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【新連載】3回シリーズ(1)

「自らの思い出を語りましょう」

佛教大学 髙橋 司

  「先生がまだ◯◯ちゃんみたいに小さかった時のことよ。」
 と先生が子どもを前にしてポツリポツリと語り始めました。
 「先生はいつも幼稚園で泣いていたの。担任の先生はずいぶん困っておられたの。」
 子どもは顔をのぞき込み始めました。
 (先生は弱虫だったのかな)
 ときっと不思議に思うことでしょう。
 「幼稚園で逆上がりが出来なくて、べそをかいていたの。でも、毎日毎日お友だちと練習してやっと回れるようになった時は、とってもうれしかったよ。」
 「給食で嫌いなものが出た時、食べられなくて困ったことがあったの。みんなが頑張れ頑張れと励ましてくれて、やっと食べられるようになったの。」
といったように昔の体験を話してみましょう。
 子どもにとっては目の前の先生と、かつて小さかった先生と比較して考えるでしょう。
 このことで、先生のイメージがダウンすることはありません。
 子どもに語り継ぐことが大切なのです。完全な人間なんてありません。自分の体験から語り継がねばならないことを話しておきましょう。
 世の中の出来事も同じように話しておくことです。
 今までどのように生きてきたかを知ってもらう良い機会なのです。
 もちろん子どもにわかることばで語りかけをしなければなりません。理解できないことを話しても何もなりません。
 今の生き方を知らせるということは、人間としての価値に目覚めさせることなのです。
 「先生は、小さい頃、暗くなるまであそびすぎて、戸を閉められて外に出されてしまったの。」

【新連載】2回シリーズ(2)

「環境として伝える事」

㈱コト葉LAB. 代表取締役 安中 圭三

 よく部屋の中は家庭の雰囲気で環境構成して…と言う話を聞きますよね。
 「家庭…」「家・庭」「家+庭」…
 そうなんです。家庭という字は「家」と「庭」という字で出来ています。
 であるならば、部屋の構成を考える時は「庭」についても一緒に考えながら、環境構成をしていって欲しいなと思っています。
 かつての日本では、障子を開け放すと外の空気が全面的に入ってきて、そこで風鈴が鳴ったり…。
その外側には中の様な外の場所である縁側があり、そこでは庭で収穫した柿や梅を干していたり。はたまた、そこで昼寝をしたり。…と言った様に、いたるところで内と外とが曖昧に繋がって暮らしが成り立っていましたよね。
 家の中と庭での活動が生活として、分け隔てる事なく考えられていたように思います。しかしながら、現代の多くの家では、すでに「庭」なんてない家がほとんどになってきています。悲しいかな、子どもの育ちに外が介在しない生活へとなりつつあるのです。
 園舎もまた、どこか室内で完結しているつくりになってきていると言うべきか、縁側の様な内と外とが曖昧な場所がなくなっている感じですよね。
(これは、実は建築面積の関係から縁側的な場所を大きくはつくりづらいという理由もあるのですが…)
 幼児期は心や身体を通じて身につけていく学びが多くを占めている事からも、外遊びは子どもの育ちにとても影響を及ぼす場所だと思っています。
 だからこそ室内からの眺め或いは気配として、自分とは別の誰か…特に異年齢の子が外で遊んでいる姿を日常的に見て取れるか否かが、育ちにはかなり重要な意味を持っていたりします。年少や年中の子が、年長を見ながら、どうやってやるんだろう?や、どうしたら出来るようになるんだろう?という事を彼らなりに部屋の中からも見て、聞いて、学んで、自分自身で出来る姿をイメージしているんですよね。又、外は自然現象などの偶然と多く出会う場所でもあり、環境での適応能力を育めたりもしますし…と、外(園庭)側から見ると、という話は尽きる事なく出てきてしまいそうです。
 何かを大きく変えていきましょう!ということではなくて全然良いと思います。花が咲く季節ではちょこっと一輪挿しに花を生けてみたり、雨の日は雨の音が聞こえるようにしたり、外で遊んでいる姿や声が見たり聞いたり出来る様に仕向けたり、内外に美味しそうな香りを嗅ぐわしてみたり、ちょっとした偶然に気づけたり…。
 大人も子どもも身近な風景の中で見て取れる何気ない景色の移り変わりを意識しながらの暮らし、そして庭での外の気配を感じ取れる事が、本来の家庭的なる暮らしの在り方なのではないかと思っています。
 家庭的である暮らしの中に、もう一度ちょこっとだけでも「庭」の事も仲間に入れて考えてくれるとありがたいなぁと、園庭をデザインしている人間からの戯言として、どこか気に留めておいていただけたら幸いです。

