
公益社団法人への移行にあたって
公認会計士・税理士 木田 稔
(監査法人グラヴィタス代表社員)
平成25年4月1日をもって、貴協会におかれましては、公益社団法人京都市私立幼稚園協会に移行されました。ここに謹んでお慶び申し上げます。
すでにご高承のとおり、公益法人改革のもと、全国で約24,000の社団財団は、公益社団財団法人あるいは、一般社団財団法人への移行を求められております。貴協会におかれましては、教職員の資質の向上と幼児教育の充実を図り幼児教育の振興に寄与することを目的に、公益性がより強く求められる「公益社団」への移行申請を決定し、その事業等が新制度における公益法人とすることがふさわしいと京都府公益認定等審議会に認められました。これは、歴代の役員の先生方はもちろんのこと、協会を構成する私立幼稚園の園長・設置者、教員の先生方の教育や協会活動への熱心な取組みがあったからこそと尊敬しております。
今般、会報記事を2回にわたり寄稿させていただく機会を頂戴いたしました。今回は、今後、貴協会が公益社団として事業を運営されるうえで特にご留意いただくべき事項についてご説明させていただきます。
貴協会が行う公益目的事業が公益認定基準に適合することが求められます。ここで、「公益目的事業」とは公益法人認定法では「学術、技芸、慈善その他の公益に関する別表各号に掲げる種類の事業であって、不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するもの」としています。
貴協会の公益目的事業を、
- 今日的・未来的な課題と展望を踏まえた「特色ある幼児教育」に関する推進事業
- 特別支援教育に関する推進事業
と大きく分類し、幼児教育等の調査・研究事業、助成事業、教育研修事業を行うことになります。
これらの事業については、公益社団法人に移行前から行われているものですが、今後は、より一層「不特定多数」、つまり社会全体の利益を増進することに寄与しているかという観点から事業を行うことが求められています。具体的には以下の事項に留意することが必要です。
- 調査研究事業については、テーマの選考にあたり、大学・研究機関の教育・研究者等の有識者が関与し、調査の内容や結果に関して、報告書、ホームページ、研修大会等で不特定多数の者がその内容を閲覧できるようにします。
- 助成事業については、応募の機会が一般に開かれており、また選考にあたっては有識者からなる選考委員会で決定され、その結果についてホームページ等で公表され、また、助成対象者からの報告をうけるようにします。
- 教育研修事業については、研修参加の機会を開くため、ホームページ等で内容を掲載し参加者を募集することとなります。
今後は、上記の事項をふまえ、事業の内容と実施方法、成果の公表方法を継続的に検討し、幼児教育の諸課題に取組むための事業を実施することとなります。研修活動や支援活動を行い、情報発信をしていくことで、教育環境、ひいては社会の在り方もより良い方向へ変わっていくことでしょう。その結果、社会一般の公益に寄与することが期待されています。

乳幼児のこころと発達 その3 ~心理療法について~
花園大学児童福祉学科 講師 藤森旭人
今回はこれまでの「内的対象」と「こころの抱っこ」を踏まえて、心理療法について書いてみたいと思います。現在、スクールカウンセラーやキンダーカウンセラーが比較的身近な存在になり、心理療法やカウンセリングという言葉も耳にするようになられているのではないでしょうか。しかし、その具体的な方法、中身についてはあまり知られていないかもしれません。相談者の話に耳を傾けて「傾聴」したり、子どもと楽しく遊んで気持ちを発散したりすることで、問題が解消するといったイメージを持たれている先生もいらっしゃるかもしれません。
私は精神分析と呼ばれる、こころの奥にあるであろう「無意識」を理解するという立場をとっています。来談者がこころの中に抱いている「内的対象」を捉えながら、彼らが抱いている気持ちを一緒に考えていきます。「今、ここで」起こっている私と来談者との関係は、「内的対象」が反映されたものだとして見ていくわけです。子どもの場合は遊びを通じて考えていくことになります。例えば幼稚園でも、タロウ君には「やさしい先生」として関わってこられ、タクヤ君には「鬼のように恐い先生」として関わってこられて、もしかしたら先生方も「私はそんなにやさしくも、怖くもないんやけどなあ」と違和感を持たれたことがあるかもしれません。これは、まさにその子の「内的対象」を通じて、先生を見ているからなのです。一般的に心理療法に連れてこられる子は、生活の中で何らかの問題がみられたり、不適応を起こしたりしていることが多く、周囲も対応に追われていることが多いのではないでしょうか。そして、あまり良好な「内的対象」がこころの中に存在しないことが多いのです。
