龍短における幼稚園教員の養成2 学生たちの学び(1)」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
前回お知らせしたように、今回は、幼稚園で観察実習(1週間)を終えた本学の学生たちの学びの様子を報告させていただきます。
今年(2012年)の3月に実習を終えた学生たちに、事後指導の一環として、「幼稚園教諭の仕事」についてのマップ(地図)を書いてもらいました。私の方から、「幼稚園教諭の仕事」と中心に記されたA3用紙を学生一人ずつに配布し、「幼稚園教諭の仕事(活動・業務)として、実習を通して自分が観察したり経験したりしたことを、思いつく限り列挙し、関連づける」、「観察実習で行ったことを思い出して描く(書く)」、「真ん中にある『幼稚園教諭の仕事』から、派生させたり関連させたりしながら、自由に描く(書く)」という指示をしてマップを作成してもらい、その後、自身のマップを見て各自が気付いたことをワークシートに書いてもらいました。ここでは、その一部を紹介いたします。
まず、ほとんどの学生たちは、マップを描くことによって、幼稚園教諭の仕事(業務)が膨大であること、また、それらが断片的ではなく相互にかつ複雑に絡み合い関わり合っていることに気付いたようでした。加えて、これらの仕事(業務)はすべて子どものことと(程度の差はあれ)関連していること、それゆえに、責任を伴うものであることを学んだ(もしくは再確認できた)、という学生が多かったようです。これらの点は、例えば、「一つの物事からいろいろなことが派生していて、何らかのつながりがある…(中略)…教師の仕事は、子どもたちと関わることだけではなくて、その周りの環境に配慮したり、教師同士で会議などで行っていたコミュニケーションをとったりと、とても広い…(中略)…一見つながりのないものだと思っても、派生していたものをたどっていくとつながりがあって深いなと感じました」、「実習中には深く考えていなかったところを、今回改めて書くことで、これはどうなんだろうと思うところがたくさんありました。また、全く関連していなさそうなものが意外と関係していたりして、発見することもたくさんありました。…(中略)…教師の仕事というものは、事務的なことよりも人間関係や子どもたちの援助や支援の方が大きいと感じ、保育者を目指すにあたってどういうことをすればよいのかということが見えてくるのではないかと思いました」という学生のコメントに見受けられます。
さらに興味深いコメントとして、次のものも紹介したいと思います。「(教師の仕事は)本当に終わりがないということをマップにしてみてとても感じました。この仕事はここまできたら終わりといった印もなく、むしろ他になにをしていったらよりよくなるだろう、自分がまだ気づいていなかった点も他の人と話すことからまだまだあるということ、など、することがだんだん増えていくこと、増やしていけることによってよりよい仕事になっていく職業だと感じました。視点も一つではなく、親目線、子ども目線、先生目線などさまざまなことを全て含めて考えて行動していく仕事だと思いました」。これは、まさに学び続ける専門家としての教師像の一端を把握している現れとも言えるでしょう。1週間という短い期間であっても、学生たちは仕事(業務)という視点から幼稚園教諭に関する振り返り(省察)を行った結果、教師の専門性という観点にまでつながる知見を学ぶことができたようです。こうした学生たちの学びや気付きについては、次回でも紹介したいと思います。
「龍短における幼稚園教員の養成1:実習の体系」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
龍谷大学短期大学部では、2011(平成23)年度より「こども教育学科」という学科が新たに立ち上がりました。これまで保育士養成の機関として、その歴史を50年近く積み重ねてきました本学は、こども教育学科の開設により、幼稚園教員の養成も行うことになりました。幼稚園教諭と保育士資格の両方を取得することが(とりわけ短大において)当然視されている近年の傾向からみると、本学はいわゆる後発組といえるでしょう。
新学科が開設されて2年目に入りましたが、幼稚園教員養成に関する実習や就職等の進路のことなど、すべてが初めてのことばかりであり、暗中模索、試行錯誤の日々を過ごす中で、ようやく1年が過ぎたというのが率直な感想です。それでも、昨年入学した学生は早くも卒業年次生として、日々学生生活を楽しく過ごしている様子が窺えます。