【新連載】2回シリーズ(1)

「環境として伝える事」

㈱コト葉LAB. 代表取締役 安中 圭三

 私は、園庭や遊具、室内といった子どもの環境をデザインしています。
 そこで日々の考えを、「環境として伝える事」と題して2 回に渡って書かせていただきたいと思っています。
 「せんせー、あそこに登らせて」…
 子どもから言われると、手を貸してあげたくなってしまいますよね。
 でも、ここで一度考えて欲しいのです。
 ここで手を貸してしまう事で、かえってその子の育ちによくない事があるとしたら?
 遊んでいる時に、子どもの後ろから、高い所へと大人が押し上げている行為(よくやってしまいがち…)実はこれ、押し上げた子の危険が生じやすい状況へと導いている行為でもあるのです。その子自身の体力や能力がまだ備わっていない状態のまま、大人の力によって、能力以上の環境へと誘ってしまってもいるのです。
 これ!大変危ない行為です。絶対にやめた方がいいです!
 この事を踏まえた上で、少し矛盾するように感じられるかもしれませんが…
 私が遊具を設計する時には、あえて挑戦をしないと登れないところを計画する事があります。こうした遊具を設計すると、時に先生方から叱られます。「手を貸すなと言っておきながら、手を貸したくなるような遊具を設計して、どういうことなの?みんなが行けなくて、行けない子は可哀想だと思うんですよね…」と…うんうん、そうですよね、よくわかります。
でもね…今はまだ行けない場所や、まだ出来ないでいる時間には、すごく価値があると思っています。
 今、そこで手を貸してしまう事で、その瞬間の、その子の気持ちは満足させる事は出来ます。しかしながら、後に自分で出来た時の「達成感」だったり、「自分って凄い!」というような感動は薄まってしまいます。悶々と「出来ない」を繰り返しながら、どうやったら出来るだろう?という葛藤を繰り返し、やっとの思いで出来た事は、宝物のように貴重な経験になると思うのです。そこにこそ、本当の意味での「自由」の感覚が育まれると思います。ですから、その時まで、その感動をとっておいてあげたいですし、そういう経験によって得られる「自由になれた感覚」をしっかりと感じとってほしいですよね。
 自分自身で思う「出来た!」がとても大切な自己肯定感にも繋がっていくと私は考えています。
 大人は、すぐに「出来る為の環境」を用意してしまいがちですが、出来ないでいる時間を費やし、自分自身で達成し、自分ってなかなか凄い!と思える…そういう自己肯定感を育むことができる環境を作り出していくことが、我々大人に求められている事です。
 その為には出来ないでいられる時間が長ければ長いほど、そして、失敗を受け入れてくれる環境であればこそ…出来た!わかった!が本人の心の奥底から湧き上がる本物の価値として、彼らの根っこの部分となっていくのではないでしょうか。
 …そんな経験を、これからを生き抜いていく彼らに贈り届けていきたいと、私は考えています。

【新連載】3回シリーズ(3)

保育者養成雑感(3)

大谷大学 冨岡 量秀

 さて今回2回目となりました。引き続き養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただ
こうと思います。