具体的に見てみましょう。幼稚園年中のタクヤ君は、友達にすぐに手を出してケガをさせたり、幼稚園の花子先生のお話も落ち着いて聞くことができません。注意をしても「うるさい、ババア」と、悪態をつくばかりです。でも、ひらがなが書けたり、計算もできるなど、学習の能力はあるようでした。ご両親に園での様子を報告しても、事態は一向に変わりません。困り果てた花子先生は一度心理療法を受けてみてはどうかとご両親に提案されました。そして、お母さんと2人で心理療法を行っているフジモリ先生のところへやってきました。フジモリ先生と2人になり、始めに「ここで、一緒にタクヤ君の思ってることを考えようと思うよ」と伝えると、「フジモリ?ふん、チャライねん」と言い、一人、人形で遊び始めました。フジモリ先生はおいてけぼりにされた感覚を抱き、とても寂しくなりました。どうやらタクヤ君のこころの中には自分の気持ちなんか聞いてくれない大人(内的対象)が存在していそうでした。そして相手にされずとても寂しい思いを抱いてきたのではないだろうかと想像しました。この気持ちを大人に理解してもらう(抱っこしてもらう)ことが必要だと想い、心理療法を続けていくことにしました。お母さん面接も並行して行われました。そこでは担当のサトウ先生に「私たちは忙しくて、全然タクヤの相手をしてあげられなかった。タクヤがいうことを聞かず、怒ってばかりきたんです」といったことが語られました。その後も、タクヤ君はフジモリ先生に悪態をつき続け、気持ちの交流を閉ざそうとする時間が続きました。それはまるでこころに鎧をまとって、小さく傷ついた子どものタクヤ君を守っているかのようでした。それでも関心を持って、タクヤ君の表現していることを見続け、タクヤ君が思っていそうな言葉をかけ続けます。すると、1年ぐらい経ってから人形遊びの中で、フジモリ先生と仲良く遊園地に遊びに行くタクヤ君を表現し始めました。また、寂しい子どもがお父さんと休みの日にキャッチボールをするという人形での表現も始めました。次第にタクヤ君はこころの中に「自分のことを考えてくれる大人」という存在を見つけました。こうして、タクヤ君の問題児の部分は抱えられて、幼稚園でも落ち着きがみられるようになりました。またお母さんも仕事を何とか減らし、タクヤ君に関わる時間を増やそうと努力するようになりました。
このように、数年単位での長い取り組みが実を結ぶことも心理療法の特徴です。そして、心理療法は魔法のようなものではなく、じっくりと気持ちを考えるという作業であるため、子どもをとりまく大人との連携が不可欠であり、むしろ養育者や保育者との協働関係の中で子どものこころは発達していくものだと私は考えています。
最後に、私が専門会員として所属しています「NPO法人子どもの心理療法支援会」(平井正三理事長)を紹介させていただきます。本NPOは、2005年に児童養護施設や社会福祉領域の子どもに対する心理療法的支援を目的として設立し、その中の事業の一環として「キンダーカウンセラー派遣事業」の支援を行っています。月に1回~3回の頻度で、京都市内の私立幼稚園にキンダーカウンセラーが派遣され、主に教諭への相談・助言や、保護者への相談・助言、保護者への面接・講習会などの活動が行われています。費用の半額を幼稚園が負担し、残りの半分を当NPOが支援しています。何か子どものことでご相談がありましたら、是非ともご活用いただけたらと思います。以下にホームページとメールアドレスを載せておきますので、何かありましたらご連絡いただければと思います。
「NPO法人子どもの心理療法支援会」ホームページ:http://sacp.jp
「NPO法人子どもの心理療法支援会」メールアドレス:info@sacp.jp
これで「乳幼児のこころと発達」についての連載を終わらせていただきます。ありがとうございました。

「乳幼児のこころと発達 その2 ~『こころの抱っこ』の重要性~」
