新連載

【新連載】3回シリーズ(2)

「白でも黒でもない保育の世界(2)」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回は,日本だけでなく,世界の様々な国や地域で,大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく,そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が起こっていることについて書きました。

 日本の保育で,大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく,「どちらも」が見られる生活経験に,園における行事があります。

 行事は,日本の保育を語る上で欠かせないものです。秋田(2011)は,日本の子育てについて,アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソン諸国とは異なる伝統と文化的信念をもつこと(エスピン・アンデルセン,2000)を挙げ,園のカリキュラムが,読み書きや社会性といったような個人の能力領域をもとにした構成ではなく,園の生活経験の活動領域を柱にし,日々の生活と遊びを基盤に構成されていることを指摘しています。行事は,そのような園の生活経験を考える上で節目のような役割を果たしてきました。

 川田(2019)もまた,日本の保育にとって,行事は本質的な役割をになっていると言います。そして,それは個人個人に何かのスキルや知識が身につくということではなく,もっと集団的な側面を意味するものであることを示唆しています。

 日米の教育現場の調査・研究を続けているキャサリン・ルイス(1995)もまた,アメリカ人の眼からみた日本の小学校や幼稚園での行事について興味深い指摘をしています。アメリカに比べて,日本の初等教育は,知的な発達だけではなく,社会の一メンバーとしての発達を大切にする全人教育であり,そこに行事が重要な役割を果たしているというのです。どういうことでしょうか。例えば,運動会では,足が速い人,力が強い人にスポットライトが当たり,クラス(社会)の一メンバーとして欠かせない人と周囲に認知されます。クラスで出し物をするときは,子どもがそれぞれの経験や個性から生まれる持ち味を出すことで,クラス全体のものができあがっていき,雰囲気ができていきます。それぞれの子どもの持ち味が見えてきたり発見されたりして,それがそのクラス(社会)にとってかけがえのないものになり,同時にその子ども自身にとっても発達の節目を刻んでいくものになることが,社会の一メンバーとしての発達ということの意味なのでしょう。

 このような園行事は,大人主導か子ども主導かの「どちらか」では進めることができないものです。大人がすべて決めて,それを子どもに「やらせる」行事については見直しが進んでいます。意識しなければ,すべて大人が主導して見栄え良く終わらせることができる活動なので,大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり,つくり手になるかを考えていかねばならないものだと思います。とはいえ,どんなに子ども主導で行おうとしても,「子どもの育ちの節目になりそうだから,来週運動会をやります」ということはできないので,時期などは大人が前もって決めて主導する部分も多分にあるのが行事です。何より,子どもたちの日々の生活のなかでの育ちや経験,「この人は今こんな様子だから,こんなことを経験してほしい」,「この人たちとこんなことをやってみよう」という保育者の丁寧なみとりに基づく思いや願いがあり,子どもたちと織り成していくものが行事だと思います。

引用文献
秋田喜代美・佐川早季子(2011)保育の質に関する縦断研究の展望. 東京大学大学院教育学研究科紀要, 51, 217-234.
エスピン= アンデルセン,G. 渡辺雅男・渡辺恵子(訳)(2000)『ポスト工業経済の社会的基礎−市場・福祉国家・家族の政治経済学』櫻井書店
川田学(2019)『保育的発達論のはじまり:個人を尊重しつつ、「つながり」を育むいとなみへ』ひとなる書房
Lewis, Catherine (1995) Educating Hearts and Minds:
Reflections on Japanese Preschool and Elementary
Education, Cambridge University Press.