 さて今回が3回目となり、最後となります。本当に申し訳ありません!なんかまとまりもなく書かせていただいております。最後の「雑感」を書かせていただこうと思います。

 前回は各養成校が抱えているであろう共通の課題として、「ミスマッチの問題」を中心に「雑感」を述べました。今回は、これも多く耳にする言葉ですが「学生の経験不足」という課題です。

 「学生の経験不足」が言われる時、大きく二つの視点があります。それは①「生活経験の不足」と②乳幼児期の「遊び込む経験の不足」です。この経験の不足を考える前に、大前提があるかと思います。それは「今の」学生は、必ず私たち大人の世界で育ち、大人から様々なことを受け継いでいるということです。これは当たり前のことですが、でも忘れていませんか?大人たちは・・・。

 まず①「生活経験の不足」ですが、これは以前から、あるいは昔から、大人から子どもへ、年配者から若者へと指摘され続けてきたことかもしれません。私自身、かつて若者だった時、年配の方から「最近の若い者は・・・」と言われ続けてきました。今は私自身が年配者となってしまいましたが。生活はどんどん便利になり、さまざまな便利グッズも生まれました。家電も進歩しました。例えば、洗濯機の二槽式って、家庭で使われてますか?ほとんどが一槽式・ドラム式ですよね。また雑巾掛けって、家庭でもやっていますか?便利なフローリングワイパーなどが使われていますよね。箒と塵取り使ってお掃除をする経験はどこでできるのでしょうか?学校ですか?しかし学校でのお掃除の時間をとおして、お掃除の仕方を身につけたでしょうか?私自身はそのような実感がありません。これはほんの
一例に過ぎませんが、生活経験の内実は大きく変化し続けているのです。だからと言って、「学生が知らなくて当然だろう!」ということではありません。保育者として「本当に」必要とされる経験とはなにか?どこでその経験不足を補うことが望ましいのか?を様々な段階で関わる大人たちが共有し、社会に送り出す前の具体的な組み立てをするべきだろうと、養成校の課題としても思うわけです。

 また「遊び込む経験の不足」ですが、これは子どもたちというよりも、周りにいる大人たちの価値観に大きく左右されているのではないでしょうか。例えば、近隣との関係で声を出して園庭で遊んではいけないとか、大人の目を気にしながら遊ばなくてはいけない環境の園が都会には多々あると聞きます。そのような環境で遊んだ子どもたちの中に未来の保育者がいるのでしょう。子どもにとって遊びが大事と言いながら、遊べない環境を作り出し続けていく大人たち、この関係性はいつまで続くのでしょうか?このような状況にあって、保育者を目指す学生自身が、自らの興味のあることに取り組んだり、そこで試行錯誤したり、他者と
協働する経験等々を、養成課程の段階において、改めて経験できるような機会を保障していくということも必要な育ちと学びなのだろうと思います。

 この度、「保育者養成雑感」と題して、好き勝手なことを書かせていただきました。本当に申し訳ありません。今回書かせていただいたことを今後も課題として、皆様からもアイディアをいただいたり、様々な機会で連携・協働させていただき、より良い養成を考えていきたいと思います。

【新連載】3回シリーズ(2)

保育者養成雑感(2)

大谷大学 冨岡 量秀

 さて今回2回目となりました。引き続き養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただ
こうと思います。

 前回、養成校の養成の高度化と出口(就職)のニーズの中、保育者養成校へ進学してくる学生の多くは、モチベーションの程度は様々ではあるが、「子どもが好き」や「先生への憧れ」などから、幼稚園教諭免許・保育士資格の取得を目指して進学してきています。しかし現在、養成校には、多様な課題を抱える学生が多く進学してきているのも事実ですし、養成の難しさも各校が実感していることですと書きました。その中で、各養成校が抱えている共通の問題として「ミスマッチの問題」があると思います。