花園大学児童福祉学科 講師 藤森旭人
前回は「内的対象」という考え方についてのお話でした。今回はその続きで、気持ちに焦点を当てることの重要性について述べてみたいと思います。
先生方は、子どもに「イタイのイタイの飛んでけー」と、されたことはおありでしょうか。実はこれが非常に大事な対応なのです。少し、そのような場面を詳しく描写しながら、何が起こっているのか考えてみましょう。
幼稚園児のタロウ君は園庭で友達と楽しくサッカーをして、ボールを追いかけていました。すごい勢いで走っていた時につまずき転んで擦りむき、血が出てきました。かなりの痛さと血がどんどん流れ出ることに驚いたタロウ君は、「わー!!」と泣き出してしまいました。そこに担任の花子先生が、絆創膏を持って来てくれて、抱っこしてそれを貼りながら「ビックリしたなあ。痛いなあ。イタイのイタイの飛んでけー」と言ってくれるわけです。すると、徐々にタロウ君は泣きやみ、痛みも徐々に和らいで落ち着きを取り戻しました。めでたしめでたし。
さて、すでにお分かりかと思いますが、もちろん物理的にその擦りむいた傷口が飛んでいくわけではありませんし、急に痛みがなくなるわけでもありませんよね。では、ここで何が起きているのでしょうか。こころの視点から見てみたいと思います。まず、タロウ君は、自分の中で抱えられない、擦りむいた痛さ・驚きを「泣く」という形で「排出」します。そこにやってきた花子先生が、その痛み・驚きを感じ取り「イタイのイタイの飛んでけー」という、タロウ君が受け止められる言葉にして返してあげています。すると、それまで抱えられなかった痛みを何とか抱えられるようになって、タロウ君は落ち着くわけです。大人の皮膚の中に抱えられる身体的な「抱っこ」と共に、花子先生は「こころの抱っこ」をしてあげているのです。この「こころの抱っこ」によって、乳幼児のこころは発達・成長していくと言われています。ポイントは身体的な「抱っこ」をしていてもその子に関心を持っていない状態での「抱っこ」では、子どもからすると抱えられているようには思えないということです(例えばケータイを使いながらの抱っこなど)。「こころの抱っこ」とその後学習する知識によって(この例では、血が出ても血小板の働きによって傷口は回復するから大丈夫など)、子どもは安心感を獲得していくのです。しかし同じような状況で、タクヤ君は「もう、うるさい。泣くんじゃない。それぐらいで」と言われていたらどうでしょうか。このつらい気持ちをどうにかしてもらいたいのに、こころの中でずっと残ったままになってしまいそうですよね。この気持ちを何とか「排出」しようとして、それが問題行動になってしまうことがあります。ジッと教室に居られないことや、おもらしなどがその例かもしれません。日々気づかないうちにしている「こころの抱っこ」について、改めて考えてみるのも、子どもたちとの関わりを振り返る手助けになるかもしれませんね。

「龍短における幼稚園教員の養成4」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
1回目の連載でも紹介しましたように、昨年度設立された本学のこども教育学科は、今年度、初めての卒業生を送り出します。四年制大学に併設されている短期大学ということもあり、編入する学生たちの割合も少なくないですが、それでもやはり、保育職(幼稚園教諭、保育士)に就くことを希望する学生の割合が最も高いです。
こうした保育職への就職を希望する本学科の学生たちは、現在、就職活動に日々取り組んでいるところですが、これまで保育士ないし幼稚園教諭のいずれかで内定を得た学生たちの大まかな内訳をみると、保育士と幼稚園教諭の割合が、およそ3:1だそうです(もちろん、これはあくまで現時点(11月)のことであり、確定した状況ではありません。今なお、就職活動中の学生も少なからずいます)。今年(2012年)の5月に開催された「幼稚園教員養成大学と(社)京都市私立幼稚園教会との交流懇談会」に参加させていただいた際に、幼稚園教諭よりも保育士を志望する学生が非常に多いといった旨のご意見を、多々耳にしましたが、そのことは、本学科でも例外ではなかったようです。
