新連載

【新連載】幼児期の子どもへの関わりにおいて 大切なこと2 ~大人と子どもの思いのすれ違い~   4 回シリーズ(2)

京都府・京都市スクールカウンセラー臨床心理士 大下 勝

学校カウンセリングでは、親と子どもの話を別々に 聴くことがあります。その中で何回か経験したことで すが、親は「子どもにどう考えても正しいことを話し ているのに、全く伝わりません」と困りを訴え、子ど もは「親は私の話を全く聴いてくれない、私のことを 全く分かってくれない」と憤っています。親の話をさ らに聴いていきますと、子どもの言動について、間違 っていることや正しい考え、適切な行動を何とかして 子どもに教えたいという強い思いがあることが分かり ます。一方、子どもの話を深めていきますと、自分の 感じたことや考えたことを親に分かってほしい、自分 という存在をそのまま受け容れてほしいという切実な 思いがあることが分かります。これは教員と子どもで も起こることがあります。どちらも大切な思いですが、 多くの場合は、大人が子どもを注意することになり易 く、分かってもらえないという不全感が子どもに生ま れます。お互い感情的になり関係が悪くなる場合もあ ります。カウンセラーとしては、どちらの思いも大切 なのに、本当に悲しいすれ違いだと思います。

さらに、子どもが分かってもらえないと感じる体験 を多くしますと、「大人に話しても意味がない、どう せ聴いてもらえない」と大人に強い不信感を持つこと があります。こうなると、子どもだけで解決できない 問題が起こっても大人に相談しないですし、大人に反 抗的な言動が目立つようになります。自分の部屋に閉 じこもったり、ネットの世界にしか居場所を見つけら れなかったりする場合もあります。長い目で見ると意 味があるとも言えますが、大人も子どももかなりつら い体験になります。

では、どうすれば子どもの思いを大切にしながら、 正しいことを伝えられるのでしょうか。それは、会話に「主語」と「動詞」をしっかり付けることです。例 えば、子どもが「勉強したくない、しても意味が無い」 と言い、「何言っているの、勉強しないと将来困るわよ、怠けずちゃんとしなさい」と返すと、子どもの思いを 否定することになります。「主語」と「動詞」を付け ると、「あなたは勉強したくないと思っているのね、 そして勉強しても意味がないと思っているんだね、でも、お母さんは勉強することに意味があると思ってい るよ」と返すと、子どもの思いを否定せずに、正しい ことを伝えることができます。本来は、それぞれ個人 が思っていることですが、「主語」と「動詞」を省略 すると内容が一般化されて範囲が広くなり、反対の内 容を全て否定してしまいます。多くの場合は、これが 原因ですれ違いが起こっています。

幼児期では、まだ言葉がうまく使えず、多くのすれ 違いが起こり易い時期です。優しい雰囲気で正しいこ とを伝えるだけでなく、「あなたは、そう思ったのね」 と子どもが伝えたいことをしっかり受けとめていただ ければと思います。それは、思っていることを大人に 伝えてもいいという経験になりますし、子どもにとっ てそのまま受け容れてもらえる安心で安全な環境であ ると言えるでしょう。

「せっせせっせ」 花山かずみ さく 福音館書店

女の子が園庭の 隅に作った小さなお やま。せっせせっせ ポンペンペン! とも だちもどんどん加わって、 せっせせっせ せっせせっせ ポンペンペン! おやまは どんどん大きくなります。

町の人や動物たちも加わって…。
繰り返しのリズムが心地よく、年齢問わず楽しめる作 品です。細かく丁寧に書かれた絵は見返すたびに「こんなところにこんな子がいる!」「生き物もいた!」「何の お仕事をしている人かな?」と何度も楽しめます。

同志社幼稚園 伊澤 香那

【新連載】幼児期の子どもへの関わりにおいて 大切なこと1 ~感じているものを言葉で表現する~   4 回シリーズ(1)

京都府・京都市スクールカウンセラー臨床心理士 大下 勝

私は、幼小中高のカウンセラーとして縦断的に子ど もの成長に 20年以上関わってきました。本掲載では、その体験を通して幼児期の子どもへの関わりにおいて 大切なことをお伝えしたいと考えています。

