管外研緊急レポート

管外研緊急レポート

今年の京私幼連盟の管外研修は6月28日(木)~30日(土)の日程で福島県を訪れました。その最大の目的は言うまでもなく、東日本大震災で被災された幼稚園関係者の皆さまに直接お話を伺うことでした。

そして、お話をお聞きすることで、テレビや新聞などの報道では知り得ない、震災発生直後から現在までに、現場の中で起こっていたことに直接触れ、私たちが京都からどのような支援をするべきなのか、何が出来るのか。そして、京都に住む私たちが学ぶべきことは何なのか。そのようなことと向き合う機会となれば、という思いで二つの幼稚園を訪問させていただき、関係者の先生方から大変貴重なお話を伺うことが出来ました。

そして、改めて、大震災の爪痕は今も深く深く関係者の皆さんの心の中に残り続けていて、復興までにはまだまだ遥かに遠い道のりであること、国や東京電力の賠償もほとんど手つかずのままであること、行政はこのような未曾有の事態でも前例にこだわり例外を認めないこと、などなど聞くこと全てが驚きの連続でした。

しかし、そのような中にあっても福島の皆さんは、「子ども達の笑顔を見たら、しんどいことや、嫌なことなんか吹っ飛んでしまう」と笑顔で応えて下さいました。

「京都の私たちはどんなことをしたら良いのでしょうか?」そんな問いに「どうかお願いだから、私たち、福島ことを忘れないで欲しいんです。京都にいる福島の人にも声をかけるだけ、本当にそれだけでいいんです。」その言葉を聞いた途端、こみ上げる涙を我慢することは出来ませんでした。そして、参加者全員が、京私幼連盟として今後とも絶対に皆さんを支援し続けていかなければならないと、深く胸に刻んだ瞬間でもありました。

 このレポートをお読みいただくことで、一人でも多くの方が、私たちと同じ気持ちになっていただければ嬉しい限りです。今後とも皆さまの温かいご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。

(社)京都府私立幼稚園連盟
理事長 藤本明弘

  

【報告1】  6月28日 郡山幼稚園協会(みらい幼稚園)

  • 郡山市は人口34万人。市内に私立幼稚園は33カ園、公立幼稚園が5ヶ園存在。
    公立幼稚園の運営に関して、郡山市は毎年3億円の財政負担を継続するのが困難な状況となる。

  • 郡山市私立幼稚園協会と郡山市が協議した結果、郡山市私立幼稚園協会が新たな「学校法人郡山私幼協学園」を設立し、
    「みらい幼稚園」を設置することとなった。

  • 「みらい幼稚園」設立にあたっては既存の私立幼稚園の通園地域に比較的影響の少ない地域である「喜久田幼稚園」が5つの公立幼稚園から選ばれた。
  • 「みらい幼稚園」は郡山市私立幼稚園協会の「幼児教育研究実践園」としての指定を受け、
    幼稚園協会、郡山市、専門機関、大学などと連携を図りながら、幼児教育の進展に寄与する役割を果たすべく誕生した。

  • その間、非常に多くの市民から公立幼稚園存続の署名が寄せられ、行政当局ではなく、郡山私幼協会の役員が住民説明に奔走する。
  • 郡山私幼33カ園は、園児一人当たり1、000円×在園児総数6、000人の合計600万円を毎年積み立てて、5年間で3、000万円という目標額を達成した。
  • その3、000万円は学校法人開設のための基金として、33ヶ園から学法に寄付された。
  • 園地・園舎ともに郡山市から無償で借用できることとなる。
  • 平成17年3月31日に郡山市は5つの公立幼稚園を廃園。
  • 平成17年4月1日 学校法人郡山私幼協学園みらい幼稚園が開園 定員140名 5クラス 
    この数はもともとの公立幼稚園「喜久田幼稚園」とほぼ同規模。

<成果>

  • 市内全私立幼稚園が資金を拠出したことで、協会としての結束が図れた。
  • 研究指定園ということで、特別支援等の高い専門性を持った教員が配置出来る。
  • 教職員の資質向上を図るための研究の実践が図れる。

<課題>

  • 公立幼稚園の運営のための3億円が市の財政から削減されたにも かかわらず、私立幼稚園に対しての補助額はほとんど増額されなかった。
    行政と私幼協会の関係は従来から良好ではあったが、こと財政面の話となると、郡山市が赤字運営のため新たな道を切り開くことは容易ではなかった。

