先ほど書いた保護者と同じく、日々奮闘し子どもにきちんと話してこの世のルールを教えこまなければならない、と思っていました。

 さて、ここにリンゴの木があります。実よ、早く大きくな~れ!立派な実にな~れ!そして実を大きくすることに親は一生懸命。子育てとは立派な実にする事、と考えている人が多いかもしれません。有名大学に是非入れるためには、塾はどこ、と目の色を変える、など。
しかし、リンゴの実は親の木からうまく離れて行ってくれないと木の上で腐ってしまうのです。だから子育ての目標とは、子どもが親の木からはがれるように自然に離れて行って一人でやっていく力がつくようにする事、となるでしょう。親からすれば「力を付けつつはがれるようにうまく離す事」となるでしょうか。親は、早く大きく立派な実にな~れ、と思っているかもしれません。しかし、本当は急いではいけないのです。人が育つのには時間がかかるのです。しかも基礎がしっかりしていないと、心の健康な子に育つのが難しいのです。基礎とは何でしょう? この世は人と共同していく所、自分の事は基本的には自分でする所、自分の出来ないことは人に頼める所、そして楽しめる所、居心地のいい所、成長するのが面白い所。でもルールのある所、ルールを守れば安全な所。そういう事をしっかり伝えていきたいものです。私はそれを教え込むのでなく、子どもの主体を起こしながら、経験を通して学んでもらい、人としての芯を育ててもらう方が安全だと思うようになりました。教え込めば、表面上わかったように見えますが、なかなか芯に届いていない現象を目にするからです。 

 自己肯定感とは、定義がとても難しいですね。できる事も出来ないこともあるけれども、失敗もするけれども、自分は自分であって大丈夫、工夫しながら前に行ける、等身大の自分を認められる、受け入れられる事が必要かと思います。自己肯定感の育っている人は平和であり、落ち着いており、自己主張もしますが人との協力もできるので人との関係もたいていは良好、自立してもいるからです。主体の起きている子への関わりは建設的で楽しく、大人は、面白いと感じることが多いでしょう。教え込みや上からするしつけが多すぎて、その割には責任をとってもらわないとか、かゆいところに届くケアの育児は相手を受け身にさせ、主体が起きにくくなります。「自分のために人は何をして
くれるのか」ということを学び、待っているためです。また、周りのケアが強いと、自分で自分の人生を動かせていないので、納得度が低く、劣等感も起きやすく、自己肯定感も低くなります。子育てはうまくはがれるように離すことがコツ。さてその離し方は、どうすればいいのでしょう?私たち大人の知恵が総動員されなければならないと感じます。

【新連載】3回シリーズ(1)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(1)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 若いお母さんたちとお話すると、「子どもに自己肯定感を育てるにはどうしたらいいのですか?」という質問を受けることがあります。とても知的なお母さん達が多いのです。おっとっと、いきなり本題ですね、と思うのですが、「で、そのためにどうしておられますか?」と尋ねると、「習い事をして何かできる事を身につけさせて自信を持たせるといいのかな?と思っています」と結構返ってきます。「そうですか。習い事はだいたい3 か月ハネムーンで、やる気満々ですが、そのうちお友達と遊びたいから今日はイヤとか言いませんか?」と尋ねると、「そう、それで嫌がる日があるので困っています。一度習い始めたらチャンとさせたいので、結構バトリ(battle)ます」という答えが多く聞かれます。

 つまり嫌がった時に「一度習い始めたものは休んではならない。」という親の理想を子どもは強要されるという事です。これがあまり強く繰り返されると結構親子関係はまずいかも。自己肯定感を育てたいという親の目標は良しと思います。しかしそれを実現する日常のプロセスがあまりに大事にされていないのでは?と危惧することがしばしばです。強要して習い事を全うさせることに多くの保護者は焦点を当てていますが、
それよりも、それに関連して起きる日常的な事柄の処理の、出来る・出来ないではないそのプロセスこそ、自己肯定感を育てるのに関係するのではないかと筆者は考えるからです。そしてもう一つは、保護者の方が、「出来る」という事が自己肯定感につながる、と思っておられるというのは気になるところです。

 5 歳児A 君のお母さんのお話。園から連絡があり、「A君がB 子ちゃんを蹴ってB 子ちゃんは泣き、蹴ったところを湿布しましたが、赤くはなっていません。園ではA 君に蹴ってはいけないと注意し、わかってくれたと思います。しかしB 子ちゃんの家に謝罪に行くことを薦めます」との事でした。先生の説明によると、A君が歌を歌っていた、B 子ちゃんが「静かにして」と言った、それでA 君は声を小さくした、それでもB 子ちゃんは「静かにして」と言ったのでさらにA 君は声を小さくして歌った、それでもB 子ちゃんは「うるさいから静かにして」と言ったので腹を立てて蹴った、との事でした。お母さんが聞いても同じ事情でした。その後ご両親でコンコンと「人を蹴ってはいけない」と言い聞かせて、親子3 人でB 子ちゃん宅に謝罪に行ったそうです。ごく普通にあるお話だろうと思います。

しかし…この措置で果たしてA 君についた力は何だろう?と考えると、さて?と思うのです。“悪い時は謝る”というのを学んだでしょうが、こういう事が頻繁に起きると、自分は悪い子という自己イメージが生じ、周囲にも乱暴な子、問題の子、という見方が定着します。
その中でA 君の自己肯定感って、どうやって育つのでしょうか?少なくとも周囲の大人が伝えたものは、そのトラブルが起きたのちの対処法でした。そのトラブルの直前や最中の扱いの力がA 君に付いたわけではないのです。そしてB 子ちゃんにはどういう力が付いたのでしょうか?私たちが子育てする時、この対処で誰にどういう力が付いたのか?そしてそれぞれを尊重できているのか?それを考える必要があるように思います。

