新連載

3回シリーズ(1)

「なんぎな子」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子

私は子どもの頃、「なんぎな子やなあ」とよく言わ れた。なんぎ、辞書で調べると、難儀「苦しみ悩む こと。面倒なこと。処理するのがむずかしいこと。」 とある。めんどうくさい、扱いにくい子どもであっ たようだ。なにが大人たちにとってめんどうだった のか。 今も私は「難儀な大人」ではあるのだが、子ども の頃は特にひどかったらしい。私にはわからないこ とが多すぎた。幼児期は自分の周りにわからない世 界が大きく広がっていて、その世界に呑み込まれそ うな気がしていた。「あれは何?「」なんてゆうもん?」

「なにするもん?」「なんでそうなるの?」を連発して、 母親を困らせた。小学生になるとますます大変で、 算数は苦手だった。1に1を足すとはどういうこと なのか。鉛筆を1本もっていて、もう1本もらうと 2本になると先生はいう。私にはわからない。鉛筆 にもいろいろある。長い鉛筆、短い鉛筆。黒鉛筆、 赤鉛筆。違うものを合わせて数えることができるの か…。 「なんで?」「どうして?」「どうなるの?」が口癖 であった。そんな私を周囲の大人は困った顔で眺め ていた。答えてくれた大人たちもいた。しかし私に はその答えがまた分からなかった。分からないどこ ろか、ますます私を混乱させた。そんな私に閉口し た大人たちは、「それはそう決まっているの。」「そういうことやから覚えておきなさい。」と言った。 なんぎな子どもであった私は、それからなんぎな 中学生になり、なんぎな高校生になり、「人間が生き ていることとは」、「学ぶこととは」、「成長すること とは」、の答えが知りたくて教育学を勉強し始め、今 日に至っている。子どもとはどのような存在である かを考え続けている。子どもにとって周りの世界は どう見えているのか。周りの世界をどのように受け 止め、それにどう対しているのか。考えれば考える ほど、子どもっておもしろいな、子どもってえらい なと思う。 保育の現場に先生方を困らせるかつての私のよう な「なんぎな子」はいないだろうか。じっくり付き 合えば「なんぎな子」はおもしろい。その子どもが 持っている「なんぎ」は味わい深い。「へぇ~そうな んや」「おもしろいことにきぃついたなぁ」「ところ で○○ちゃんはどう思う?」と問い返していくと、「あ んなー…」ととぎれとぎれではあるが話し始める。「な んぎな子」が開いて見せてくれる世界は、大人であ る私たちが見えなくなってしまった世界であったり、 見えなくさせられてしまった世界であったりする。 しかし、そうした世界を垣間見るためには、時間と いう大きな対価が必要である。「なんぎな子」は時間 貧乏から生まれる。時間貧乏は子どもを困らせる。 子どもは豊かに育てたいという。子どもならではの 視点、子どもの思いとじっくり付き合う時間は楽し い時間であり、大人にとっても豊かな時間でもある。