【新連載】3回シリーズ(1)

「白でも黒でもない保育の世界(1)」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 「なんでも見守るべきなんでしょうか。見守ってばかりだと、遊びがバラバラで続かなくて…」
「でも保育者の思いが、子どもの自由な思いを囲い込んでいるような気もして…」

 保育を実践されている先生方がふとした瞬間にこぼす悩みやためらいに、こういう声が聞かれます。体を丸ごと投げ出して、子どもと同じ時を生きている先生方の葛藤する声として、なぜこのような悩みやためらいが出てくるのかを考えました。

 幼稚園教育要領や保育所保育指針の変遷を見る限り、現在は、大人主導の一斉保育型の活動ではなく、子ども主導・遊び中心の保育を目指している園が多いと言っていいでしょう。子ども主導・遊び中心の保育をシロだとするならば、大人主導の一斉保育型の保育はクロとでもいうような二項対立の図式が、この二つの保育方法(保育形態)を指す物言いには含まれているようにも感じます。シロかクロかの世界は、わかりやすいものであり、人はわかりやすいものに惹かれるものでもあるようです。

 2019 年12 月、イギリスの乳幼児教育研究センター(CREC)のホームページに、保育研究者であるクリス・パスカルとトニー・バートラムの対話が掲載されまし
た。その対話は、「ハイブリッドな保育方法」(Hybridpedagogy)をめぐるものでした。
「ハイブリッドな保育方法」とは何でしょうか。ハイブリッドカーが、電気とガソリンという二つの動力源を組み合わせて走る自動車であるように、ハイブリッド
な保育方法とは、異質に見える保育方法を組み合わせて行う保育と言えそうです。

なぜ、今、「ハイブリッド」という言葉を使うのでしょうか、また、異質に見える保育方法とは何を指すのでしょうか。2 人の保育研究者の対話では、次のように
語られています。

 子ども主導・遊び中心の保育と大人主導の保育には緊張関係があり、この二つの保育のあいだで「バランスの取れた保育方法」がよさそうだということについては根拠があります。でも、私たちの調査では、「バランス」というよりも「融合」「ブレンド」の方がしっくりくるということがわかりました。

 バランスというと、保育者が子どもたちに、大人主導の活動と子ども主導・遊び中心の活動を別々に提供しているように思えてしまいます。でも「ハイブリッドな保育方法」は、二つの保育方法が切れ目なく融合され、一つの活動のなかに入っているようなことを指しています。とは言っても、このときの大人主導の保育方法というのは、大人が強要したり強制したりするものではありません。

 この対話からは、大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく、そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が、日本に限らず、他の国でも起こっていることなのだということを確認できます。

引用文献
Pascal,C. , Bertram, C. & Fisher, J. (2019)“ Considering the value of a ‘Hybrid pedagogy’ for the EYFS: Chris Pascal and Tony Bertram in dialogue with Julie Fisher.”
CREC Homepage
http://www.crec.co.uk/announcements/considering-valuehybrid-
pedagogy-eyfs?fbclid=IwAR2AAeT578nNJp9t_faapi
Q9CW8DKD_5qWYy9DLgvYbncYZmY1omRw2WJ8k
(2020 年10 月30 日閲覧)

【新連載】3回シリーズ(3)

「大好きな歌」

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 人それぞれ、自分にとって“特別な歌”や“大好きな歌”というものがあるでしょう。私は長年歌うことを専門的に学び、学んだことを今、教員として還元している最中ですが、今回はその中で私にとって特別な一曲をご紹介したいと思います。職業柄、おそらく普通の人より多くの曲を知っている方だとは思うのですが、この曲を私に教えてくれたのは教え子のたみちゃんでした。たみちゃんは卒業間近のお別れが迫った最後の授業で「先生、これ私の大好きな歌やねん。先生、歌って!」と私に楽譜をくれたのです。その歌は「先生」という歌でした。

 たった8 小節のささやかな歌なのですが、歌い始めた途端、胸が熱くなり、涙が溢れそうになりました。
それから何度もこの歌を歌ってきましたが、歌う度にこみあげる涙をこらえるのが大変なのです。作詞・作曲をされたのは、保育・教育の世界ではとても有名な“ゆずりん”こと、中山譲さんです。8 番までの歌詞に「先生」という仕事の尊さや指標が凝縮されています。ここで歌詞をご紹介させていただこうと思います。

1:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どものことを好きでなければ先生にはなれない
2:いつも ニコニコしてるだけではだめだけど 心を許し 笑えなければ 先生にはなれない
3:情熱ひとすじ 向かうだけではだめだけど きらめく情熱 持てなければ 先生にはなれない
4:思った事を 話すだけではだめだけど 思いを言葉にできなければ 先生にはなれない
5:子どものそばを 歩くだけではだめだけど よりそい共に歩けなければ 先生にはなれない
6:子どもを守り かばうだけではだめだけど 子どもの生命 守れなければ 先生にはなれない
7:信じた道を 進むのはつらいことでも 仲間と夢を信じなければ 先生にはなれない
8:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どもを愛するあなただから 先生と呼びたい

 本来、私が歌を教える立場なのですが、この「先生」は私にとって、子どもが教えてくれた宝物の歌です。
この歌はその内容的に、子どもが歌うと何だか不思議な感じがするので、歌うシチュエーションは若干限られているかもしれませんが、私はこれから先生を志す学生たちや、現場で奮闘している現職の先生たちに向けて、そして無事に教職人生を終えられた同僚の先生のご退職の機に、心を込めてこの歌を幾度となく歌わせていただきました。

 自分自身が先生になって、子どもが教え、気づかせてくれることの方がずっと多くて豊かであるということを感じる日々です。私には残念ながらこんな素晴らしい歌を作る才能はありませんが、数ある歌の中から子どもたちの豊かな心を耕す歌を選びとり、心を込めて歌い、伝えていくことが私の使命だと感じています。素敵な歌をもっと素晴らしく、子どもが初めての歌との出会いに心を踊らせるような歌の伝え方を追求したいと日々奮闘しています。

 そして子どもたちが、これからの山あり谷ありの人生をたくさんの歌で彩り、歌とともにいろんな苦難も乗り越え、力強く成長していってほしいと願っています。そんな子どもたちを全力で支える「先生」でありたい。

【新連載】3回シリーズ(2)

「人に優しく、自分に厳しく」考

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 人はそれぞれ、生きていく上で大切にしている言葉があると思います。それは“座右の銘”と呼ばれるような、その人の生き方や戒め、モットーを表すような言葉の場合もあるでしょうし、日常生活や読書の中で出会った、心に残る言葉の場合もあるでしょう。私はいつからか、それらの言葉を心に留めておくため、すてきな言葉を「採集帳」に記録するようにしています。

そこには特に子育て期や子どもにかかわる場面での、たくさんの忘れがたい言葉が記録されています。その中で、今回は私の大切にしている言葉にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。

 私が自分に課している座右の銘は「人に優しく、自分に厳しく」です。いつごろからか、このような生き様が自分にとって最も理想とする姿であり、そうありたいと願ってきた言葉です。しかし、自分自身を律する厳しさを、時として他者にも求めてしまうこともありました。大学生の頃、アルバイトで家庭教師をしていた折、教えていた小学5 年生の女の子に勉強を頑張ってもらいたいという激励の意を込めてこの言葉をかけたところ、「どうして人に優しく、自分に優しくだったらだめなの? 私、みんなにも自分にも優しいのがいいと思う!」という想定外の答えが返ってきました。

キラキラした目で訴えたその子に私は「そっか、それもいいかもね」と妙に納得させられて、返す言葉も見つからなかった記憶が今も鮮やかに残っています。幸福感や優しさに溢れた彼女の性格は、彼女の生い立ちや家庭環境から醸成された彼女固有のものであり、彼女の生き方の道標は彼女自身が決めていくものだということを思い知った出来事でした。教育者を目指していた大学生の私が、自分の理想を押し付けようとしてしまったこの一件は、今も自分への戒めとして事あるごとに思い出しています。この時から私の座右の銘は「人に優しく、自分に厳しく。でももし自分にも優しくしたいという人がいれば、それもいいと思います」と、少し長くなりました。

 そして次はこの言葉にまつわる少々恨みがましいエピソードですがご容赦を。娘が4歳の頃、お世話になっていた保育園に仕事を終え、お迎えに行った際に、若い担任の先生からかけられたのがこの一言:「M ちゃんって、“人に厳しく、自分に優しい”ですよね~」。
娘がそう言われるような言動をしていたことも容易に想像はできたのですが、そうは言っても自分の大切にしている言葉の真逆の表現で我が子を形容されたショックは大きく、言い得て妙だと感心して笑えるほどの心の余裕もなく、失笑を残してその場を後にしました。