【新連載】3回シリーズ(3)

言葉と言葉のあいだには…③

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 実習指導をしていく中で、「声を掛ける」「声掛けする」「声をかける」「声かけする」「言葉を掛ける」「言葉掛けをする」「言葉をかける」「言
葉かけをする」など、学生のノートを見るとこれだけの言葉の使い方に出会う。

 私は「言葉をかける」を使ってほしいと願う。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行の中に「言葉は記憶されないが保存される」という項目に繋がっていると考えるからである。どんな言葉を子どもにかけるのだろうかと思いを馳せることができ、考える空間がうまれてくるような気がする。心の中に保存された言葉からうまれてくる心の空間。これが大切だと感じるのである。

 「おほしさまのちいさなおうち」(渡辺鉄太 文、加藤チャコ 絵 瑞雲舎)という絵本がある。田舎の一軒家におかあさんとねこといっしょにすんでいる男の子がいる。いつもつまらないとなげき、猫と遊ぶ毎日…ある日 おかあさんが「たんけんにいってごらん」と提案する。「うちのまえのみちをそのままずっと おかのうえまで いってごらん。よく めをあけ みみをすませたら、きっと とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちは みつかるよ」男の子は猫と一緒におほしさまのおうちを探しにでかけていきました。最初に、女の子に出会い、女の子のお父
さんに出会い、つぎに、おばあさんに出会うのです。「とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちが どこにあるか しってる?」すると おばあさんは「かぜに きいてごらん かぜは あちこち たびをしてまわっているから」と…。かぜに聞いた男の子はかぜに吹かれてりんご畑についた。かぜは男の子のそばにりんごをころがした。男の子はりんごを大切に手の中にいれ、これがお母さんのいっていた「とびらもない、まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうち」だと気づき、来た道をいそいでもどった。「これが とびらもない、
まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちかな?」とおかあさんに手渡すと、さっそくおかあさんは輪切りにする。「おほしさまがいた!」

「ろうそくよりも もっとあかるくひかる おほしさまがすんでいる」と男の子が驚いたように、子どもの心の世界もこの絵本と同じだと感
じた。

 おかあさんから素敵な言葉をかけてもらった男の子のように、大好きな先生に言葉をかけてもらった子どもは、その言葉が保存され、安心し、広い世界を探検し、そして人や物や時間や空間と出会う。さらに「語彙が拡大」していくことで新たな探検が始まっていく。

 子どもに素敵な言葉をかけること…わくわくしますね。

【新連載】3回シリーズ(2)

言葉と言葉のあいだには…②

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 『あそぼうよ』(五味太郎作 偕成社)という絵本がある。「あそぼうよ」と誘う〔とり〕がいて、「あそばない」という〔きりん〕がいる。その〔とり〕と〔きりん〕のかけあいの絵本である。〔とり〕が「あそぼうよ」と誘いかけると、〔きりん〕は長い首を曲げたり隠したりしながら「あそばない」という。最後のページになっても〔とり〕が「あそぼうよ」というと、〔きりん〕は最後まで「あそばない」と答える。「あした またあそぼうよ」と、〔とり〕がいうと「あした また あそばない」と〔きりん〕が答える。

 〔きりん〕はとんでいってしまう〔とり〕をずっと眺めているが、裏表紙ではなんと〔とり〕と〔きりん〕が一緒にあそんでいる場面になる。

 子どもは〔とり〕と〔きりん〕のあそんでいる姿を見て、何をしてあそんでいるのかと思いをめぐらせている。

 この絵本をある学生が読み聞かせをした。「あそぼうよ」とゆったりと読んではいたが、「あそばない」のところでは「けんかしているの?」と思わず叫ん
でしまうくらいきつかった。「だってあそばないって…かいてあるし…」と学生は言う。喧嘩しているお話ではない。

 子どもは「あそぼうよ」と言葉をかけられると、すっとあそびに入る子どももいれば「あそばない」と口走ってしまう子ども、その場からすっとどこかに行ってしまう子ども。そうかと思えば「あそばない」といいながらしっかりあそぶ子ども。子どもの言葉と子どもの行動の関係性は微妙で深遠さをもっているのである。

 上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 (昭和28 年発行)をひらいてみることにする。そこには、「お話は深い人生を味わわせる」という項目があり、次のように書かれている。「お話には、必ず目的があります。別な言葉でいえば、作者の理想が含まれています。それはお話の表には少しもあらわれません。それについては、一言もいわれません。けれども、ことばの裏、筋の裏に、ぴったりくっついて、はじめからおわりまで、ついてま
わっています…」とある。子どもと言葉をつないでいくにはややこしさがある。しかし、一瞬のうちに子どもと言葉がつながることもある。

 『コッコさんのともだち』(片山健 作・絵 福音館書店)という絵本の中に「コッコさんは ほいくえんで ひとりぼっち。なかなか みんなと あそ
べません。…でも ごらんなさい コッコさん…アミちゃんもひとりぼっち。… でも ちょっと みた ふくのいろ、 おんなじ おんなじ すると だんだん うれしくなって うんと うんと うれしくなりました。それから ふたりは いつでも いっしょ…」とある。子どもはまわりにいる子どもに単純に「おなじ」をさがし、「おんなじ おんなじ」という言葉から一瞬のうちに行動がうまれる。いいかえれば、子どもは微妙と深遠さという複雑な世界と、一足飛びに関係がつながる魔法の言葉「おんなじ おんなじ」も兼ね備えている。やっぱり子どもの世界はおもしろい…。