 養成課程では、ほんとうに多くのことが求められていますし、カリキュラムも過密を極めています。幼稚園教諭免許のカリキュラムと保育士資格のカリキュラム、それに加えて各校の独自性を出すようなカリキュラムが加わります。この各校の独自性を出すものが、いわゆる各校の「売り」に繋がっていくと思います。これらを特に短期大学部では2年間で学生に取り組ませるわけですから、入学から卒業まで休むことなく「走れ!」とばかりに取り組ませていくわけです。このプロセスを走りきる原動力は「子どもが好き」や「先生になりたい」という熱い思いでしょう。しかしそれだけでは難しいのです。それは実際の現場も同じことだと思います。養成校でいえば、過密なカリキュラムですから、どうしても1時間目からの授業が多く組まれることになります。そして半期15 回の授業実施は必須であり、実習などで授業ができない場合は、土日に補講を設定されることが多くなります。また遅刻欠席を厳しくしている養成校がほとんどかと思います。さらに各科目(演習や実技系も多い)からの課題も多く出されます。つまり基本的な学習(修)習慣と基本的な生活習慣が身についていなければ、学生自身が「しんどい」のです。特に基本的な生活習慣は大切かと思います。実習もありますし、卒業後、先生というお仕事をする上で基本的なことだ思います。

 またコミュニケーション力も重要です。多くの受験生は面接などで「コミュニケーション力」があると自己アピールしますが、その多くは明るさ、ハキハキしているなどの一般的なコミュニケーション力です。しかし保育者の専門性としてのコミュニケーション力は、チームとしてお仕事をするうえでのコミュニケーション力であり、保護者の話に傾聴し、寄り添い、そして共に歩んでい行くという質のコミュニケーション力が求められているかと思います。つまり「大人」になることが求められる訳です。そのような意味で、私は保育者養成の学科やコースの学生は他の分野の学生より、社会人として、そして大人として素敵に育っていると思います。ちょっと贔屓目ですが。

 というか、それくらいの思いで、どの養成校も学生を育てていると思うのです。だからこそ途中で諦めたり、しんどくなって来れなくなってしまうことにつながるミスマッチを本当に減らしたいと思っているのです。このようなミスマッチを少なくするためにも、各高校ともっと連携し、保育者の専門性への理解を共有する努力を今後もし続けなければならないと考えています。

【新連載】3回シリーズ(1)

保育者養成雑感(1)

大谷大学 冨岡 量秀

  今回、3回シリーズの連載を書かせていただく機会をいただきました。私のシリーズでは、養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただこうと思います。まずは養成を取り巻く状況について、ちょっと考えてみます。

 現在、保育者の養成校には、より実践的な専門的知識と技能を兼ね備えた「高度専門職」としての養成機能が求められていると思います。そして、そのニーズは今後ますます高まっていくのでしょうね。と同時に、国の待機児童対策もあって、都市部を中心に保育所の新設が長年続き、厚生労働省によれば2018年度11月の有効求人倍率は3.20 倍(全国で最も高い東京都では6.44 倍)といった状況であり、保育者の確保が喫緊の課題となっています。このような状況から、とりあえず必要とする保育者の数を確保することに各園が必死にならざるを得ない現状があると思います。

 以上のような養成校の養成の高度化と出口(就職)のニーズの中、保育者養成校へ進学してくる学生の多くは、モチベーションの程度は様々ではあるが、「子どもが好き」や「先生への憧れ」などから、幼稚園教諭免許・保育士資格の取得を目指して進学してきています。しかし現在、養成校には、多様な課題を抱える学生が多く進学してきているのも事実ですし、養成の難しさも各校が実感していることです。

 養成校の養成内容・方法の課題、そして学生自身の課題などなど、確かにあるのです。と同時に、私が個人的に感じることは、学んでる学生に対して「これだけのことをよくやってくれるなぁ」「すごいなぁ」です。もちろん現場の素敵な先生方にお会いした時には、「うちの学生もいつかはこんな先生になれるのかなぁ」、そしてやっぱり「すごいなぁ」と感じるのです。