しかし、少なくとも私の目から見た場合ですが、幼稚園教諭の道を選んだ学生たちは、安易に妥協したり、いい加減な気持ちで取り組んだりして進路を選択したわけでなく、実習等で得た経験や学びを通して、主体的に幼稚園教諭という道を選んだ感じを受けます(これは、他の進路を選んだ学生に対しても当てはまりますが)。例えば、先月(10月)に3週間の教育実習(幼稚園)を終えてきた学生たちの中には、そこでの経験から、幼稚園教諭を明確な進路として選択した者もいました。また、ありがたいことに、実習した幼稚園に就職が決まった学生もいました。割合としては、保育士を志望する学生よりも少ないかもしれませんが、幼稚園教諭を志望する学生たちの志や情熱は高い状態にあると思われます。そして、養成大学としては、そうした学生を一人でも多く育てて送り出すことが最大の使命だと感じています。
ただ、私自身は、むしろ学生たちからいろいろと学ばせてもらっている立場でもあります。特に、実習を終えた学生たちからは、非常に逞しくなった様子をひしひしと感じます。先日も、これまでの実習を振り返る演習授業の中で、グループ活動をしている学生たちの様子を見ていると、自分たちがこれまで行ってきた大学や実習先での学びの経験を踏まえながら、他の学生たちと「語り合う」「聴き合う」といった活動を自主的に行っていました。そして、それぞれが実習中に課題だと感じた経験について、グループ内で共有し、その上で、その場で考えられうる解決策を「探究」するといった、非常に水準の高い学びを展開していました。いわば、「語りと探究のコミュニティ(共同体)」を形成していたと言えます。この点は、私も見習わなければと強く感じました。
こうしたさまざまな潜在力(ポテンシャル)を秘めた学生たち個々の力を削ぐことなく、少しでも高みに向かってレベルアップできるよう、ささやかながらでも手助けすることが、養成校の教員としての責務であり、楽しみでもあると痛感しています。
さて、9月から連載させていただいた本稿も、今回が最終回となります。これまで、本学の方針や学生の学び、進路の様子を中心に紹介させていただきました。このような機会を与えていただいたことに、心より御礼申し上げます。そして、これからも、みなさまからご指導いただきながら、日々精進し、本学への教育活動に活かしていきたいと考えております。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。

「龍短における幼稚園教員の養成2 学生たちの学び(2)」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
前回、学生たちに、事後指導の一環として、「幼稚園教諭の仕事」についてのマップ(地図)を描いてもらったことを報告しました。今回は、その次の段階の活動について報告します。
まず、3人でグループを作ってもらい、自分たちが描いたマップをグループの他のメンバーに説明して質疑応答する、という作業をしてもらいました。次に、各自のマップに関する説明および質疑応答を終えた後、グループで話し合った上で、幼稚園教諭に求められる力として3つ(「~力」として表記する)、そして、それらの力は、どのようにして育成することができるか、ということをワークシートに書くことでまとめてもらいました。
この作業を通して出てきた「~力」及びその育成方法は、グループによってさまざまでした。例えば、「環境整備力・声掛け力・観察力」の3つを挙げたグループもあれば、「体力・精神力・理解力」、「まとめる力・見守る力・想像力」、「発信力・発想力・発見力」、などを挙げたグループもありました。その中で、挙げた力の3つともが一致するグループはありませんでした。
しかし、その一方で、注目すべき共通点もありました。それは、「コミュニケーション力」です。この力を3つのうちの1つとして挙げたグループは、実に半数を超えていました。また、その力の育成方法に関する記述の中で目立っていたのが、「積極的(自発的)」という表現でした。若者のコミュニケーション不足や積極性の欠如ないし消極性が叫ばれて久しいですが、実習に臨む学生に対しても、そうした問題や課題を現場の先生方からご指摘を受けることも少なくありません。もちろん、養成校の教員である我々もそのことは十分に意識したうえで、日々教育活動に携わっているのですが、実習を経験した学生自身もやはり、そのことは痛感するようです。だからこそ、そうした力を育成するための方策も、学生たちは自分たちなりに真剣に考えたようです。
