新連載

「保育の四季 その2 6月のツバメたち」4回シリーズ(2)

「保育の四季 その2 6月のツバメたち」

京都橘大学教授 神谷栄司

  

 6月の梅雨のさなかに涼風を吹き込んでくれるのはツバメである。よく考えてみれば、幼児の眼に野生の鳥のひとまとまりの生活を見せてくれるのはツバメくらいのものであろう。それに比べればスズメやカラスは生活の断片しか見せてくれない。巣作りから出産と子育て、飛びのための「教育」、そして巣立ち。これらすべてが人間生活のすぐ隣りで営まれている。つまり、保育の素材という視点からすれば、これほど重宝な鳥はいない。

 中くらいの自然の世界

 10年余り前に気づいたのであるが、4~5月の園庭での小虫や花や木々から想像されるドラマを「小さな自然の世界」とするならば、ツバメやお池(カメ、ザリガニ、カエル)は「中くらいの自然の世界」を創り出している。その理由は、園外に出かけて見る世界であることやひとまとまりの生活を見せてくれるだけではない。ツバメの世界は「ひとまとまり」といっても、半分は見られるが、もう半分は見られないので、「小さな自然の世界」と比べると、一段と子どもに想像することを求めるからである。子どもの眼をひきつけるツバメの巣も、幼児の眼の位置からすれば、実はあまり見られない。子ツバメも最初は小さく黄色いくちばしと鳴き声だけが判る程度であろう。相当に大きくなって初めて子ツバメは黒い上半身を見せてくれる。親ツバメの餌やりはよく見えるが、飛んでいる姿はなかなか眼にとまらない。巣の真下に落ちている虫から、親ツバメが虫をつかまえて餌にしていることは判るが、ツバメが虫を捕らえているところは見えない。このように、眼に見えたものから見えないものを想像するのである。

 「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」

 ある幼稚園の公開保育研究会で、5歳児組のツバメの保育を見ることがあった。そこで、実に子どもらしいことばを聞くことができた。「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」である。巣の前にある大木をよけて飛ぶ親ツバメを見て、「よけとび」ということばが生まれ、それに続いて上方を飛ぶツバメは「うえとび」、地上すれすれに飛ぶツバメは「ぎりぎりとび」だという。大人が与えたのではない、子どもに由来することばには、子どもの感情と想像がいっぱい詰まっている。そうした実際に見てきたツバメやその巣について話し合われたあと、子どもたちは身ぶりで「自分の」ツバメを次々と表現しだした。最後は、それぞれの飛びをする全員のツバメの乱舞である。実に楽しい。子どもたちの喜びが伝わってきた。そして、そこにある子ども各人の小さなドラマをクラス皆の共通のドラマにしていくのが一歩先にある課題だろうな、と感じた。

 自由遊びでのツバメごっこ

 上記のホールでの保育の前には、保育室でツバメごっこが行われていた。子どもたちは勢いよく大積木でいくつかの巣をつくり、それを基地にして、部屋中を飛びまわったり、なかには、園庭にまで出て飛んでいったりするツバメの子どももいた。保育者が「さあ、ツバメごっこをするよ」と誘うのではない。子どもたちから「積木を出していい?」と尋ねてくるのを待つのである。そのようにして始まるツバメごっこには勢いがある。自由遊びはやはり子どもたち自身のものである。