先生に一切悪気はなく、軽い気持ちで発せられた一言だと思うのですが、先生が発する言葉の重みを痛感させられた出来事で、10 年たった今でも苦々しい思い出として記憶されています。

 そもそも“人に優しく、自分に厳しい”幼児っているのでしょうか? この先生は3 歳児の本来の姿をどのように捉えておられたのでしょうか? いろいろ疑問の残る出来事でしたが、この一件からも大切なことを学びました。採集帳より自戒の念を込めて引用:「子どもたちのことをよく分かっている先生だからこそ、その子のことをうまく伝える言葉を、いや、うまく伝えられなくてもせめて真意の伝わる誠実な言葉を注意深く選び、その子の個性と思いを尊重しながら健やかな育ちを願う言葉をかけていきたい。」

【新連載】3回シリーズ(1)

「お節介おばさんになった日」

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 関西の梅雨入りが発表された翌日、ジメジメした空気とマスクの中の熱気をとても不快に感じながら、いつものバス停で職場に向かうバスを待っていた。その時、折りたたんだベビーカーを一生懸命広げようとしている女性が目に留まった。胸の前のスリングと呼ばれる布状の抱っこひもの中には赤ちゃんがいるようだ。手にも大きな荷物を持っている。おそらくさっきバスを降りたのだろう。こんな雨の日に大荷物で、しかもベビーカーで出かけるなんて、子育て熟練者に違いない。しばらく見ていたがなかなかベビーカーが開かないようだ。「あれ?もしかしてまだ慣れていないのかな?大丈夫かな?手伝いに行こうかな?」と思っているうちに無事に開いたので、一安心。胸にはとても小さな赤ちゃんの頭が見えたが、スリングは赤ちゃんには大きすぎるように思えた。

 バスがもうそこまで来ていたのでバスに乗ろうと赤ちゃんから目を離したその瞬間、女性のただならぬ悲鳴が聞こえた。振り返った時には赤ちゃんは雨に濡れた路上に落ちていたのだ。女性はパニックになり、その場に崩れ落ち、赤ちゃんを抱き上げようともせず、ただ泣いていた。慌てて駆け寄り泣いている赤ちゃんを抱き上げたが、それはまだ首もすわっていない生後2 か月の本当に小さな赤ちゃんだった。母親に「病院は?どこに行こうとしていたの?」と尋ねても気が動転していて答えられない。とにかく病院に連れていかなければ、と歩き出した時、彼女は震える手で携帯電話の地図を示し、「ここ」と病院を指示した。どうやら病院に連れて行こうとしていたらしい。母親に「大丈夫だから、しっかり!」と声をかけながら300 mほど先の病院まで急いだ。母親は大声で泣きながら空っぽのベビーカーを引きずり、何とかついてきている。

 病院で看護師に赤ちゃんを手渡した瞬間、力が抜けて安堵感が押し寄せてきた。半狂乱でその後到着した母親はよく見るとまだとても若く、新米ママさんで、出産後初めての検診をこの病院で受けるつもりであったと看護師が説明してくれた。看護師の話を聞き、安堵感のあとに押し寄せてきたのは自責の念である。「なぜベビーカーを開けるのに手こずっていた時に手助けに行かなかったのだろう。」「スリングが少しゆるいのでは?と思った時に、なぜ彼女はまだ不慣れなのだということに気がつかなかったのだろう………」。不慣れだからこそこんな雨の日に、慣れないベビーカー、スリングに大荷物でバスに乗るという暴挙とも言える行動に出てしまったのだろう。看護師の方も「私も電話で予約された時に、彼女に助言すべきでした」と反省されていた。

