新連載

「保育の四季 その4 2月―劇遊びのなかの自然」4回シリーズ(4)

「保育の四季 その4 2月―劇遊びのなかの自然」

京都橘大学教授 神谷栄司

  

 幼稚園では2月頃に生活発表会が行われることが多い。しかも、かなりの割合で劇が取り組まれているようだ。
それはすでにその園の習慣となり伝統ともなっているであろう。
しかし、時々は「なぜ劇遊びなのか」と自問してみることも意味のあることである。

 なぜ劇遊びなのか

 幼児の劇には、ことばと身ぶりがあり、背景画や小道具などの絵画・製作があり、歌もある。つまりは総合的な表現活動なのであるから、保護者に子どもたちの姿を見てもらうには格好の機会となる。さらに、子どもたちが劇に面白さを感じ、その物語に共感することができると、そこには、良い意味で「背伸び」した「精一杯」の表現と成長が見られる。面白いから可能になる「背伸び」である(より正確にはヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」の展開であろう)。

 だが、幼児の劇をめぐっては一種の誤解がある。大人の劇あるいは小学生の劇をモデルにするという誤解である(また、その逆に舞台上で「自由遊び」を繰り広げれば良しという誤解もある)。それらの誤解は、幼児がどのように物語を理解し共感しうるのかという幼児の独自性を深めないことに由来している。

 大人が、小説にせよ脚本にせよ、熱中して読んでいるとき、眼は文字を見ているのに、頭のなかではその場面・出来事・人物の映像が浮かんでいる。大人がそれだけのことばの水準を持っているからである。だが幼児はそうはいかない。物語を読み聞かされて、それだけで理解や共感を得る子どもはわずかであろう。挿絵があるとはいえ、ことばだけで出来た物語は眼に見えない(それが大人との違いである)。人の外側で物語を眼に見えるようにすること――それが劇遊びである。自分がある役をもちながら、相手役の子どもの身ぶりを見る。他の子どもたちが身ぶりやことばで創り出している場面と景色を見る。そのように、ことばを可視化するものが劇遊びなのだ。これを通して幼児には理解と共感が生まれてくる。これが、物語の理解や共感をめぐる幼児の独自性の本質であろう。

 劇のなかの自然

 さて、5歳児の劇を見ていると、4月以来、自然に親しみ、それで遊んできたことが支えているなぁ、と感じることがある。「バンビ物語」を例にとれば、母親に連れられて初めて早朝の草原に出たバンビが花や草を見つける。「あっ、お花だ」と言ってバンビが近づくと、それはチョウであって、ふわりと飛んでいく。「あっ、草だ」と近づくバンビを見ると、バッタが跳び出していく。台詞がひとつもなくチョウやバッタになって飛んでいく子どもたちの身ぶりが何とも生きている。勢いがある。こんなところに自然の体験がふっと顔を出すのである。

 木の葉がいっぱい落ちている晩秋の森を駆け巡るバンビとその仲間。バンビたちが疾走すると木の葉が舞い上がる、という両者の絡み合いもリアルであった。そして冬が近づくと、風が木の葉を吹き飛ばしていく。最後に飛ばされて舞う一枚の木の葉になった女児の身ぶりと表情が物悲しくもある。それは、バンビが母を失う狩場のシーンの序曲であった。こうして、私たちは子どもの想像の素には現実(自然)があることを教えられる。

 そのように、劇遊びを支える回想された自然によって、保育の四季は幕を閉じる。ここに劇遊びの真の意味は一年間の保育のまとめであることが判るのである。