子どもの悩みは様々ですが、その背景には必ず人間 関係があり、それぞれの感情や思いがすれ違ったり、ぶつかったりしています。カウンセリングでは、そういった感情や思いをさらに深めて整理し、悩みとどう 向き合うかを一緒に考えていきます。その過程において、とても大切なことがあります。それは、自分の心や身体が感じているものに気づいているかどうか、言葉として認識して表現できるかどうかです。自分の感じているものを言葉として認識していないと、考え無しに行動してしまうこともありますし、振り返って考えることも深めることもできません。カウンセリングに限らず、感じているものを言葉で表現できる能力が 育っているかどうかは、人生の豊かさや生き易さに大きく影響します。

例えば、学校ですごくまじめで人に優しくできる子 どもがいました。大人から見ても理想的な子どもです。 そのような子どもが突然体調不良になり、不登校にな ることがあります。その子の場合は、まじめ過ぎるが 故に、大人が期待する行動を優先し、自分が本当はど うしたいのか気づけなかったので、ストレスで体調不 良になっていました。 また、生まれ持った性格特性があり衝動的に行動し 易い子どもがいました。自分の今感じているものに意 識を向ける前に行動してしまい、いつも注意されてばかりで学校が嫌になり、大人に反抗的な態度を取るよ うになっていました。他にも似たような事例を多く経 験してきましたが、それらの課題に本人が向き合っていくには、自分の感じているものを言葉で表現できる ことがとても重要でした。

言葉は 1 歳前後から話し始めると言われていますが、まさに幼児期に基礎となる大量の言葉を獲得していき ます。そして、子どもが心と身体で感じているものを どの言葉で表現すればフィットするのかの試行錯誤も この時期に多く経験しています。例えば、子どもが園 庭に咲いているお花を見て何かを感じている、そのと きに教員が「きれいだね」と微笑む。おもちゃの取り 合いになって泣いている子どもに「悲しいね」と声を かける。夢中で絵を描いているときに「楽しそうだね」と一緒に笑う。もちろん、本人がどう感じているかを尊重する必要はありますが、最初は感情を表現する言葉を積極的に伝えていいと思います。何か違ったら本人の表情に出ると思いますし、そういった経験の中で フィットする言葉を本人が選択していきます。

幼児期は、自分の言いたいことを言葉で表現できる ようになって嬉しくて仕方ない時期だと思います。幼稚園の先生方には、そのような積極的に言葉を獲得するタイミングに「感じているものを言葉で表現する」 体験を特に意識して関わって頂ければと思います。それは子どものこれからのより良い人間関係の一助にな ることと思われます。

【新連載】「遊びをせんとや 生まれけむ」 その3   3 回シリーズ(3)

元立命館大学 教授 幼稚園協会特別支援教育研究会 顧問 朝野 浩

 「遊び」と大人とのかかわり方について、問題提起をした形で、前号は終りました。さて、先日、個別相談訪問である 園の事後相談が終り、外も暗くなり帰路に着こうとした折に、 幾人かの園児が残っていることに気づきました。子ども園に なってから、朝は8時前から夕方は閉園ぎりぎりまで預かっておられるとのこと。 お母さんがお迎えに来て、帰宅して、 夕食の準備と食事を済ませ、入浴をして就寝させ、朝の当園までの1日の循環を考えると、親子のかかわりの時間だけでなく、保護者間の時間も少ない状況と考えます。働き方改革が言われていますが 、「 豊かな生活 」 と は程遠い環境が幼児の状況にあります。幼稚園教育要領の中に「環境」という 語句があります。幼児を取り巻く周囲の環境の大切さとその 影響があるということです。

近年の状況から SNSの影響は多大なものがあると考えます。NHK 番組「チコちゃんに叱られる」で親子が生涯で一 緒に過ごせる時間について実 態報告( 解説 : 保田 時男 ・ 関西大学)がありました。『わが子と生涯で一緒に過ごす時間』 についての研究報告では、母親は約7年余りで、父親はそ の半分以下の約3年で、親子が一緒に過ごせる時間は約9 年ばかりとなります。平日1日に親子が一緒に居る時間は約 3時間になるということです。現代の保護者は忙しいので、 SNS や YouTube、TV を話相手の代わりに利用することがあると思います。親子の触れ合いから生まれる子どもの情緒 の発達やことばの獲得や言語能力などを考えると、ソーシャルメディアでは親の代わりにはなれないと分かってはいても、 子育てや家庭のあり方について多様な価値観があります。そ こで1日の多くの時間を過ごす幼稚園での生活の中身がます ます重要になり保育者のかかわりが 効果をもたらす可能性が高くなります。この中で、先生方や保護者からの相談の多いのが「ことばの発達」の問題です。よく「ことばのシャワー」 の重要性が言われますが、ソーシャルメディアによる機械的 なシャワーでは効果がないことは先人の研究から分かってい ます。子どもに向かって話しかける人は、生身の人間でないと効果がありません。