  • 結果的に5つある公立幼稚園が全廃されたことで、郡山市は担当者も代わり、当時の経緯も知らない状況。
    もはや幼稚園は私立任せの状況となり、行政でも責任を負うという姿勢が無くなってしまっている。
    結論的には公立を全廃するのではなく、1つだけ残しておく方が良かったと感じている。

子どもたちに手品のプレゼント

29日富岡幼稚園でお話を伺ったあと、在園の子ども達に手品のプレゼントをしました。
何が始まるのか息をのんで見守る子ども達でしたが、不思議な手品が始まると、目が真ん丸・・・「あれぇー??」といった様子で大喜び!

手品で出てきたハーモニカの演奏に合わせてみんなで歌も歌いました。

子どもたちにとっては、いきなりの京都のおじさん、おばさんに囲まれて緊張気味でしたが、最後はみんなでバスに手を振ってお見送りに出てくれました!

【報告2】  6月29日  富岡幼稚園

地震当日

幼稚園は平屋園舎で高台にあったので、地震・津波の被害は免れた。地震発生時は降園バス運行していたが、運転手さんの機転もあり、園児全員無事帰宅した。預かりの園児が10人くらい残った。当日は温かく、上着がなかったが、突然雪が降り始め、毛布などで寒さをしのいだ。一切の情報がない中で、「富岡駅が流された。」とか「6号線から海沿いの家が流されている。」などの情報のみが錯綜した。
夜10時近くまで子どもを預かったが、電気や水がない、寒さの中、石油ストーブでお湯を沸かし、飲んで寒さをしのいだ。
携帯電話がが不通になることを予想していなかったので、保護者に連絡がつかなかった。

  • 今回の様な緊急時の対応・対策を幼稚園、保護者で共有する→発生してからでは遅い。
    あらかじめ決めておくことが必要

  • 連絡が取れない場合の対処が重要

避難命令

翌日、幼稚園を片付けることになり、職員は帰宅したが、翌朝に避難命令が出て、職員にも連絡が取れない状況になった。
この時点で原発のことは一切知らされなかった。
人工池が決壊するかもということで召集され、避難所に移動、福島第一原発から放射能が漏れているという噂が、体育館に流れ始めた。
役場の人は何も教えてくれなかったが、副園長先生のご主人のiPadで海外ニュースから現実を知った。
夜中に自衛隊のヘリが空をすごく飛び回り不安な思いでいっぱいだった。
夜が明けるのを待ち、体育館を出て、自宅に帰り、車を出したが、どこに、どの方面に逃げるかが分からなかった。
関東などの人口が多い場所でパニックになるのも不安だし、東北・関東一円が被害受けていると感じたので内陸に移動することにした。

コンビニも水・食べ物は品切れ、水が出ないのでトイレにも行けない。福島空港には車が周辺に乗り捨てられていた。
本当に現実の出来事か、信じられない気持ちだった。その後、会津若松の温泉に12日午後に入った。

  • 保存食、水、毛布、燃料、現金等の日常的備蓄が必要

当初の対応

初めは2~3日で落ち着いて家に帰れると思っていた。警戒区域のためそれもかなわず・・・
しばらくして落ち着いてようやく幼稚園のことを考え始める。卒園式のこと、子どものこと、職員のこと。
福島の幼稚園協会のHPに副園長先生の携帯を載せる。→入園料を返せなどの苦情が入る。
何も持たずに避難したが、大事な個人情報をなぜ持たないのかと苦情もあった。
警戒区域だが防護服を着て、幼稚園に入れた時に、書類だけ持ち出し返金した。非常時に様々な人間性に出会った。
初めの一年は本当にきつかった。

その後

「白梅幼稚園(会津若松)」の先生から電話があり、良かったらうちの幼稚園の電話やファックスを使ったらと言っていただいたので、1か月くらい事務機能を借りることができた。そのうえ、理事長先生が高齢のため、3月で休園予定の「みずほ幼稚園」を「白梅幼稚園」に譲渡することが決まっていたが、もしよければ避難している子どもを集めてここ(会津若松の白梅幼稚園)で、再開したらどうかと提案受け、23年9月に再開した。但し、非難している子どもだけ募集することを、会津若松の幼稚園団体と約束した。