そうした中で、本学の一教員として私が養成等について感じてきたことや考えてきたことを、今回、この連載の場を借りて、少しばかり述べさせていただきます
まず、本学の教育実習の体制について紹介します。本学は、教育実習を観察実習(1週間)と本実習(3週間)の2回に分けて行います。実習を行う時期は、観察実習の場合、1年次の2月下旬頃に1週間、そして本実習の場合は2年次の10月頃に3週間、となっています。この原稿を執筆している段階(2012年8月)では、こども教育学科の2年生は、今年の2月に観察実習を終え、10月の本実習に向けた準備を行っている状態です。
さて、先に実施した観察実習に関しては、お世話になった園の先生方から、戸惑いのお声を少なからず頂戴しました。その主なものは、「1週間では短すぎる」、「1週間という実習は聞いたことがない」といったものです。(京都に限らず)他の大学や短大では、2週間を2回に分けて行うパターンや、4週間を一括して行うパターンの実習が多いようです。1週間+3週間というパターンも見受けられるのですが、その場合、最初の1週間を大学の付属幼稚園で行うのがほとんどのように思われます。しかし、本学には付属幼稚園がなく、そのため、観察実習の1週間もさまざまな幼稚園にお願いすることになったのですが、この点が、実習を引き受けていただいた幼稚園の先生方に少しばかり異例のことのように感じられたようです。このことを受けて、本学では幼稚園実習のより良いあり方について、早速検討に入っているところです。
とはいえ、1週間という短い期間の実習でも、お世話になった幼稚園の先生方のおかげで、学生たちは多くのことを学ぶことができたようです。例えば、幼稚園教諭の仕事の特徴や求められる力量、子どもの育ちの特徴などについて、学生たちは自分なりの発見をして、いろいろな形で理解を深めることができました。次回は、そうした学生の学びの様子等を報告させていただきます。
「保育の四季 その4 2月―劇遊びのなかの自然」
京都橘大学教授 神谷栄司
幼稚園では2月頃に生活発表会が行われることが多い。しかも、かなりの割合で劇が取り組まれているようだ。
それはすでにその園の習慣となり伝統ともなっているであろう。
しかし、時々は「なぜ劇遊びなのか」と自問してみることも意味のあることである。
なぜ劇遊びなのか
幼児の劇には、ことばと身ぶりがあり、背景画や小道具などの絵画・製作があり、歌もある。つまりは総合的な表現活動なのであるから、保護者に子どもたちの姿を見てもらうには格好の機会となる。さらに、子どもたちが劇に面白さを感じ、その物語に共感することができると、そこには、良い意味で「背伸び」した「精一杯」の表現と成長が見られる。面白いから可能になる「背伸び」である(より正確にはヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」の展開であろう)。
だが、幼児の劇をめぐっては一種の誤解がある。大人の劇あるいは小学生の劇をモデルにするという誤解である(また、その逆に舞台上で「自由遊び」を繰り広げれば良しという誤解もある)。それらの誤解は、幼児がどのように物語を理解し共感しうるのかという幼児の独自性を深めないことに由来している。
大人が、小説にせよ脚本にせよ、熱中して読んでいるとき、眼は文字を見ているのに、頭のなかではその場面・出来事・人物の映像が浮かんでいる。大人がそれだけのことばの水準を持っているからである。だが幼児はそうはいかない。物語を読み聞かされて、それだけで理解や共感を得る子どもはわずかであろう。挿絵があるとはいえ、ことばだけで出来た物語は眼に見えない(それが大人との違いである)。人の外側で物語を眼に見えるようにすること――それが劇遊びである。自分がある役をもちながら、相手役の子どもの身ぶりを見る。他の子どもたちが身ぶりやことばで創り出している場面と景色を見る。そのように、ことばを可視化するものが劇遊びなのだ。これを通して幼児には理解と共感が生まれてくる。これが、物語の理解や共感をめぐる幼児の独自性の本質であろう。
劇のなかの自然