この向かい合う「対話」の形でのことばの量が大切です。 そこで気になるのが、子どもたちの好きな「絵本の読み聞かせ 」 活動です。 どの 園でも見受けられる光景ですが 、 意外と活動の進め方など画一的な感じを受けます。お帰りの前の 集会の一環として行われるものや設定保育の中のものでも、 保育者と子どもたちとの生き生きとした対話が少ないのです。 しかし、子どもたちは目をキラキラ輝かせ聞き入っており 、ASD の子どもたちも一番前や立って保育者に近づいたりし ながら絵本に見入っています。そこで、子どもたちに「くまさんは何をしているのかな」「赤いチューリップはいくつある」 など、Yes や No で答えられる質問でなく、ことばで返す会 話をしながら読み聞かせをする「対話的読み聞かせ」(小野 雅裕・慶応大学)を積極的に遊びの要素を入れ、保育者に は是非行って欲しいものです。このことが非認知的能力を育 てるとともに語彙力や表現力などの言語能力を向上させ、子どもたちの生活に反映すると多くの研究事例にあります。ここ10年以上、京都市私立幼稚園協会特別支援教育研修・ 研究にかかわり、その変容ぶりに驚かされてきました。その 思いの一端を文章にしましたが、問題提起とお受け取りください。

3ヵ月にわたるリレー掲載の最後に当たり、先日亡くなられた谷川俊太郎氏の詩集より、『どんなに目をみはってもみらいは見えないのにこどもらの体の中に明日は用意されている』をまとめにかえ終ります。駄文にお付き合いいただき感謝します。

【新連載】「遊びをせんとや 生まれけむ」 その2   3 回シリーズ(2)

元立命館大学 教授 幼稚園協会特別支援教育研究会 顧問 朝野 浩

 前回取り上げました幼児期の「遊び」ですが、子ど もの発達を促すうえでは重要な活動です。人として生 きる上での運動能力や言語能力また協調性や自分自身 が分かるなどの非認知的能力を獲得するには大事な活 動です。自由度の高い遊びの中に、次の様々な機能の 発達を促すものが含まれます。ヒトは、他の哺乳動物 に比べ、脳の成熟を待たず一年早く「生理的早産」として社会に出てきます。そのため温かい保護が必要で、 小さく、可愛い存在として認識されます。

私は研修会担当として、常々先生方に言い続けていることがあります。「幼稚園や保育園に毎日通ってくる子どもたちは、まだこの世に生を受けて、高々2年や3年そこらですから、先生の言うことなど分からなくって当たり前なんです。」「ただいま色々なことを試しながら獲得中です。」保育者は、自分をスタンダードとせずに、子どもは、遊びを通して何かを学び、遊ぶために遊ぶものだと考えて欲しい。世界中のほとんどの国が、6年ほど経てば、学校という遊びから離れた別の抽象的な世界へと子どもたちを導きます。この6年ほどの間に、「脳の生理的成熟」をしなければなりません。遊びを通した多くの体験や経験から「気づき」や「失敗と成功体験」を自分自身の可能性とともに蓄積していくのです。

一般に幼稚園では、設定保育以外は基本「自由遊び」 が中心となっていると考えます。保育者は、子どもたちの自発的な活動を見守ることが大きな仕事になって いると見えますが、ASD などの子どもたちにとっては、一番苦手な時間です。彼らは、この時間をどの様に過ごしてよいかわからない課題性を持っている子ど もたちです。それでは、この「遊び」を中心とした活 動において、ASD の子どもたちも含めて、子どもたちは、どのような体験を通して何を発見し、何に気づき、経験として学習し、次の機能を獲得するのでしょうか。

一方、同じ遊びでも、特別支援教育、知的障害者を 教育する場合においては、「遊びの指導」という指導の形態があります。知的障害を伴う児童生徒に対して、特に必要あれば領域・教科を合わせた指導として遊びの指導を子どもの発達を促す大切な活動として、年齢が上になっても中核的な学習活動として教育課程に位置付けて行われます。他の児童生徒とのかかわり方や身体的な活動を通して意欲の向上を図ることをねらいとした、意図的計画的指導が行われます。学校生活全体を遊びを通して学び、遊びそのものを学ぶということを大人の介在で行います。幼稚園での自由遊びとは、似て非なるところがあります。