しかし避難の子どもはすでに4月から地元の幼稚園にみんな既に入園していた。9月では遅かったので、集まった子どもは6人だった。

行政の対応と八方ふさがり

・東電賠償→学校法人は国の財産という考えから賠償が全く進まない現状、
とりあえず仮払い程度250万のみ→賠償は後まわし→いまだに本当に出るのかも不明
役所は前例がないことは出来ないと一点ばり、1000年に1度の地震と、今まで起きなかった原発事故で前例がないのはあたりまえなのにと、腹立たしい。
国に言うと、国は県にお金を渡しているから、県に言ってくれという。県は上記のような対応。
さらに、休園すると財産は凍結されるので、建て替えのための貯蓄があったが、休園するとそれも国のお金ということになる。
園児が来なくなると幼稚園は休園せざるを得ない→休園となると財産凍結→東電から賠償があっても再開のめどが立たないと、八方ふさがり
全く出口のない状態だが、しかしこれが学校法人の現実→今回初めて知ったこと

いずれは無茶な選択を迫られる

富岡町の4つの私立幼稚園のうち、もうひとつの学校法人→4月に向けて認定こども園として建て替え、
3月10日に引き渡されたばかり、その翌日に地震が発生。本当に悲劇。
私立幼稚園は地域密着型なので、他の土地で再開することは非常に困難であると、つくづくと感じる。子どもがゼロになると本当に何もできない。
富岡町の中で幼稚園のあった場所は、比較的被害小さかった。
避難区域解除となって幼稚園も、継続したいなら戻るしかないと県には言われるが、現実に子どもがその地域に戻るのは一番最後。
解除になっても、子どもがいない状なのに、幼稚園としては戻るしかない、極めて無茶な選択を迫られることになる。

腹立たしい話

富岡のコンベンションホールが避難所になっていたころ、「プレハブで幼稚園を仮設で。」と希望したところ回答は、
「公立の幼稚園の先生も余っているが公務員だからクビに出来ない。
私立幼稚園にやってもらう必要はないし、私立幼稚園はいくら教育といっても営利企業でしょう。」と、副町長に言われる。
最初に義務教育、公立幼稚園。そして私立幼稚園は後回し。私たちは、幼児教育は大切と認識しているが、社会はそうは認識していない。
あくまでも義務教育、公立優先ということを思い知らされる。

悲しみは深く・・・

ニュースをみると1年半経ち、宮城や陸前高田の津波被害の幼稚園の再開が伝えられている今、自分たちは全く復興できない。
失ってしまっても再開でいる人たちがうらやましいし、自分たちは町に入ることすらできない。トンネルの出口すら見えない。
本当にどうしようもないし、自分達では何もできないとは言え、誰も何もしてくれない。しかも帰ることもできない。でも、何かしないと頭がおかしくなる。
原発被害が更に深刻化すると、今度は300キロ立ち入り禁止となる。そんな中で臨機応変な対応を一切してくれない行政。

原発のこと

全く進んでいない原発対策、水も垂れ流しのままらしい。
東電関係社員→11日の夜、避難所には東電本社の親子は誰もいない、子会社の親子のみが避難所にいた。
本社家族は11日の夜にすでに避難、那須から東京に避難。
作業限度、当初20ミリシーベルト年間が、今は250ミリシーベルト→あまりにも違う数値
いままでは、年間1ミリシーベルトだったのに、20ミリシーベルト以下なら帰れるというのが、国基準になったのも不思議で不安
空気中はともかく、地面は針が振り切って計れないくらい。1日0.2マイクロシーベルトが年間の限度だということを考えると会津若松で限界。
食品は会津は水も食べ物は安心だが、神経質な人はネットで関西から取り寄せている。避難するなら、子どもがいるなら、1メートルでも離れたいのが親心。

今・・・

子どもの声を聞くと生きがいを感じる。とにかく皆さんには、福島のことを忘れないでほしい。それが一番のお願いです。
自分が忘れられていることを、ひしひしと感じる。首都圏の新聞を見ると、話題にも出ていない。
「そういうこともあったね。」という他人事で、もう過去のことという捉え方が今の現実。しかし、私たちは3月11日のまま何も変わっていない。