【新連載】3回シリーズ(3)

第三回: 鬼あそび「あぶくたった」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 1 月から始まったシリーズ「幼児の生活に息づくわらべうた」も、今回が最終回となりました。今回は、私自身も幼い頃に遊んだ「あぶくたった」の魅力についてとりあげてみたいと思います。

 11 月の終わり頃、3 歳児の保育室の前を通りかかると、何やら懐かしい歌が耳にとびこんできたので、思わず足をとめて中をのぞいてみました。すると、子どもたちが担任教師と輪になって「あぶくたったにえたった、にえたどうだかたべてみよ…」と唱えながら遊びが始まったところでした。輪の真ん中には、鬼役の4 〜5 人の子どもが副担
任を中心にぎゅっと小さく固まってしゃがんでいます。「むしゃむしゃむしゃ」になると、外側を歩いていた子どもたちが円の中央に寄ってきて鬼役の子どもたちの身体や頭を「むしゃむしゃむしゃ」と突っついて食べる真似をします。この動作が3歳児にはたまらなく楽しいのか、「むしゃむしゃ…」が通常より長引いてしまいますが、担任は焦ることなく、子どもたちの気のすむまで「むしゃむしゃ…」を楽しんでいました。

 そしていよいよ、「もうにえた」を合図に鬼役がままごとコーナーに移動し、保育者のリードで「鍵をしめて、ガチャガチャガチャ」「ご飯をたべて、むしゃむしゃむしゃ」「お風呂に入って、ゴシゴシゴシ」…「お布団入ってね〜ましょ」と、受け入れ準備が整いました。続いて「トントントン」「何の音?」「風のおと」「あ〜よかった」「トントントン」
「何の音?」「おなべの音」「あ〜よかった」…と繰り返すうち、待ちきれなくなった子どもたちから「何の音?」に続いて、「お化けの音」の声がとび出し、キャーっといって、追いかけっこが始まりました。

 この遊びは、鬼遊びが始まる「お化けの音」に至るまでに、非常に長い劇的なやりとりがあります。特に最後の「トントントン」「何の音?」の部分では、「お化け」以外にも「恐竜の音」「狼の音」など、子どもたちの中からいろいろな発言が飛び出しました。このように、心地よいリズムにのって仲間と息を合わせながら、動いたり、イメージを膨らませたり、ことばのやりとりを楽しんだりする面白さがこの遊びの中には凝縮されています。

 この日から2 週間後、「おもちつき」の日に、園庭に設置したかまどで餅米を蒸していると、3歳児のA子が寄ってきて「あぶくたった、にえたった〜」を口ずさみはじめ、瞬く間に周りの子どもたちの大合唱になりました。幼稚園で経験したわらべうたが、これからもずっと子どもたちの心や身体の中に息づいていってほしいと願います。

【新連載】3 回シリーズ(2)

第二回: 鬼あそび「だるまさんがころんだ」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 前回は、鬼決めうた「いろはにほへと」を取り上げ、子ども同士の間でことばを唱えることが、仲間意識を高め、遊びへの導入に大きな役割を果たしている事例を紹介させていただきました。今回は、同じく「ことばを唱える」遊びの中で「だるまさんがころんだ」を取り上げ、この遊びのどんな点が子どもたちをひきつけているのか探ってみたいと思います。

 2 月のある日、園庭での遊びが一段落し、片付けがたちに誘いかけました。すると、「わーい、するする…」
と子どもたちは大喜びで集まってきました。ちなみに「だるまさんがころんだ」は、クラスで何回か遊んだ経験があり、子どもたちの間ではお馴染みです。この日は、従来の「だるまさんがころんだ」の変形バージョン(「お部屋までもどる」バージョン)だったため、鬼役が徐々に部屋に近づきながら(本来は鬼が定位置)「だるまさんがころんだ」を唱え、子どもたちをお部屋まで導く、というシンプルな遊び方でしたが、4 歳児にとってはわくわく感満載の遊びとなっていたようです。