幼稚園教育では、子どもにとっての遊びは、ただ単に遊具や追いかけあいなどで運動機能を高めることや友達とのかかわり方から社会性を高めるという目的だけで遊ぶわけでもありません。遊びそのものを楽しむことが中核になるはずですが、個別指導訪問で子どもたちを観察していると、発達年齢に見合った遊びが少なくなってきている感じがします。年長になれば、協力して何かを作り上げるとか、自分たちでルールを決めて活動をするとかという連合遊びや協同遊びがあまり見受けられません。教室の中でも、同じ場所に居て、同じブロックや積み木を扱っていても並行遊びのような別々にモノを作るということが多く見受けられます。

こうした現象は、テレビゲームやタブレットなどのソーシャルメディアで仮想の映像を相手に一人遊びが多くなっていることが影響しているのでしょうか。それとも子どもにかかわる保護者、保育者、大人のかかわり方の問題なのでしょうか。

【新連載】子ども自身が考えを生かし合う生活を創る   3 回シリーズ(1)

元立命館大学 教授 幼稚園協会特別支援教育研究会 顧問 朝野 浩

 以前に一度「共に」に寄稿したご縁があるのか、再度 寄稿のご依頼がありました。今回はリレー掲載とか、1月号より 3回連続掲載となります。そのため、かって総合支援学校や大学に勤務しているときよりは、年齢も重なり、文章を書くことや読むことがかなり不精になり、自信がありませんでした。が、しかし一方、私は、現在 京都市立鳴滝総合支援学校での高等部職業学科を中心とした教育課程づくりの研究開発に協力し、足かけ4年間携わっています。そのため、先生方に研究授業の指導細案を要求しています。毎度、10ページ近い指導細案を事前に頂き、助言や疑問点を提示し、推敲します。至るところに朱を入れるのは、現役時代から変わらない「朝 野流対話指導」の叩き台となるものです。そこには、障害のない児童生徒のための指導案とは違った様式があり、 通常教育の中学校から赴任した先生方には、慣れなく、戸惑いや「させる」指導を展開することが多く、生徒の 生き生きとした自発的な活動を損ないかねない授業にな る傾向のものもあります。そこで、授業について私と授 業者との対話、アサーションの場から、授業者自身の迷いや不明なところなど、困りの解決に向けての「気づき」を引き出して、授業改善に向けていく方法をとっています。そのようなことをしながら、少しでも私自身の脳の 老化を遅らすことが出来ればと頑張っています。こうした理由で今回のご依頼もお受けする次第となりました。

さて、前置きが長くなりました。標題の「 遊びをせんとや 生まれけむ 」 の一節は、よくご存知かと思います。 今 NHKTV の大河ドラマ「光る君へ」の時代よりもう 少し後の平安時代末期に流行った「今様」という流行り 歌の一首の冒頭です。後白河法皇が編纂したといわれる『梁塵秘抄』です。私は此の冒頭の句よりも最後の一節「遊 ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそゆるがるれ」の方 が好きです。多くの園長先生方や保育者の先生方が、若々 しく見えるのは、毎日幼児に触れることが多いからだと 思っています。私も、今日 70歳後半を迎えても楽しく個別指導訪問を 10年以上続けられるのも、此の今様の 一節のお蔭だと思っています。毎回毎回訪問する幼稚園で出会う子どもたちからエネルギーを貰うのとそこでの 新しい「気づき」や発見があります。「困り」を持った子どもに寄り添ったすばらしい保育に出会うこともあれば、子どもの「困り」に気がつかずに全体の進行ばかりを気にした指導があります。心の中で「そこはそうじゃ ないよ!」「もっとゆっくり観察して!」と声を出したくなることもあります。

