新連載

【新連載】3回シリーズ(3)

就学前の擦り込み(その3)

龍谷大学短期大学部 こども教育学科 教授 羽溪 了

 前回(5 月号)は、教育上何の根拠もない題材設定と、こども達の反応から、就学前後に底通する問題を話題にしました。今回は、優しい先生が困った題材を何とかしようとされる実践を紹介しながら、問題を見つめていきたく思います。

 「〈まずベロを描こう。〉と四つ切画用紙を渡し、ベロを描く大まかな場所と大きさを伝えるとともに、どのように描いたらいいのかを指示した。教師も、黒板に同じように描いていった。〈次は、唇を描こう。〉〈唇の次は、鼻を描こう。〉と、顔のパーツを一つ一つ描くようにした。指示を出す度に、子どもたちの絵を見てまわると、あちこちから〈この大きさでいいですか。〉〈どうですか。〉〈この場所に描けばいいですか。〉と心配そうに聞いてきた。」

 幼稚園でも時々みかける実践です。この話題を学生達と共有し一緒に考えています。そのやり取りの中で明らかになってくる問題を紹介します。

 一つは、「この様なやり方では、みんな同じ絵になってしまい気持ちが悪い。」「こどもの表したい思いやイメージが育たない。」という意見です。描く手順等を見せてやるやり方を如何に考えるか?領域表現や図工科で目的とする「こどもの心を育てる」という視点から考えています。

 みんな同じ絵になる、本来育てるべきこども一人一人のイメージが育たないと、理解はするものの、次のような意見を出す学生たちもいます。「描けない子にとっては、有り難いことではないか?」「絵が苦手だったので、助かるような気もする」等々。如何でしょう?確かに「あるある」です。実はこの二つ目の問題が、最も厄介で難しい問題です。

 この問題は「描ける・描けない」「上手・下手」「得意・不得意」と言う絵に対する考えです。本来は、描きたい・表したい思いが育っていないことが問題で、生活の中で遊び込めていない、心を動かすような経験の不足、すなわち日頃の保育環境に繫がる問題としたいところです。保育における表現活動の問題として、常に考えなければならないのは、この問題です。しかし、残念ながら問題はそこではなく、<見た目に近い>形が描ける=上手=得意、描けない=下手=不得意という意識のようです。現実の形への拘りが自ずと芽生えるのは、小学校の中学年頃で、就学前後で育てるものは、見た目の形を表すことではなく、感じ想像する心であり、それを何の気兼ねもなく表せる姿です。
しかし、見た目の形に囚われる心の定規が、知らぬ間に形成されてしまってはいないでしょうか?

 私たちが上手と思う絵は、絵が描けると思う子の絵は、どういう絵でしょう?その思いがついつい言動に出ることが、こどもの心に大人が誉め期待するイメージがいつしか出来てしまうのではないでしょうか。出来上がった心の定規が邪魔をして、描けない、下手・不得意との思いをさせているのではないでしょうか?そして就学後、先生の期待通りに出来るかとの思いに縛られるこどもになっているのでは?シリーズ冒頭に話題としたこどもの姿に繫がってきます。日頃から胸に手をあて考えてみたいところです。

 「就学前の擦り込み」と、少々乱暴な標題で3回に渡り書かせていただきました。十分深めることが出来ませんでしたが、紹介したこどもの姿から、就学前に関わる私たちが、今一度何が大切なのかを考える機縁となることを願ってやみません。