ただ、言葉では同じ「積極的(自発的)」ですが、その意味はグループによって多様でした。例えば次のような感じです(以下、引用文中の“ ”は私(森)による挿入です)。「グループワークに“積極的”に取り組む。」、「自分から他人と“積極的”に関わっていく。」、「“積極的”に行動する。挑戦していく。」、「“積極的”に自分の意志を伝える。」、「“積極的”に困っている人を助ける。」、「“自発的”に人と関わる。」、「子どもとたくさん“積極的”に関わる(話す、遊ぶ、性格を知る、etc.)。」…。これだけ多彩なのは、実習で自分自身が体験・経験したことの内容が反映されたからだと考えられます。
加えて、「コミュニケーション力」一つとっても、これは普段の日常生活での心がけや行動を通して育成することが可能だ、という点に学生たちは(多かれ少なかれ)気づいたようでした。この点を、私自身は何よりも重要なことだと感じました。大学における学びも大切ですが、その大学生活は、日常生活という大きな括り(枠組み)の一部でもあります。そう考えると、大学での生活態度のみに気を配れば事足りるわけではなく、普段の生活全般を通して、自分なりに目的意識をもって行動することが、何よりも大事になります。こうしたことを、今回だけでなく、今後の事後指導を通して学生たちにより一層感じて欲しいと願っています。

龍短における幼稚園教員の養成2 学生たちの学び(1)」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
前回お知らせしたように、今回は、幼稚園で観察実習(1週間)を終えた本学の学生たちの学びの様子を報告させていただきます。
今年(2012年)の3月に実習を終えた学生たちに、事後指導の一環として、「幼稚園教諭の仕事」についてのマップ(地図)を書いてもらいました。私の方から、「幼稚園教諭の仕事」と中心に記されたA3用紙を学生一人ずつに配布し、「幼稚園教諭の仕事(活動・業務)として、実習を通して自分が観察したり経験したりしたことを、思いつく限り列挙し、関連づける」、「観察実習で行ったことを思い出して描く(書く)」、「真ん中にある『幼稚園教諭の仕事』から、派生させたり関連させたりしながら、自由に描く(書く)」という指示をしてマップを作成してもらい、その後、自身のマップを見て各自が気付いたことをワークシートに書いてもらいました。ここでは、その一部を紹介いたします。
まず、ほとんどの学生たちは、マップを描くことによって、幼稚園教諭の仕事(業務)が膨大であること、また、それらが断片的ではなく相互にかつ複雑に絡み合い関わり合っていることに気付いたようでした。加えて、これらの仕事(業務)はすべて子どものことと(程度の差はあれ)関連していること、それゆえに、責任を伴うものであることを学んだ(もしくは再確認できた)、という学生が多かったようです。これらの点は、例えば、「一つの物事からいろいろなことが派生していて、何らかのつながりがある…(中略)…教師の仕事は、子どもたちと関わることだけではなくて、その周りの環境に配慮したり、教師同士で会議などで行っていたコミュニケーションをとったりと、とても広い…(中略)…一見つながりのないものだと思っても、派生していたものをたどっていくとつながりがあって深いなと感じました」、「実習中には深く考えていなかったところを、今回改めて書くことで、これはどうなんだろうと思うところがたくさんありました。また、全く関連していなさそうなものが意外と関係していたりして、発見することもたくさんありました。…(中略)…教師の仕事というものは、事務的なことよりも人間関係や子どもたちの援助や支援の方が大きいと感じ、保育者を目指すにあたってどういうことをすればよいのかということが見えてくるのではないかと思いました」という学生のコメントに見受けられます。
さらに興味深いコメントとして、次のものも紹介したいと思います。「(教師の仕事は)本当に終わりがないということをマップにしてみてとても感じました。この仕事はここまできたら終わりといった印もなく、むしろ他になにをしていったらよりよくなるだろう、自分がまだ気づいていなかった点も他の人と話すことからまだまだあるということ、など、することがだんだん増えていくこと、増やしていけることによってよりよい仕事になっていく職業だと感じました。視点も一つではなく、親目線、子ども目線、先生目線などさまざまなことを全て含めて考えて行動していく仕事だと思いました」。これは、まさに学び続ける専門家としての教師像の一端を把握している現れとも言えるでしょう。1週間という短い期間であっても、学生たちは仕事(業務)という視点から幼稚園教諭に関する振り返り(省察)を行った結果、教師の専門性という観点にまでつながる知見を学ぶことができたようです。こうした学生たちの学びや気付きについては、次回でも紹介したいと思います。