そこで、長年のそうした経験から、先生方の指導上の「困り」を解決するための一助となるようなハンドブッ クのようなものがあればいいなという思いがありました。 今年度は、京都市私立幼稚園協会設立 50周年を節目として、障害の多様性に対応できるハンドブックを作るこ とになりました。特別支援教育研究会Cグループとして編成され、精鋭の5人の先生方と研修会担当理事の鴨東 幼稚園の西村二朗園長と私とが監修・編集担当しています。先生方が日常の保育でご苦労されている事象をピックアップして「〇〇〇かも」と切り口を設定して構成しています。子ども目線で状況を把握して、先生方の困り を想定し、失敗を恐れずに取り組んでいただける手だて を提案しています。研究会の 5人の先生方のご苦労とご 努力が、皆さまのお役に立てば幸いです。さて、「遊び」 についてのお話しが十分にできませんでした。この続きは、2 月号でしたいと思います。地震などによる災害や世界的紛争によって子どもの命が失われることない、希望と喜びに満ちた子どもの社会であるように、新しい年に当たりお祈りします。

【新連載】子ども自身が考えを生かし合う生活を創る   4 回シリーズ(4)

京都教育大学 教育学部幼児教育科 教 授 古賀 松香

 集団生活を一つの特徴とする園生活において、子ど もが生きる主体であることをどう実現していくか。こ のことは保育実践における重要な課題です。たとえば 行事や全学年での活動が予定されたとき、子ども一人 ひとりの思いがどのように発揮されているか、丁寧に 見ていくことは大切です。 ある園でいもほりの様子を見ていた時のことです。 園庭で育ててきたさつまいもをこれからみんなで掘ろ う、と 5 歳児担任保育者がクラスの子どもたちに話し ていますが、園庭が広いので、掘り出したさつまいも を園舎までどうやって運ぶかが話題になりました。す ると、ある子どもが「コロコロ転がるやつで運ぶ」と、 4 歳児のときのいもほりで 5 歳児が使っていた台車の ことを思い出して言いました。保育者はいいアイデア だねと認めた上で、他に使えそうなものはあるかなと さらに聞きました。子どもたちはそれぞれに考えて、 「新聞紙」とか「たらい」と意見を出していきます。 保育者は「なるほどね。新聞紙、今どこにある?」と さらに質問をすると「工作コーナーにある」と子ども が知っていることを言葉にして情報を共有します。保 育者が「今 3 つ出てきたね。それくらいでいけそう?」 と聞くと、待ちきれない様子で数人の子どもが台車を 取りに倉庫に走っていきました。保育者は笑って「あ りがとねー」と声をかけ、他の子どもたちもうずうず している様子を見て「コロコロ転がるもの、新聞紙、 たらい、ようし、探しに行こう」と言うと、子どもたちはそれぞれに思うものがあるところへ走っていきました。

 ところが新聞紙を持ってきて広げてみると、風で飛んでいきそうです。保育者が「どうする?」と聞くと
「石拾ってこよう!」と石を拾いに再び走っていく子 どもたち。園庭のいろいろなところから重しになりそ うな石を拾って運んでは、新聞紙の上に置いていきま す。ある子どもは新聞紙の真ん中に石を置いていまし たが、その様子を見た友達が「端っこに置いたら?」 と新聞紙が飛んでいかないようにするという目的に沿 って自分の考えを伝えて、友達の考えと合わせてより よい対応策をとっています。中には台車を使って自分 の顔より大きな石を運んできた子どももいます。5 歳 児クラスの子どもたちはこれまでの経験を生かし、目 の前の課題に対してよりよい解決策を生み出そうとし ているようでした。

行事や活動をスムーズに進めようと思うと、つい大 人側が用意して、子どもは決められた範囲の行為を行 うだけになりがちです。子ども自身が目的に応じて何 が必要か考え、友達と一緒に動きながらさらによい考 えを生み出していけるように、この園の保育者は子ど もの発想や行為を受け止め、さらに問いかけて明確に したり、子どもの行為を言葉にして伝え、子どもの間 をつないだり、子どもが生活を創る主体となっていく ように支えていました。子どもが生きる主体である生 活を創るために、どのような毎日を積み重ねるのか、 あらためて問いかけられているように感じました。

【新連載】ゆるやかに一緒になっていく ― 思いを寄せて共に過ごす   4 回シリーズ(3)

京都教育大学 教育学部幼児教育科 教 授 古賀 松香

 園生活は、子どもがさまざまな人と共に生きる生活へ向かうスタート地点になります。その大事なスタートを、あたたかさの中で、そして子どものペースで歩めるようにと願います。今年度、私はある幼稚園の3歳児クラスに定期的に観察に来ています。入園した当初は保護者と離れられず、毎日園で保護者と一緒に過ごしていたあいちゃんも、7月のこの日は朝小走りに「せんせーおはようございます!」と後ろを振り返ら ずに保育室に入っていきました。