 保育者養成に携わっている職業柄、子育て中の人を応援したいという強い思いは常々抱いている。でも、やりすぎてお節介と思われるのが怖くて、躊躇する自分がいた。社会のつながりが希薄になってきたと言われる昨今、子育て経験、保育の専門的知識を有する者の援助を必要としている新米パパやママはたくさんいる。お節介と思われるか、ありがたいと感謝されるかを見極める線引きは非常に難しいが、世の中にお節介覚悟で若い親ごと育ててくれる大人たちが増えていってくれることを切に願う。保育においては、それが子どもの生命を守ることにつながっていくということを改めて感じる出来事であった。

 検査を終えた母親が電話で赤ちゃんの無事と感謝の意を伝えてくれたので、今、胸をなでおろし、自戒の念を込めてお節介おばさんはこの記事をしたためている。

【新連載】3回シリーズ(3)

就学前の擦り込み(その3)

龍谷大学短期大学部 こども教育学科 教授 羽溪 了

 前回(5 月号)は、教育上何の根拠もない題材設定と、こども達の反応から、就学前後に底通する問題を話題にしました。今回は、優しい先生が困った題材を何とかしようとされる実践を紹介しながら、問題を見つめていきたく思います。

 「〈まずベロを描こう。〉と四つ切画用紙を渡し、ベロを描く大まかな場所と大きさを伝えるとともに、どのように描いたらいいのかを指示した。教師も、黒板に同じように描いていった。〈次は、唇を描こう。〉〈唇の次は、鼻を描こう。〉と、顔のパーツを一つ一つ描くようにした。指示を出す度に、子どもたちの絵を見てまわると、あちこちから〈この大きさでいいですか。〉〈どうですか。〉〈この場所に描けばいいですか。〉と心配そうに聞いてきた。」

 幼稚園でも時々みかける実践です。この話題を学生達と共有し一緒に考えています。そのやり取りの中で明らかになってくる問題を紹介します。

 一つは、「この様なやり方では、みんな同じ絵になってしまい気持ちが悪い。」「こどもの表したい思いやイメージが育たない。」という意見です。描く手順等を見せてやるやり方を如何に考えるか?領域表現や図工科で目的とする「こどもの心を育てる」という視点から考えています。

 みんな同じ絵になる、本来育てるべきこども一人一人のイメージが育たないと、理解はするものの、次のような意見を出す学生たちもいます。「描けない子にとっては、有り難いことではないか?」「絵が苦手だったので、助かるような気もする」等々。如何でしょう?確かに「あるある」です。実はこの二つ目の問題が、最も厄介で難しい問題です。

 この問題は「描ける・描けない」「上手・下手」「得意・不得意」と言う絵に対する考えです。本来は、描きたい・表したい思いが育っていないことが問題で、生活の中で遊び込めていない、心を動かすような経験の不足、すなわち日頃の保育環境に繫がる問題としたいところです。保育における表現活動の問題として、常に考えなければならないのは、この問題です。しかし、残念ながら問題はそこではなく、<見た目に近い>形が描ける=上手=得意、描けない=下手=不得意という意識のようです。現実の形への拘りが自ずと芽生えるのは、小学校の中学年頃で、就学前後で育てるものは、見た目の形を表すことではなく、感じ想像する心であり、それを何の気兼ねもなく表せる姿です。
しかし、見た目の形に囚われる心の定規が、知らぬ間に形成されてしまってはいないでしょうか?

 私たちが上手と思う絵は、絵が描けると思う子の絵は、どういう絵でしょう?その思いがついつい言動に出ることが、こどもの心に大人が誉め期待するイメージがいつしか出来てしまうのではないでしょうか。出来上がった心の定規が邪魔をして、描けない、下手・不得意との思いをさせているのではないでしょうか?そして就学後、先生の期待通りに出来るかとの思いに縛られるこどもになっているのでは?シリーズ冒頭に話題としたこどもの姿に繫がってきます。日頃から胸に手をあて考えてみたいところです。

 「就学前の擦り込み」と、少々乱暴な標題で3回に渡り書かせていただきました。十分深めることが出来ませんでしたが、紹介したこどもの姿から、就学前に関わる私たちが、今一度何が大切なのかを考える機縁となることを願ってやみません。