「龍短における幼稚園教員の養成1:実習の体系」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
龍谷大学短期大学部では、2011(平成23)年度より「こども教育学科」という学科が新たに立ち上がりました。これまで保育士養成の機関として、その歴史を50年近く積み重ねてきました本学は、こども教育学科の開設により、幼稚園教員の養成も行うことになりました。幼稚園教諭と保育士資格の両方を取得することが(とりわけ短大において)当然視されている近年の傾向からみると、本学はいわゆる後発組といえるでしょう。
新学科が開設されて2年目に入りましたが、幼稚園教員養成に関する実習や就職等の進路のことなど、すべてが初めてのことばかりであり、暗中模索、試行錯誤の日々を過ごす中で、ようやく1年が過ぎたというのが率直な感想です。それでも、昨年入学した学生は早くも卒業年次生として、日々学生生活を楽しく過ごしている様子が窺えます。
そうした中で、本学の一教員として私が養成等について感じてきたことや考えてきたことを、今回、この連載の場を借りて、少しばかり述べさせていただきます
まず、本学の教育実習の体制について紹介します。本学は、教育実習を観察実習(1週間)と本実習(3週間)の2回に分けて行います。実習を行う時期は、観察実習の場合、1年次の2月下旬頃に1週間、そして本実習の場合は2年次の10月頃に3週間、となっています。この原稿を執筆している段階(2012年8月)では、こども教育学科の2年生は、今年の2月に観察実習を終え、10月の本実習に向けた準備を行っている状態です。
さて、先に実施した観察実習に関しては、お世話になった園の先生方から、戸惑いのお声を少なからず頂戴しました。その主なものは、「1週間では短すぎる」、「1週間という実習は聞いたことがない」といったものです。(京都に限らず)他の大学や短大では、2週間を2回に分けて行うパターンや、4週間を一括して行うパターンの実習が多いようです。1週間+3週間というパターンも見受けられるのですが、その場合、最初の1週間を大学の付属幼稚園で行うのがほとんどのように思われます。しかし、本学には付属幼稚園がなく、そのため、観察実習の1週間もさまざまな幼稚園にお願いすることになったのですが、この点が、実習を引き受けていただいた幼稚園の先生方に少しばかり異例のことのように感じられたようです。このことを受けて、本学では幼稚園実習のより良いあり方について、早速検討に入っているところです。
とはいえ、1週間という短い期間の実習でも、お世話になった幼稚園の先生方のおかげで、学生たちは多くのことを学ぶことができたようです。例えば、幼稚園教諭の仕事の特徴や求められる力量、子どもの育ちの特徴などについて、学生たちは自分なりの発見をして、いろいろな形で理解を深めることができました。次回は、そうした学生の学びの様子等を報告させていただきます。

「保育の四季 その4 2月―劇遊びのなかの自然」
京都橘大学教授 神谷栄司
幼稚園では2月頃に生活発表会が行われることが多い。しかも、かなりの割合で劇が取り組まれているようだ。
それはすでにその園の習慣となり伝統ともなっているであろう。
しかし、時々は「なぜ劇遊びなのか」と自問してみることも意味のあることである。
なぜ劇遊びなのか
幼児の劇には、ことばと身ぶりがあり、背景画や小道具などの絵画・製作があり、歌もある。つまりは総合的な表現活動なのであるから、保護者に子どもたちの姿を見てもらうには格好の機会となる。さらに、子どもたちが劇に面白さを感じ、その物語に共感することができると、そこには、良い意味で「背伸び」した「精一杯」の表現と成長が見られる。面白いから可能になる「背伸び」である(より正確にはヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」の展開であろう)。