この日はプール遊びが予定されていたので、保育者 は保育室でプールカードを点検していると、テラスの 方から泣き声が聞こえてきました。保育者はパッと声 のした方を見て立ち上がると、近くにいたサキちゃん が話しかけてきます。サキちゃんと会話しながら「ち ょっとミトちゃん泣いてるから、行ってみよう」とサ キちゃんの手を取ってテラスへ出ます。「どうしまし たかー?」と声をかけますが泣いて言葉にならないよ うです。どうやら、だんごむしの入った飼育ケースの 土の入れ替えをしようと、先生を待っていた途中で心 細くなったようでした。保育者は「お待たせやったね。 みんなの分あるかなーってみてたんよ。」とカードを 見せながら 1 枚ずつ数えあげていると、周りに子ども たちが寄ってきます。保育者は数え終えたカードをま とめ、立ち上がる時に、ミトちゃんの手をそっと取り ます。ミトちゃんはすっと保育者について歩きます。 保育者はミトちゃんの思いを受けるように、テラスに置いてある飼育ケースを一緒に見ながら「だんごむし さんのおうちをきれいにしてあげようと思うんだけ ど」と周りにいる子どもたちに話します。すると、シ ョウちゃんはじっと飼育ケースを覗き込みます。保育 者は「じゃあミトちゃんもお靴履いていこうか」と言 うと、ミトちゃんは泣きながらもはっきりと「うん」 と答え、靴を取り出し始めました。一緒に外に行こう と思ったのか、帽子をかぶりながらマコちゃんは「な んでミトちゃん泣いてるの?」と聞いてきます。保育 者は「なんでだろうね。朝からちょっと元気なかった みたいなんだよ」と言って、ミトちゃんの靴を出すの を手伝い、しゃがんで見守っています。そうしている うちにまた子どもが寄ってくるので、保育者は「だん ごむしさんのおうち」の話をし、話を聞いた子どもは 飼育ケースを覗き込み、そうか、と納得するのか、帽 子をかぶり靴を履いて、一緒にでかけようとしていき ます。中には、友達の帽子までとってきて渡す姿もあ り、保育者が「ありがとう」と声をかけています。保 育者が支えるゆるやかな集まりは、みとちゃんやだん ごむしさんのおうちにそれぞれに思いを寄せて、それ ぞれに支度をし、園庭に出かけて行きました。なんだ かわからない思いもそのままに受け止められ、思いを 寄せ合うことで支え合うような時間を過ごす。こうや って人と共に在るここちよさを感じ育つことの価値、 尊さを思うのです。

【新連載】しなやかに応じる   4 回シリーズ(2)

京都教育大学 教育学部幼児教育科 教 授 古賀 松香

 一人ひとりの子どもの今の思いに応じることは、言 うまでもなく大切なことです。子どもは、その子なり に周囲の事柄を感じ取り、関わってみるなかで、こう したい、ああしたらどうかなと思いを膨らませます。 思いの表現はその時々、一人ひとり異なるので、保育 者は行為としての表れに子どもの思いを感じ取ろうと し、推測しながら試行錯誤的に関わっていきます。つまり、子どもの思いの表現も、読み取る保育者もそれ ぞれなので、「一人ひとりに応じる」実態にはかなり のバリエーションがありうるわけです。

あるとき伺った園の 3 歳児たちと保育者はこんなふ うでした(名前はすべて仮名)。年度の後半の園生活、 3 歳児たちも安定し、さまざまな場所で遊びが展開し ていました。担任保育者はそこここで子どもと遊びな がら、必要なところを支え、楽しく展開し始めたらま た次の遊びへ、という援助を行っているようでした。 そんな中、担任が廊下を歩いていると、3 歳児のはる ちゃんが「鶴折って」と言ってきました。担任は「鶴? 鶴って難しいよね」と歩きながら話し、ちょうどそこ を通りかかった用務員の澤さんに「澤さん、鶴折れ る?」と声をかけました。すると、「昔は折れたけど、 今も折れるかなあ」と澤さん。はるちゃんは担任と澤 さんの会話の行方を聞いています。担任は「大丈夫! 絶対できるよ!」と澤さんを 3 歳児の保育室に招き入 れます。折り紙を机の上に出し、澤さんを 3 歳児用の小さな椅子に座らせて、「はい、どうぞ、お願いしま ーす」と笑顔で頼みました。はるちゃんも担任も椅子 に座り、澤さんと折り紙の様子を見ます。担任は「思 い出して!絶対できる!」と笑顔で励まします。その 楽しそうな雰囲気を感じ、机の周りに 3 歳児たちが集 まってきます。澤さんは「昔は折れたんだけど」と言 いながら、折り始めます。すると 3 歳児たちは澤さん の応援をし始めました。「昔を思い出すんだ!」「自信 を持てばできる!」とあちこちから面白い応援が飛ん できて、澤さんの折り鶴遊びは、一緒に楽しむ観衆た ちによって盛り上がっていきました。その盛り上がり の中で、担任はスッと立ち上がり、他の遊びの援助に 移っていきました。