【新連載】3回シリーズ(2)

就学前の擦り込み(その2)

龍谷大学短期大学部 こども教育学科 教授 羽溪 了

 前回(4 月号)では、就学前、すなわち保育の段階で、既に表現活動とは、予め先生が決めたことを行う、又先生が求めるもの=あるべき表現があり、それを意識して行うことだと、いつの間にか擦り込まれているこどもの姿を、そして場合によっては、決められたことを、先生が教えてくれる様にすると言う、暗黙のルールが擦り込まれてい
るこどもの姿を、就学したてのこども達の具体的な問いかけから考えてみました。

 今回は、その様な不安になっているこどもに対し、実践された事例を通して、新たに課題となるところを見つめていこうと思います。

 「4月、クレヨンを使って【歯みがきをしている自分】の絵を描いた。
 〈歯みがきしたことある人?〉と質問すると、全員が元気よく〈はい。〉と返事をした。ところが、〈歯みがきしている自分の絵を描こう。〉と投げかけると、ほとんどの子はパッと表情が明るくなったのだが、何人かの子は、〈どうやって描いたらいいかな。〉と心配そうな表情を見せた。」

 ここで疑問が起こります。何故、この時期のこどもにとって、“歯みがき”とういう本来超難しい課題設定がなされているのでしょう?小学校1 年生の図工の教科書には、このような題材はありません。それは当然、このような活動を裏打ちする「目標」も「内容」が学習指導要領にはないからです。
指導要領からの逸脱です。しかしこうしたことが、〈今までやってきたこと〉とだけのことで、公然となされている現状があります。これはこどもの形態認識や描画の発達の道筋からも、およそ自らの力では出来る活動ではありません。大人でも、いきなりこの題材を仕向けられたら、如何ですか?意外に難しいですよ。こうしたことが、就学前教
育の乱れに影響している一因かもしれませんし、又、その逆もあるかもしれません。

 題材が生活のひとつとして興味関心の持てる行為だから、明るくなったこどももいるかもしれません。しかし、その多くは就学前でとっくに経験しているから、安心して明るくなったのではないかと想像します。こども達が困らないなら、それでいいじゃないかと考えることも出来ます。しかし、本来の小学校1・2 年生では必要のない経験や、
育てたい力とは無関係のものを、何故就学までに経験させたり、育てようとするのでしょうか?そのことを小学校側から、もっと発信してもらわねばならないのですが、今回のケースの様に、その点への認識は持たれず、こども達の歪んだ心を解き放つこともなく、そのままの状態でスタートを切られます。

 こども達のその現状を現状としてそのまま受け入れ小学校側が、こども達の多くが既に経験済みだからと、言葉は悪いですが、胡坐をかいているのかもしれません。それでも、活動に戸惑いを示すこども達の存在に、優しい先生は「何とかしなくては」、との思いで、その対策を加味した実践に取り組まれます。本当にこども思いの優しい先生、
「良い先生」です。しかしその「良い先生」だけに罪が深い、問題が大きいことを、次回でご一緒に考えていきたく思います。

【新連載】3回シリーズ(1)

就学前の擦り込み

龍谷大学短期大学部 こども教育学科 教授 羽溪 了

 ある小学校の先生が、次の様に述べておられました。

 「一年生になったばかりの子どもたちは、期待と不安でいっぱいである。一年生になった誇らしさとともに、<もう何でも一人でできるよ。>と自信にも満ち溢れている。しかし、授業が始まると、<これでいいのかな。><何をしたらいいのだろう。><先生が教えてくれたようにできるかな。>と心配になり、自信が隠れてしまいがちだ。そして、頻繁に<先生、これでいいですか。><先生、何をするのですか。><先生の教えてくれた通りにできたかなぁ。>と、私の表情を伺ってくる。<ていねいにできたね。><いいね。ばっちりだよ。>と伝えると、<よかった。>と安心した様子になる。自分のことを認められたと感じた子どもの表情は、本当にキラキラ輝いている。すると、自ら次のステップを意気揚々と登り始めるのだ。」