だが、幼児の劇をめぐっては一種の誤解がある。大人の劇あるいは小学生の劇をモデルにするという誤解である(また、その逆に舞台上で「自由遊び」を繰り広げれば良しという誤解もある)。それらの誤解は、幼児がどのように物語を理解し共感しうるのかという幼児の独自性を深めないことに由来している。
大人が、小説にせよ脚本にせよ、熱中して読んでいるとき、眼は文字を見ているのに、頭のなかではその場面・出来事・人物の映像が浮かんでいる。大人がそれだけのことばの水準を持っているからである。だが幼児はそうはいかない。物語を読み聞かされて、それだけで理解や共感を得る子どもはわずかであろう。挿絵があるとはいえ、ことばだけで出来た物語は眼に見えない(それが大人との違いである)。人の外側で物語を眼に見えるようにすること――それが劇遊びである。自分がある役をもちながら、相手役の子どもの身ぶりを見る。他の子どもたちが身ぶりやことばで創り出している場面と景色を見る。そのように、ことばを可視化するものが劇遊びなのだ。これを通して幼児には理解と共感が生まれてくる。これが、物語の理解や共感をめぐる幼児の独自性の本質であろう。
劇のなかの自然
さて、5歳児の劇を見ていると、4月以来、自然に親しみ、それで遊んできたことが支えているなぁ、と感じることがある。「バンビ物語」を例にとれば、母親に連れられて初めて早朝の草原に出たバンビが花や草を見つける。「あっ、お花だ」と言ってバンビが近づくと、それはチョウであって、ふわりと飛んでいく。「あっ、草だ」と近づくバンビを見ると、バッタが跳び出していく。台詞がひとつもなくチョウやバッタになって飛んでいく子どもたちの身ぶりが何とも生きている。勢いがある。こんなところに自然の体験がふっと顔を出すのである。
木の葉がいっぱい落ちている晩秋の森を駆け巡るバンビとその仲間。バンビたちが疾走すると木の葉が舞い上がる、という両者の絡み合いもリアルであった。そして冬が近づくと、風が木の葉を吹き飛ばしていく。最後に飛ばされて舞う一枚の木の葉になった女児の身ぶりと表情が物悲しくもある。それは、バンビが母を失う狩場のシーンの序曲であった。こうして、私たちは子どもの想像の素には現実(自然)があることを教えられる。
そのように、劇遊びを支える回想された自然によって、保育の四季は幕を閉じる。ここに劇遊びの真の意味は一年間の保育のまとめであることが判るのである。

「保育の四季 その3 11月―木の葉とカマキリとボクの小さなドラマ」
京都橘大学教授 神谷栄司
初秋の運動会が終わると、園庭や園の周辺で、子どもを惹きつけてくれる自然はドングリと木の葉くらいしか残っていない。それらは、自らは動かない自然である。春から夏にかけて生命と生活のある動きを見せてくれる躍動的な小虫や小動物とは趣きが違っている。そうした静かな自然のなかにドラマが感じられるには幼児のさらなる想像力が必要となる。
木の葉への愛着
この場合、想像とドラマの出発点になるのは自分が見つけて気に入ったドングリや木の葉への愛着である。園外の林で、保育者が「自分の気に入った木の葉を一つだけ、幼稚園に持って帰ろう」と言うと、実に多様な木の葉が選ばれている。その理由は、「穴が空いているのがいい」「真っ赤なのがいい」「半分黄色で半分緑なのがいい」「緑の線が入っているのがいい」「パリパリなのがいい」など様々だ。保育室には幼児ひとりひとりが作った「宝箱」が待っている。皆でそれぞれの木の葉を紹介しあったあと、その箱に木の葉を大切に置くのである。これを起点に、園庭の木の葉を同じように拾ったり、木の葉についての絵本を読んだり、木から飛び降りたり風に飛ばされる木の葉について話し合い身ぶりで表現したりする。何日かが経つと、毎日、数名が登園前に見つけた木の葉を園に持って来るようになる。
ある4歳児の物語