 まず遊びのはじめに、子どもたちは「は~・じ~・め~・の~・だい・いっ・ぽ」のかけ声で大きく1 歩、ジャンプで前進します。続いて、鬼役の教師が少し離れた場所で後ろ向きになり、「だーるまさんが…」と唱えはじめると、子どもたちはそれぞれ好きな速さで前進し、「こーろんだ」でピタッと止まります。一瞬、その場に漂う緊張感…。「だ」で振り返った鬼に「あっ、〇〇ちゃん動いた」と指摘され、スタート地点に戻されないよう(この日のルール)、みんな真剣です。中には、むしろその緊張感を楽しんでいるかのようにくすくす笑いながら滑稽なポーズで立ち止まる子どもの姿も見られます。このようにして、何回か「だーるまさんが・こーろんだ」を繰り返しながら、子どもたちは楽しくお部屋に入っていきました。鬼が、時折わざと「だーるまさんが…」をゆっくり、「ころんだ」を早口で…、などとフェイントをかけると、更に遊びの面白さが盛り上がります。

 このように「だるまさんがころんだ」という短いフレーズの中で、鬼と心理的に駆け引きしながら距離感を図ったり(空間認知)、素早く移動してぴたっと止まったり(緊張と弛緩)、鬼に見つからないようなテンポで歩いたりするなど、子どもたちは頭や心や身体のいろいろな感覚を総動員して遊んでいることが分かります。「だるまさんがころんだ」が子どもたちをひきつける魅力は、こんなところにあるのではないでしょうか。

【新連載】3回シリーズ(1)

第一回 : 鬼決めうた「いろはにほへと」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 今回から 3 回シリーズで「幼児の生活に息づく わらべうた」というテーマで、お話したいと思い ます。私は十数年前から現在勤務している大学で 将来保育者をめざす学生たちに「音楽表現」の指 導をしてきましたが、その傍ら昨年の春からは、 大学の附属幼稚園で園長を兼務することとなり、 3 歳から 5 歳までの子どもたちと触れ合う時間が 多くなりました。子どもたちと触れ合う中で見え てきたのは、私の予想以上にわらべうたがしっか り子どもたちの遊びや生活の中に息づいていると いうことです。今回は「鬼決めうた」を例に、わ らべうたがもつ魅力についてお伝えしたいと思い ます。
11 月の終わり頃、園庭の大きないちょうの木の 下で 7 ~ 8 人の 5 歳児がぎゅっとかたまって何や ら相談中です。近づいてみると、今から「こおり鬼」
(鬼ごっこの一種で、鬼にタッチされた子は凍って 動けなくなるというルール)が始まるところで、 誰が鬼になるかを決めている最中でした。その方 法はまず、全員が円の中心に向かって片足を出し、 しゃがんでいる一人が「い・ろ・は・に・ほ・へ・ と…」(譜例)と唱えながら、順に靴を指さしてい きます。そして、「…ち・り・ぬ・る・を」まで指 したところで手を止め、「を」で指された子は、足 を引っ込めます。そうして、足の本数が 1 本少な くなったところで再度、「いろはにほへと…」が始 まり、同様のやり方で足の本数を減らしていき、最後に残った足の子が鬼になる、という方法でし た。この日は、「鬼が 3 人」という取り決めだった らしく、足が 3 本になった瞬間に「わーっ」と蜘 蛛の子を散らすように子どもたちは走り出し、鬼 ごっこが始まりました。 この場面を見て疑問に思ったのは、なぜ子ども たちは鬼決めの方法として「うたを唱える」という、 大人からすると回りくどい方法を選択するのかと いうことです。鬼を選ぶことのみが目的なら、機 械的にじゃんけんで決める方が断然、楽な気がし ます。しかしわざわざ譜例のようなうたを用いる のには、何か理由がありそうです。ここからは想 像ですが、この遊びでは「を」で指された足が抜 けていくたびに、自分が鬼役になる確率が高まっ ていき「誰が最後に残るんだろう」というドキド キ感があります。それは唱え役の子の手先を、音 に合わせて頷きながら真剣に見つめる子どもたち の様子から伝わってきます。「うたを唱える」こと で、仲間の気持ちが一つになり、遊びの楽しさを 盛り上げる、そんな力がわらべうたの中には隠さ れていると考えられます。ごっこ遊びの中でドロ ーンやパソコンなどが登場する現代っ子たちが、 平安後期に作られたとされる「いろはうた」の一 部を嬉々として唱えている様子から、時を経て子 どもから子どもへ歌い継がれてきたわらべうたが もつ力を改めて感じることができました。