さて、5歳児の劇を見ていると、4月以来、自然に親しみ、それで遊んできたことが支えているなぁ、と感じることがある。「バンビ物語」を例にとれば、母親に連れられて初めて早朝の草原に出たバンビが花や草を見つける。「あっ、お花だ」と言ってバンビが近づくと、それはチョウであって、ふわりと飛んでいく。「あっ、草だ」と近づくバンビを見ると、バッタが跳び出していく。台詞がひとつもなくチョウやバッタになって飛んでいく子どもたちの身ぶりが何とも生きている。勢いがある。こんなところに自然の体験がふっと顔を出すのである。
木の葉がいっぱい落ちている晩秋の森を駆け巡るバンビとその仲間。バンビたちが疾走すると木の葉が舞い上がる、という両者の絡み合いもリアルであった。そして冬が近づくと、風が木の葉を吹き飛ばしていく。最後に飛ばされて舞う一枚の木の葉になった女児の身ぶりと表情が物悲しくもある。それは、バンビが母を失う狩場のシーンの序曲であった。こうして、私たちは子どもの想像の素には現実(自然)があることを教えられる。
そのように、劇遊びを支える回想された自然によって、保育の四季は幕を閉じる。ここに劇遊びの真の意味は一年間の保育のまとめであることが判るのである。
「保育の四季 その3 11月―木の葉とカマキリとボクの小さなドラマ」
京都橘大学教授 神谷栄司
初秋の運動会が終わると、園庭や園の周辺で、子どもを惹きつけてくれる自然はドングリと木の葉くらいしか残っていない。それらは、自らは動かない自然である。春から夏にかけて生命と生活のある動きを見せてくれる躍動的な小虫や小動物とは趣きが違っている。そうした静かな自然のなかにドラマが感じられるには幼児のさらなる想像力が必要となる。
木の葉への愛着
この場合、想像とドラマの出発点になるのは自分が見つけて気に入ったドングリや木の葉への愛着である。園外の林で、保育者が「自分の気に入った木の葉を一つだけ、幼稚園に持って帰ろう」と言うと、実に多様な木の葉が選ばれている。その理由は、「穴が空いているのがいい」「真っ赤なのがいい」「半分黄色で半分緑なのがいい」「緑の線が入っているのがいい」「パリパリなのがいい」など様々だ。保育室には幼児ひとりひとりが作った「宝箱」が待っている。皆でそれぞれの木の葉を紹介しあったあと、その箱に木の葉を大切に置くのである。これを起点に、園庭の木の葉を同じように拾ったり、木の葉についての絵本を読んだり、木から飛び降りたり風に飛ばされる木の葉について話し合い身ぶりで表現したりする。何日かが経つと、毎日、数名が登園前に見つけた木の葉を園に持って来るようになる。
ある4歳児の物語
晩秋のある朝、4歳の男児がそのように持ってきた木の葉をクラスの皆の前で紹介してくれた。登園直後に保育者に見せて話したのであろうか、保育者はその子の話をうまく補う。それによると、この子は登園途上で立ち寄った公園の木の葉の吹き溜まりでこの木の葉を見つけた。気に入ったので、これを幼稚園に持って行こうと思い、手にしたところ、木の葉の下で「カマキリさんが寝ていた」(死にゆくカマキリであろう)。男児はカマキリさんも「寒いから葉っぱをお布団にして寝ているのだ、悪いことをしたなぁ」と思い、その木の葉をカマキリさんにそっとかけてあげた。ところが、あたりを探しても、先ほどの木の葉が一番良く思え、何度も、その木の葉を手にしたり、カマキリさんに返したりした。そのうちに、その木の葉によく似た木の葉を見つけたので、新たに見つけた方をカマキリさんにかけてあげた。そのようにして持って来たのがこの木の葉だ、という紹介だった。その一枚の木の葉にカマキリさんとボクの心温まるドラマが隠されていたのである。
子どもの心を育ててくれる自然
たしかに人間を育てるのは人間である。だが、教育熱心な大学教員には「学生を育てるのは教員だ」という一種の思い違いがある。そうではなく、学生をもっとも奥深く育てるものは学問そのものだ(そのとき落語家が高座からふっと消えて噺の登場人物と化すがごとく教員も姿を消さねばなるまい)。それと同じように、幼児の心を深部から発達させてくれるものは、この一枚の木の葉、自然そのものではないのか。僕は園からの帰り道、そんなことを考えていた。
「保育の四季 その2 6月のツバメたち」
京都橘大学教授 神谷栄司