 今これを読み、どの様な感想を持たれたでしょうか?本当は、お一人お一人に伺いたい、重要な課題があります。

 この様なこども達に対して、このあと取り組まれた様々な実践が紹介されました。間違いなくこども思いのとても優しい、素敵な先生だと感じました。しかし、小学校の教科・図画工作科として大きな問題を孕む実践が、残念ながら繰り広げられています。その実践内容は次回にまわしますが、今回話題にさせてもらいたいのは、「これでいいのかな。」「何をしたらいいのだろう。」「先生が教え
てくれたようにできるかな。」と心配になり、自信が隠れるこどもの姿。そして頻繁に「先生、これでいいですか。」「先生、何をするのですか。」「先生の教えてくれた通りにできたかなぁ。」と、先生の表情を伺うこどもの姿です。

 まさかこの様な姿が、こどもらしい姿だ、微笑ましい姿だ、とお考えの方はいらっしゃらないと思います。明らかに悲しい姿です。しかしこの様な悲しい姿は、既に就学前に育ち根付いてしまった、こどもの心の表れではなでしょうか?正に保育の問題が、ここに如実に突き付けられているのではないでしょうか?

 「これでいいですか。」と問う気持ちには、既にこうした表現活動では、あるべきものがある、先生が求めるものがあるからこそ、出てくる思いであり、言葉ではないでしょうか?「何をするのですか。」と問う気持ちには、既にこうした表現活動では、予め決められたことをするという、暗黙のルールがあるとの思い込みや、擦り込みがあるからこそ、出てくる思いであり、言葉ではないでしょうか?「教えてくれた通り出来たかな。」という思いには、既にこうした表現活動では、先生が教えた通りにするという、暗黙のルールが擦り込まれているからこそ、出てくる思いではないでしょうか?

 領域「表現」のねらいや内容とは異なる次元や理解で、絵画・造形的あそびがなされているからこそ、この様な擦り込みが出来上り、小学校へ進んでいるのではないでしょうか?

【新連載】2回シリーズ(2)

地域母子保健事業に関わって

京都橘大学 非常勤講師 齋藤洋子(保健師)

 乳幼児健診が真に子どものために有意義なものになるように私達は何をするべきか。
 健診の実施者は、保護者に必要な事を伝えなければいけません。責任として問題を見逃してはいけないのです。
 保護者は健康に育っていることを確認するために健診を受けます。両者とも「子どもの健やかな成長・発育のために」を願っています。
 健診を受診する時、その健診に良いイメージを持っておられるか、マイナスイメージで捉えておられるかで結果の受け止めは変ります。健診に対して信頼感を持っておられたら、結果を正しく受け止め、必要な事
がスムーズに繋がります。

 では、マイナスイメージは、どのようにつくられるのか。健診を受けた保護者がその時の印象を他の保護者に伝える、その中身が地域に拡散するわけです。母子保健の担当スタッフの力量が問われるわけです。
 しかし、保育所や幼稚園の先生が健診の意義を保護者に伝えていただくと、保護者同士で話があっても、その話題が暴走することは防げると思います。

 乳児期は心臓や股関節の異常等の早期発見の役割がありますが、それらより最近は子育て支援に重きが置かれます。妊婦のとき、新生児訪問のときなどに訴えがあったり気になる様子があったケースに、地区担当の保健師が保護者に寄り添って相談に乗ります。(地区担当制の保健師活動を行っていました)

 近年は虐待が社会問題化し、乳幼児健診や予防接種の場は虐待の発見、予防、抑止効果の場としての役割を期待されています。健診未受診児は必ず把握するために家庭訪問が必要になります。健診に行かないと虐待を疑われるとの保護者の意識から、健診の受診率はアップしています。