【新連載】3回シリーズ(1)

p style=”text-align:center;”>特別支援学校のこどもたち(3)

京都教育大学附属特別支援学校 小学部主事 小坂眞由美

 本校では、「人は人とかかわり合う中で人として育つ」という考えのもと、集団での活動を大切しています。「人は、さまざまな人とかかわりあいながら、社会の中で人と共に生きるために必要なことを学び身につけ、世界を広げていく。子どもたちは他者とのかかわりあいを介して自分を知り、自分の存在を意味づけていく。さらに、学び身につけた力を人とのかかわりの中で使い、役に立ったり喜ばれたりする経験、認められる経験をとおして自分が必要とされるかけがえのない存在であることを実感しながら社会的存在としての自己を形成していく。これは対人関係を形成することや対人関係を土台とした発達の獲得に遅れる知的障がいの子どもたち、知的障がいを伴う自閉症の子どもたちも変わりはない」。これは本校の平成26 年度研究紀要からの抜粋です。

 B ちゃんは自閉症スペクトラムです。初めての場所に行くことはとても不安で、入学式も式場に入らず、外にいました。入学当初、教室に入れない日が続きましたが、焦らず見守り、ひとしきり遊んだころ、教室へ誘ってみたり、担任から呼んでもらったりしているうちに、教室で過ごせる時間が増え、2学期が終わる頃には集団の中で活動にほぼ参加できるようになりました。大人に対しては視線や手差しで要求を伝えたり、手の合図で返事をしたり、笑いかけたりするなどのコミュニケーションが出はじめていますが、まだ友だちと遊ぶ姿は見られません。

 ある日、同じクラスのC ちゃんが教室のモニターで動画を楽しんでいました。たまたまB ちゃんもその近くで遊んでいて、偶然、モニターの電源を切ってしまったのです。C ちゃんは、「あ~っ!!」と声を上げました。その声に驚いたのもあると思いますが、C ちゃんに何かしてしまった、とも思ったようで、Bちゃんは泣き出してしまいました。C ちゃんは教室移動のときなどに「B ちゃん、行くよ」と声をかけてくれます。それも、自分から、絶妙のタイミングで、しかも自然な距離感で。B ちゃんはその誘いかけに必ずしも応じるわけではないのですが、おそらく心地よく感じていたのでしょう。好きなお友だちになっていたようです。B ちゃんの泣き声の中に、「ごめんね」が聞こえてくるようでした。一緒に何かをして遊ぶ、といった明確なかかわりあいは見られなくても、そこにいて、声をかけてくれる人がいて、泣いていてもそこにいさせてくれる場があることで自分の存在を肯定的にとらえられる・・。これは周りに人がいてこそ作りうる「環境」なのだと思います。

 自閉症スペクトラムの人は人とのかかわり合いが苦手なのではなく、かかわり方が私たちと同じではないだけだと思っています。一見、集団に入れないように見えても、彼らなりの入り方(友だちや先生の動きをじっと見ていたり、声を聞いていたり)で参加しています。個に応じた指導、個別の対応が必要なことは当然ですが、集団の中で個を大切にする、この姿勢をこれからも本校では大切にしていきたいと思っています。

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