晩秋のある朝、4歳の男児がそのように持ってきた木の葉をクラスの皆の前で紹介してくれた。登園直後に保育者に見せて話したのであろうか、保育者はその子の話をうまく補う。それによると、この子は登園途上で立ち寄った公園の木の葉の吹き溜まりでこの木の葉を見つけた。気に入ったので、これを幼稚園に持って行こうと思い、手にしたところ、木の葉の下で「カマキリさんが寝ていた」(死にゆくカマキリであろう)。男児はカマキリさんも「寒いから葉っぱをお布団にして寝ているのだ、悪いことをしたなぁ」と思い、その木の葉をカマキリさんにそっとかけてあげた。ところが、あたりを探しても、先ほどの木の葉が一番良く思え、何度も、その木の葉を手にしたり、カマキリさんに返したりした。そのうちに、その木の葉によく似た木の葉を見つけたので、新たに見つけた方をカマキリさんにかけてあげた。そのようにして持って来たのがこの木の葉だ、という紹介だった。その一枚の木の葉にカマキリさんとボクの心温まるドラマが隠されていたのである。
子どもの心を育ててくれる自然
たしかに人間を育てるのは人間である。だが、教育熱心な大学教員には「学生を育てるのは教員だ」という一種の思い違いがある。そうではなく、学生をもっとも奥深く育てるものは学問そのものだ(そのとき落語家が高座からふっと消えて噺の登場人物と化すがごとく教員も姿を消さねばなるまい)。それと同じように、幼児の心を深部から発達させてくれるものは、この一枚の木の葉、自然そのものではないのか。僕は園からの帰り道、そんなことを考えていた。

「保育の四季 その2 6月のツバメたち」
京都橘大学教授 神谷栄司
6月の梅雨のさなかに涼風を吹き込んでくれるのはツバメである。よく考えてみれば、幼児の眼に野生の鳥のひとまとまりの生活を見せてくれるのはツバメくらいのものであろう。それに比べればスズメやカラスは生活の断片しか見せてくれない。巣作りから出産と子育て、飛びのための「教育」、そして巣立ち。これらすべてが人間生活のすぐ隣りで営まれている。つまり、保育の素材という視点からすれば、これほど重宝な鳥はいない。
中くらいの自然の世界
10年余り前に気づいたのであるが、4~5月の園庭での小虫や花や木々から想像されるドラマを「小さな自然の世界」とするならば、ツバメやお池(カメ、ザリガニ、カエル)は「中くらいの自然の世界」を創り出している。その理由は、園外に出かけて見る世界であることやひとまとまりの生活を見せてくれるだけではない。ツバメの世界は「ひとまとまり」といっても、半分は見られるが、もう半分は見られないので、「小さな自然の世界」と比べると、一段と子どもに想像することを求めるからである。子どもの眼をひきつけるツバメの巣も、幼児の眼の位置からすれば、実はあまり見られない。子ツバメも最初は小さく黄色いくちばしと鳴き声だけが判る程度であろう。相当に大きくなって初めて子ツバメは黒い上半身を見せてくれる。親ツバメの餌やりはよく見えるが、飛んでいる姿はなかなか眼にとまらない。巣の真下に落ちている虫から、親ツバメが虫をつかまえて餌にしていることは判るが、ツバメが虫を捕らえているところは見えない。このように、眼に見えたものから見えないものを想像するのである。
「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」
ある幼稚園の公開保育研究会で、5歳児組のツバメの保育を見ることがあった。そこで、実に子どもらしいことばを聞くことができた。「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」である。巣の前にある大木をよけて飛ぶ親ツバメを見て、「よけとび」ということばが生まれ、それに続いて上方を飛ぶツバメは「うえとび」、地上すれすれに飛ぶツバメは「ぎりぎりとび」だという。大人が与えたのではない、子どもに由来することばには、子どもの感情と想像がいっぱい詰まっている。そうした実際に見てきたツバメやその巣について話し合われたあと、子どもたちは身ぶりで「自分の」ツバメを次々と表現しだした。最後は、それぞれの飛びをする全員のツバメの乱舞である。実に楽しい。子どもたちの喜びが伝わってきた。そして、そこにある子ども各人の小さなドラマをクラス皆の共通のドラマにしていくのが一歩先にある課題だろうな、と感じた。
自由遊びでのツバメごっこ
上記のホールでの保育の前には、保育室でツバメごっこが行われていた。子どもたちは勢いよく大積木でいくつかの巣をつくり、それを基地にして、部屋中を飛びまわったり、なかには、園庭にまで出て飛んでいったりするツバメの子どももいた。保育者が「さあ、ツバメごっこをするよ」と誘うのではない。子どもたちから「積木を出していい?」と尋ねてくるのを待つのである。そのようにして始まるツバメごっこには勢いがある。自由遊びはやはり子どもたち自身のものである。