 乳幼児健診では、身体の発育だけでなく精神・言語・対人関係の発達についてもスクリーニングを重視し、特に3歳児健診は歯科・視力・聴力・尿検査など盛りだくさんの項目を取り組みますが、知的発達に問題がない児は1 対1 の面接では気づきにくいし、保護者も問題意識を持っていません。おのずと集団生活に入ってから一斉指示が聞けない等で気づくことになるのです。3歳児健診は市町村最後の健診ですがその後も相談に応じます。そのことを健診では必要と思われる保護者に伝えています。特に幼児期の発達に関わる専門職として臨床心理士や臨床発達心理士が活躍してくれます。

 就学してからの療育は就学前に取り組むより約3 倍の時間がかかると言われます。発達障害があっても児と保護者が前向きに生活できるように幼児期に土台をしっかりつくってあげられたらと思います。知的には問題の無い発達障害児は、周りの取り組み次第で、本人の才能を伸ばすことにも二次障害をつくることにも成ってしまいます。

 今後とも母子保健を実施する市町村の担当と幼児教育を担う保育所・幼稚園のスタッフが、連携しお互いに協力して子どもの成長発達を見守っていきたいと思います。

【新連載】2回シリーズ(1)

地域母子保健事業に関わって

京都橘大学 非常勤講師 齋藤洋子(保健師)

 市町村は、母子保健法で1 歳6か月児健診と3 歳児健診の実施を義務付けられ、その他は努力義務となっていますが、全国的に乳児期前期(3 ~ 4 か月児)健診、乳児期後期(8 ~ 10 か月児)健診を実施しています。
健診だけでなく、妊娠・出産・育児に関わり家庭訪問や相談、教室など様々な母子保健事業を実施しています。

 長年母子保健事業に関わり、就学前の子どもの育ちに関わりを持つ事の重要性を痛感していました。縁あって幼稚園教諭・保育士養成の非常勤講師をさせてもらいました。

 幼児教育課程の学生に最初に言うことは、「子どもは、大人とは違い未熟です。発育・発達途上人です。それと、
世の中には先生と呼ばれる職業はたくさんあります。小・中・高・大学と学校にあがっていきますが、保育所・幼稚園が土台ですから一番大事な仕事をする先生です」と強調します。大学で、将来幼児教育の仕事をして欲しいと思う男子学生がいましたが、彼は結婚する相手が安定した収入が得られない人だからと、企業への就職を希望しました。もっと日本の幼児教育に関わる職員の処遇改善が必要だと痛感しています。

 さて、保健所や保健センターで乳幼児健診を受けた保護者の方からどのような感想を聞いておられるでしょうか。

 健診の場面だけの子どもを見てなにがわかるのですか?細かいところを指摘して異常だと言わないでほしい。うちの子障害児だというのですか。いやな事を言われるから健診を受けたくない。など等聞いたものです。もちろんその反対の内容の方が多いのですが…

 健診で何をされるか親も子も緊張しています。3 歳児では発達のスクリーニングの項目を練習してくるケースもありますが、長年同じ年齢の子どもを健診の場で観ていると、毎日みている保護者には気付けないことも気づくことができます。だから、乳幼児健診は大事だし、スクリーニングで気づく問題点はそれなりに課題だと言えると思っています。

 乳児期の問題は、身体的な事が多いので保護者の方も健診で見つけてもらって安心されます。保護者は健やかに育っていることを確認するために健診を受診します。幼児期の健診は、それぞれの個性が表面に出てきますので、発達上の課題が見えてきます。対人関係の課題など、これからの学校生活や社会へでてからの困りごとがなるべく少なくなるように早期対応を就学までに取り組むことを目的にしています。

 実は乳幼児健診で問題点を指摘されても、じゃあどうしたらいいのというのが呈示してもらえないとしたら健診を受ける意味がありません。だから受け皿をしっかり作ることも大事です。母子保健事業を取り組むにはその地域で何が問題でその課題を解決するにはどのようなシステムや事業があればよいかを考えてきました。特に発達支援法が国会で採択された期を逃さず、長年必要と考えていた「( 仮称) 就学前のことばの教室」を事業化しました。就学までの早期アプローチが望まれたからです。(実現までに時間はかかりました)地域の母子保健システムを作っていくのはとてもやりがいのあることでした。