6月の梅雨のさなかに涼風を吹き込んでくれるのはツバメである。よく考えてみれば、幼児の眼に野生の鳥のひとまとまりの生活を見せてくれるのはツバメくらいのものであろう。それに比べればスズメやカラスは生活の断片しか見せてくれない。巣作りから出産と子育て、飛びのための「教育」、そして巣立ち。これらすべてが人間生活のすぐ隣りで営まれている。つまり、保育の素材という視点からすれば、これほど重宝な鳥はいない。
中くらいの自然の世界
10年余り前に気づいたのであるが、4~5月の園庭での小虫や花や木々から想像されるドラマを「小さな自然の世界」とするならば、ツバメやお池(カメ、ザリガニ、カエル)は「中くらいの自然の世界」を創り出している。その理由は、園外に出かけて見る世界であることやひとまとまりの生活を見せてくれるだけではない。ツバメの世界は「ひとまとまり」といっても、半分は見られるが、もう半分は見られないので、「小さな自然の世界」と比べると、一段と子どもに想像することを求めるからである。子どもの眼をひきつけるツバメの巣も、幼児の眼の位置からすれば、実はあまり見られない。子ツバメも最初は小さく黄色いくちばしと鳴き声だけが判る程度であろう。相当に大きくなって初めて子ツバメは黒い上半身を見せてくれる。親ツバメの餌やりはよく見えるが、飛んでいる姿はなかなか眼にとまらない。巣の真下に落ちている虫から、親ツバメが虫をつかまえて餌にしていることは判るが、ツバメが虫を捕らえているところは見えない。このように、眼に見えたものから見えないものを想像するのである。
「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」
ある幼稚園の公開保育研究会で、5歳児組のツバメの保育を見ることがあった。そこで、実に子どもらしいことばを聞くことができた。「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」である。巣の前にある大木をよけて飛ぶ親ツバメを見て、「よけとび」ということばが生まれ、それに続いて上方を飛ぶツバメは「うえとび」、地上すれすれに飛ぶツバメは「ぎりぎりとび」だという。大人が与えたのではない、子どもに由来することばには、子どもの感情と想像がいっぱい詰まっている。そうした実際に見てきたツバメやその巣について話し合われたあと、子どもたちは身ぶりで「自分の」ツバメを次々と表現しだした。最後は、それぞれの飛びをする全員のツバメの乱舞である。実に楽しい。子どもたちの喜びが伝わってきた。そして、そこにある子ども各人の小さなドラマをクラス皆の共通のドラマにしていくのが一歩先にある課題だろうな、と感じた。
自由遊びでのツバメごっこ
上記のホールでの保育の前には、保育室でツバメごっこが行われていた。子どもたちは勢いよく大積木でいくつかの巣をつくり、それを基地にして、部屋中を飛びまわったり、なかには、園庭にまで出て飛んでいったりするツバメの子どももいた。保育者が「さあ、ツバメごっこをするよ」と誘うのではない。子どもたちから「積木を出していい?」と尋ねてくるのを待つのである。そのようにして始まるツバメごっこには勢いがある。自由遊びはやはり子どもたち自身のものである。
「保育の四季 その1 4月の園庭」
京都橘大学教授 神谷栄司
幼児の発達にとって、身の周りにある自然は欠くべからざるものである。それは、小学生の発達に教科書や書物が果たしている役割と同じようなものであろう。
10年以上も前になるが、かの倉橋惣三が著した「系統的保育案」(1935年)を読んだとき、「観察」欄に「とかげ、たね蒔き」「桜の花」「椿」「おたまじゃくし」「藤の花、毛虫」(1学期第1~5週)と園庭の自然と戯れる幼児の活動が挙げられていた。昔も今も幼児は身近な自然が大好きなんだ、と嬉しくなった。もっとも倉橋には、幼児が接する自然を、彼の保育理論の中心である「誘導保育」の主題にのせていくという構想力はなかったのであるが。
園庭の自然が幼児を誘う
旧知の保育者の4月の記録を読んでみた。「桜の花びら」「チューリップ」「ハチ」「タンポポの綿毛」と園庭で子どもたちの眼にとまったものが、一見すると脈絡もなく、2~3日づつ取り上げられている(小さな主題)。しかし、よく読んでみるとそれぞれにつながりがある。桜吹雪が眼にとまった。その花びらがチューリップのなかに入っていた。ちょっと暖かな日に園庭にハチが飛んできた。そのうちに園庭のすみに咲くタンポポに綿帽子ができていて、そこにもハチがやってきた。すべてが実際に子どもが見たことである。設定保育では、見てきたことを話しあったり身ぶりで表現したりし、その日に見たものの歌を教えたり(3曲)、チューリップのちぎり絵や桜の木、タンポポの絵画・製作をしたりしている。タンポポの綿毛については絵本も読んでいる。
