新連載

3回シリーズ(3)

「子どもの存在と時間」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子

 子どもは日々大きくなる。身体ばかりではない。いつどこで覚えたのかと大人が戸惑うような言葉を子どもは急に口にすることがある。また、今までどうしてもできなかったことが、突然できることもある。大人は子どもの成長に期待し、子どもはそれにこたえようとますます張り切って新しいことにチャレンジする。子どもの時間は止まっていない。前へ前へと速度を増しながら進んでいく。

 大人にとっても時間は留まることなく進んでいく。未来は現在に呑み込まれながら過去へと流れ去る。指の間から砂がさらさらと滑り落ちるように、今この瞬間が過ぎ去り消えてしまうものなら、生きているということは流れに身を任せ、その時その時を刹那的にやり過ごすことなのだろうか。そうであるなら、身の置き所がどこにもなく、自分自身が不確かなもののように思えてくる。経験の世界では、捉えどころのないのに名前を付けることによって形をもち、理解できるものになるということがしばしばある。なんだか体調がすぐれず病院に行き、医者に病名を告げられはじめて自分の状態に納得したという人も少なくないことだろう。時の流れについても同様で、「○○の時間」と名
付けることによって現実を区切り、確認できるものになる。しかし一方、言葉に置き換えることでなにか空々しいものとなり、自分とはかけ離れたものに感じることもある。

 生きていることそのものを捉えることはできないのだろうか。ある教育学者は、人間が生きている最も単純で原初的な形を「気分」や「雰囲気」と呼ぶ。気分は「何とも言えない気分」という言い回しが示すように明確な対象をもたないが、人間の活動にあるまとまりと固有な色彩を与える。素朴で根源的な自分のあり方を示すものが気分である。また、「子どもが自ら意識している感情のなかで現れることのない、子どものなかで現れるひとつの内的な情態、内的な充実の状態」は、「庇護性」であるとその教育学者はいう。庇護性とは安全な世界に包み守られている安心感と信頼感に満ちたものであり、庇護性こそが根源的な教育的雰囲気だというのである。

 人間は生きていく中で自分自身に不確かさを感じることが幾度となくある。その時、自分が誰かにまるご
と受け止められ守られていたことを思い出すことができたら、どんなに救われることであろう。庇護性は、そこに根を張りそこから大きく延びていく大地ともいうべきものであろう。大地に立っていたかつての自分を確認できれば、今の自分をも確認できるのではないか。幼児教育は、自然界で最も弱い一本の葦にすぎない人間にとって、戻っていくことのできる確かな基盤を創り出すことに思えてならない。