新連載

【新連載】2回シリーズ(1)

「何にでも向くこと」

池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子

 私は、40 年後50 年後に社会を支えるそんな子どもたちの今を育てる先生になる人と日々学び、接しているのだと思っています。そしてそんな先生の卵を、本当の意味で「子どもって楽しいでしょ」「子どもとともにって感動がたくさんあるよ」「先生の仕事はこんなに面白いんだよ」と実感できるように導き、殻を破る場をくださるのは、彼らが現場で出会う先生方と子ども達なのだとも強く感じます。卒業生と久方ぶりに会うと、ひとり一人が学生時代とは異なる深い視点を持ち、目の色を輝かせて子どものことを思い、真心で保育のこと考え、意志をもって悩みを語る姿に感動します。
時には、先輩である諸先生方ともぶつかりながらも子どもとの関わりを模索している姿は胸を打つものがあります。その人の感性に影響し、みずみずしくそれだけの変化を引き起こした、保育教育現場の時間の流れや、現実の関わりの眩しさに、自分自身が養成校の亡霊のように思えてきます。おそらくそんな風に感じるのは、私には学生時代の彼らの姿が強く印象に残っているからです。

 身体表現と幼児体育という授業を担当する関係上、私は学生の咄嗟の表情や動き、思いの表出に直に触れ、学生自身が気づいてもないような内面を目にしたように思うことがあります。そこには不安や、引け目、悩みのようなものが含まれていることも少なくありませんが、素直な学生の姿であり、ありのままに愛おしいものです。ただ、良くも悪くも学生のありのままが息苦しく、もどかしいように感じることが、近年増えたようにも思います。リアルな生活経験が足りない姿。選び取れない、自信がない、迷い続け人とつながり合えない姿。自分のことだけで精一杯になり相手のことを思いやれない姿。「学生の弱さ」とか、「社会がそうさせる」としか説明ができないときもあります。感性を豊かに表現することの楽しみを知りながら幼少期を過ごしたはずの子どもたちが大人になるにつけ、傷つき、頑なに自分を守ろうとしている。その人本来の伸びやかな自我はどこにあるのだろうか。

 そんな時に最近思いを寄せるのは、先生という仕事の可能性です。幼児教育と養成教育は、対象者の主体性を大切にするという意味で常に響き合っていると感じます。子どもが一様でないように、多様性を持った専門職として、幼児教育・保育の先生はジェネラリストに近い存在でもある。その中で発揮される一人ひとりの先生の力が、子どもを支えていくために何より貴重なのだと思います。「子どもが好き」のその一念を職業として全うしていけるように、学生のありのままの保育に対して向けている思いを、保育に根差す価値観と知識へと導く。そんな養成教育が、実は人生や社会のすべてが詰まっている幼児教育・保育の中で、何者にでもなれるような先生を育てることができるのではないでしょうか。

 先生は向いていなければなれないのでなく、「何にでも向くことができる」ことが先生の仕事のなかにはたくさんあるという理解が、専門領域で区切られている養成教員の中に何より必要なのではないか。養成課程では己の得手不得手と向き合いながら感性を磨き、先生として自分が向くものを見つけられるようにする。
養成教員は単に学生の先生としての向き不向きを量るのではなく、その人の向くところを先生としていかに発揮していくのかを導く存在でもありたい。不安定な社会の中で育つのは学生自身の課題でも、先生として育ち上がるためのヒントを工夫して提示できるように、私たちは学生自身の自分の向くところに対する育ちを深める存在になっているのだろうか。

 卒業目前、先生に向いてなければならないと思い悩む学生は後を絶ちません。就職と卒業をめぐる学生との面談、そして教員間のやり取り、現場の先生との対話がこの文章となりました。気が付けば養成校教員としての雑感がすっかり強くなってしまいました。次回は子どもと表現にかかわることを中心に語りたいと思います。