屋上から見た桜の大木には
まことに無理のない自由な保育の展開である。4月によく掲げられる目標「楽しい幼稚園」の一つの姿であろう。ところが、記録を読みすすむと、保育の展開はそのような位置づけだけではなかったのである。
タンポポの綿毛をとりあげた最後の日に、保育者は子どもたちを屋上に誘い、そこから皆でタンポポの綿毛を飛ばした。その屋上からは桜の大木が目と鼻の距離にある。その日の記録を引用しておこう。
「綿毛をひとつずつ、屋上で飛ばす。すくそばの桜の木のおウチに毛虫がいるのがよく見える。子どもたち『毛虫や!』。下にも探しに行ってみる。おウチにたくさんいる(あちこちの)を見る。数匹、下にいたのを手にする。女児たちがまったく怖がらないのが不思議だった。この日は毛虫を見つけたことの話し合いのみする。」
幼児の興味に従いつつ
記録には、その後、一か月ほど毛虫の保育が展開され、最後の1週間は自由遊びのなかで自発的な「毛虫ごっこ」で皆が遊んだ、とあった。
幼児が日々眼にした小さな自然に導かれた極めて自然発生的で脈絡のないように思われる4月の保育は、同時に、ちょっと大きな主題に導いていく意図的なものでもあったのである。記録をここまで読んで、僕は思わずつぶやいていた――「にくいお方やなぁ」と。そして、保育の本質は《興味にもとづく幼児》と《意図を持った保育者》の相互の働きかけと反応にほかならないが、幼児と保育者のそれらの具体的な比重や姿は一年間の時期によって大いに異なっていることを教えられた。
4月は幼児の興味にもっとも従うべき時である。
「本学における実習指導のありかた」
稲垣 実果
教育実習を進めるにあたり、実習指導は不可欠です。本学では、二年生前期・後期を通して週1回90分の時間を設け、現場実習(6月に10日間、9月に10日間)の事前指導、事後指導を中心に実施しております。実習指導の内容は大きく分けて三点ございます。
一つ目は実習の事前指導です。授業形態としては、講義及び視聴覚教材を用い、実際に実習を行うための知識を獲得するのみでなく、実習に臨む自身の目的や課題を明確にすることにも重点をおいて指導を行っております。内容の詳細は、
①教育実習の意義・目的の理解
②教育実習の心構え
③実習園の理解(実習園調べ)
④実習に向けての抱負と課題の整理、実習園とのオリエンテーションのもちかたについて
⑤実習記録の記録方法・意義について
⑥実習訪問担当教員による実習直前指導(実習に向けての準備事項の確認、実習中のマナーについての再確認)
となっております。さらに以上の内容の他に、教育現場の教職員を講師として招き、実習生としての態度や保育の奥深さ・楽しさなどを含め、講演をいただく機会も設けております。また、実習に対する不安が強い学生や目的意識が希薄に見える学生に対しては、実習担当者による個別面談を数回行い、個別の事情に応じて対応しております。
二つ目は実習中の指導です。実習中の指導は訪問担当教員の訪問による指導が主となります。実習園の実習指導担当者の先生方との連携をもとに、実習生への助言・指導を行っております。指導に関しては個々の学生の実習状況により、訪問後の実習がより良いものになるよう、自身の実習における態度の振り返りを促し、改善方法について具体的に指導を行うよう配慮いたしております。訪問担当教員は、実習園訪問後に学生の様子や指導の内容等を記録した報告書を作成し、事後の指導や学内の教員の共通理解に役立てております。
三つ目は実習の事後指導です。事後指導においては、訪問担当教員による実習の総括や実習記録の確認および実習反省会を行い、自身の今後の新たな課題の設定に向けて学習目標を明確にすることに重点を置いています。さらに、それぞれの学生が様々な実習園で実習を行った経験を互いに報告しあうことができるよう、グループでの意見交換も行います。さらに、キャリア教育も含めた事後指導を行い、学生の実習体験を深め、更なる成長につながるための指導を心がけております。