鶴折ってと言ってきたはるちゃんの思いに、担任は どう応じるか、瞬時に判断していました。はるちゃん はなぜ鶴を折ってほしいのか、それで何がしたいのか は判然としませんが、鶴を折ってほしいという願いは 明快です。担任との関係も安定している時期に、鶴を 折るのは担任でなくてはならないか。担任がそのまま 受けとめるのではなく、鶴を折ることは叶えながら、 広がりのある展開はできないか。観ていた私は、この 展開を相当な変化球に感じましたが、子どもも澤さん も鶴を折る時間を楽しみ、一方の担任は共に楽しみな がらもクラス全体の子どもの援助を可能にしていまし た。子どもの思いに応じる保育者のしなやかな豊かさ に感嘆した一場面でした。

【新連載】直線的に生きない   4 回シリーズ(1)

京都教育大学 教育学部幼児教育科 教 授 古賀 松香

 私たち大人はたいてい時間に縛られて生きていて、 忙しいあまりに無駄のないように過ごそうとします。 学生たちの中では「タイパ」という言葉が使われ、時 間対効果(タイムパフォーマンス)が悪いことは切り 捨てていくような風潮すらあります。できるだけ直線 的に、効率的にと、追い立てられているような気持ち になることもあります。

その対極を生きているのが子どもです。子どもは今 このときを生きる天才です。子育て生活は直線的に生 きようとする大人と、地図も時計も予定表ももたない 世界で生きている子どもとの間で、どう折り合いをつ け、共に楽しい時間を生み出すかという大人の知恵が 試されます。一方の幼児教育の現場には、子どもため の場や時間が広がっており、ときどきハッとさせられ るます。

あるとき伺った園ではこんなふうでした。その日は 月曜日で、週末の間にいろいろに抱えてきた気持ちを 吐き出すように表現する子どももいれば、関わりを求 めずどこかに引っ込んでしまうような子どももいて、 さまざまでした。保育者はあちこちから声がかかり、 常に身体は子どもにふれられたりのっかかられたりし ていましたが、声をかけてこない子どもにも関わりな がら過ごしていました。ある女の子 2 人はそんな忙し そうな保育者に「竹馬を出してほしい」と言っていま した。四方八方からくる子どもの思いに廊下で対応を していた保育者は、その声をキャッチして「そうだっ た、竹馬ね、行く行く」と立ち上がり、園庭の倉庫の方に歩き出しました。倉庫は保育者と一緒に行く場所 のようで、観ていた私は、ことの顛末を見届けようと ついていきました。すると、そこにスッと別の男の子 が近寄ってきました。保育者は彼と一緒に歩きながら にこやかに話しかけ、園庭に出ると思いきや、出口の ところに座って話し始めました。なんでもない日常の 会話です。やわらかな笑顔と声を交わして、2 人はゆ ったりと座っています。

観ていた私は「ここで座る?」と驚きました。当然、 竹馬を出しに子どもとまっすぐそちらに行くと思って いたからです。しばらくすると、保育者と男の子は、 ああ、そうだ、竹馬だった、と立ち上がり、男の子は 満たされた顔をして、一緒に園庭へと出ていきました。 倉庫の近くでは女の子たちが話しながら、待つでもな く過ごしています。

このひとときが、どんなにか彼の心をあたたかくし ただろう。頼まれたことをすぐに解決しようとしてし まうことは、子どもにも大人にも寄り道を許さないこ とに、いろいろなことに出会う機会を奪うことになっ てはいないだろうか。余白があることで、関わりの豊 かな時間がひろがっていく。子どもと共に生きようと する保育とは、こんな名付けようもない時間があちこ ちにあるものなのではないか。そんな「直線的に生き ない」保育の価値を考えさせられた一場面でした。