以上のように、実習指導においては、学生一人ひとりが実習を通して自分を見つめ、保育者・教育者としての可能性を拡げることができるように、段階に応じた指導を行うよう努めております。もちろん、実習指導の授業のみでなく、本学では全ての専門科目において、保育者・教育者に必要な資質・能力を育成することを目的のひとつとしています。教育現場での実習を経験し、精一杯の力で臨んだ学生は、その後、大学の学習に対する態度にも変化がみられます。そして、授業内での発言も、少しずつ幅広く奥深いものになってきます。このような学生の成長のために貴重な機会を頂戴いたしております実習協力園の先生方には、心より深く感謝申し上げます。それと同時に我々養成校の教員も、学生を実習へ送り出し、実習後現場へつなげるための指導について、より一層の努力を行うことの責任を強く感じております。
「教育実習における学び」
稲垣 実果
教育実習は保育・教育の現場に赴き、子どもとの触れ合いのなかで自らの心と身体を使い、能動的・積極的に学ぶ実践的な体験です。私はこの数年、養成校での実習授業を担当致しております。実習に臨むにあたり、学生は初めのうちは緊張・戸惑いの連続ですが、子どもたちの育ちや豊かな発想に対する驚きや、現場の先生方の子どもたちに対する深い配慮を目の当たりにし、保育・教育の奥深さ・面白さを感じるとともに職務の重さ・尊さについても体感するようです。
実習は、実習生にとって学内で学んだ知識を実習の場で実践する場ではありますが、子どもと遊ぶ、絵本を読む、歌唱指導をするなど一つひとつのことがうまくいかず、子どもたちの反応も想定外のことばかりです。しかし、現場の先生方のご指導を受け、自分の保育を振り返り改善の努力を行うと、子どもたちの反応が変わり、そのことでわずかながらも自身の成長を感じ、今後の糧になるというとても貴重な経験をさせていただいております。ある学生は、実習の事後報告で以下のように報告してくれました。「前回の実習では部分実習の手遊び・絵本の読み聞かせをさせていただき、その時は手遊びをしているとき、一部分しかみられていなかったり、自分と子どもたちのしている手遊びが違い、止まってもう一度はじめからやり直したり、絵本を読む声が小さかったり・・・中略・・・季節感を見落としていました。今回はその反省を活かし、声を大きくすることを心がけたり、全体を見渡したり、アクセントをつけたり、自分の気持ちを変えてみたり、絵本も季節感を考えて選びました。反省会のときに先生方から私の表情に“楽しい絵本を読むよ”という雰囲気が表れていて、子ども自身も興味が沸き、絵本に集中できていたと言っていただきました。これからもたくさんの経験をつんで、自分の力を磨いていこうと思いました。」
このように学生は実習における日々の実践のなかで、はじめて気づいたこと・予測しなかったことなどから自身が一方的な思いで行っていた関わりを見直し、新たな課題を設定し、今後の学びにつなげていくということを繰り返しながら少しずつ実践力を培っているのではないかと思います。
積極的、能動的に学ぶ姿勢というものは、大学内における講義等の学習だけではなかなか身につきません。実際に、子どもたちの豊かな反応や現場の先生方の保育に直接触れることで自身の課題に気付き、それを乗り越えるという実習での体験が不可欠であると思います。またそのような経験を重ねることで、「未来の保育者・教育者としての自覚」の芽生えがみられ、実習後大きく成長を遂げる学生も少なくありません。実習に多大なご協力を頂いている現場の先生方に心から感謝申し上げますとともに、養成校におきましても成長過程にある学生の学びを支えるような実習指導の実現に努めてまいりたいと思っております。
「自分をコントロールするとは?」
京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 講師
稲 垣 実 果
子どもの自分をコントロールする力、つまり自己制御に関する代表的な研究のひとつに、1960年代から現在に至るまでアメリカで継続的に行われている「満足遅延テスト」というものがあります。実験者が子どもの目の前にマシュマロを置き、「これを食べずに我慢したら、あとでご褒美があります。だから、私が帰ってくるまで食べずに我慢してね。」と説明し、実験者が去った状況で、どれくらいの時間マシュマロを食べずに我慢できるかを測定する実験です。この実験の結果、4歳の時点で待機時間が長い幼児のほうが、10年後の学業や友人関係、様々な問題への対処能力が高いことが示されました。さらに、責任感に富み、ストレス状況下での生産性も高いことが明らかになっています。
しかし、自分をコントロールする力とは、自己制御能力のみを意味するのでしょうか。心理学的には自分で自分の行動をコントロールする力には2つの側面があるという考えがあり、自分の意思・願望・感情を抑える自己抑制的側面のみではなく、“いやなことを主張する”“遊びたい遊びに他の子を誘って遊ぶ”などの自己主張・実現的な側面も含まれるともいわれています。柏木(1988)によると、この2つの側面は幼児期にそれぞれ異なった発達をみせます。自己主張・実現は、3歳から4歳後半にかけて急激に増加しその後の変化は少ないのに対し、自己抑制は3歳から小学校入学まで一貫してなだらかに伸び続けるということが分かっています。
また、自分をコントロールする力の2つの側面の発達が子育て方略とも関係していることを示した研究もあります。水野・本城(1998)は、自己主張・実現面と自己抑制面の両方が発達している子どもは、子育てにおいて説明的しつけ方略が多く用いられていたことが示されています。
以上のように、どのように自分をコントロールするかということが、その子ども自身の自己発達の中核を成すといっても過言ではないでしょう。またその力は、周りの大人の子どもに対する接し方にも多く影響を受けます。自己主張・実現的側面も自己抑制的側面も、自分の可能性を拡げていく上で、さらに人間関係を築いていく上で重要な側面です。それは子ども自身が、遊びやいざこざのなかで身につけていくものですが、周りの大人からの子どもの自己主張や自己効力感(~できるという気持ち)を支えつつ、自分をコントロールする力を少しずつ身につけられるような援助も必要なのではないでしょうか。
『青年教職員とともに進みましょう』
日本児童文学者協会会員
中西 実
わたしは、5年前から、京都市内で『せんせのがっこ』(中西教室)を立ち上げ、青年教師の実践力を高めるための学習会を組織しています。かつてわたしが青年だったころも、ベテランの先生方に随分叱咤激励されて支えられてきましたから、その恩返しのつもりで活動しています。
さて、近年、ヨーロッパのある国の洞くつで、大昔に書かれたと見られる大きな落書きが発見されました。そこに記されていたことばは、「最近の若者は、なってない!」。この事実からもお分かりのように、いつの時代も若者は非難されやすい対象であるようです。でも、果たして、ほんとうにそうなのでしょうか。阪神・淡路大震災や東日本大震災などで、すぐ現地に飛び、献身的に救援活動をしているのは圧倒的に青年たちだし、文化やスポーツなどで大活躍している青年もたくさんいます。
ここで、中西教室に熱心に参加してくれている青年を二人紹介しましょう。一人はTさん。東京の会社で数年働いてきたのに、何気なく読んだある教育書に感化され、苦労の末、教師の道に入ってきた青年です。まだ数年しか経っていないのに、すばらしい実践をしています。実は、先月の『せんせのがっこ』の例会で実践報告をしてもらったのですが、その内容といい、進め方といい、わたしなんかがいなくても、すばらしい学習会になっていました。もう一人のYさん。彼女は、講師時代がわたしと同じ職場ということもあって、何かにつけてわたしを頼ってきてくれました。「この学級通信、真っ赤に添削してください」、こんな要求もしてきました。苦手なピアノにチャレンジするなど、学ぶ姿勢も人一倍あり、砂漠に水がしみ込むように何でも自分のものにしていく人でした。(この人の実践は、三木順子という仮名で、3冊目の拙著『笑顔あふれる子育てのひ・み・つ』にくわしく紹介している。興味のある方はご一読を)
さて、これからの教育界は、いろんな意味で厳しさを増していくことでしょう。でも、未来は明るいとわたしは感じています。なぜなら、情勢が厳しければ厳しいほど、青年たちは貪欲に学んでいくし、仲間たちと力を合わせて困難を乗り切っていくようになるでしょう。もちろん、壁にぶつかった時には、その都度、的確なアドバイスをしてあげたいものです。でも、そんな場合でも、「君は弱輩者だから、わたしが教えてあげる」というような高圧的な姿勢はとりたくありません。わたしたち自身に、青年たちからも謙虚に学ぶ姿勢がいります。まさに、「切磋琢磨」。お互いが信頼しあえる関係になれば、すばらしい教育実践が展開されていくのではないでしょうか。
ともに、明日を夢見ながら進んでいきましょう。