新連載

2 回シリーズ(1)

「おもちつき大会の思わぬ「役割」

京都橘大学教授 神谷栄司

 数年前、1 月下旬に開かれた幼稚園の園内研究会に招かれました。2 月の生活発表会での劇に向けて、
どのクラスも劇遊びです。

 4 歳児クラスは「おむすびコロリン」に取り組んでいました。その日は、ねずみたちがおもちをついているシーンでした。5 人ほどの子どもが皆の前に出て、想像の臼と杵でおもちつきです。ここまでは「それなりの」保育でしたが、突然、ひとりの男児がすくっと立ち上がり、おもちつきをしている子どもたちを指さして、「それではうまいおもちができん!」と大声を出したのです。何のことかとその子を見ると、「これが要る」と言って、右手の繊細でリアルな動きです。おもちの「かえし」が要る、と男児は言いたいのです。すると「わかった」と言わんばかりに、いちばん近くでおもちつきをしていた子どものところに、脳性麻痺の女児が勢いよく這って行き、うつぶせのまま「かえし」を始めたのです(補助の先生はびっくりして女児を支えて立たせてあげました)。こうして、皆の表情が楽しさの笑みにあふれ、クラスの空気が変わりました。他にも「かえし」をしたい子が自発的に出てきたのです。

 この短時間の保育のなかに汲み取るべき価値が詰まっていると思いました。それをあげてみましょう。
 イメージ(想像上の場面と役)で遊ぶことがこれ程まで子どもたちの喜びとなり、彼らの積極性を引き出していることです。自発的に立ち上がった男児も、勢いよく這い出した女児も、保育者に許可を求めたのでも、保育者に指名されたものでもありません。それを見ている子どもの多くも瞬時におもちつきを理解しました。このように、子どもはときどき保育の進行を助けてくれます。そのおおもとには、遊びの楽しさがあります。

 また、イメージの遊びの一部ですが、男児のリアルな「手の動き」(おもちの「かえし」の身ぶり)がこの子の想像を他児によく伝えています。幼児もことばによって想像が喚起されるのですが、大人ほどではありません。大人は小説に熱中するとき、ことば(語と文脈)が頭の中でその人流の映像を創り出しますが、幼児はそうはいきません。
まだまだ「見える」ことの役割が大きいのです。身ぶりは眼に見えます。幼児の「お話における身ぶり」は大人における「小説のことば」に匹敵し、ちょっと硬く言えば、同じように想像のなかの観念と感情を伝えてくれます。

 さらに言えば、クラスのなかで分かちあえる想像は、それ以前に、クラスの共同的な体験があるとき、よりリアルでより確実なものになります。

この保育の場合、
 2 学期末におもちつき大会があったそうです。詳しい状況は聞いていませんが、かの男児は「かえし」に著しく興味を抱いたのでしょうし、他児もそれ程ではないにせよ面白さを感じていたのでしょう。その体験が保育者には思いもかけない形で現れたのが、この日の保育でした。
 以上のようなことが積み重ねられると、「そのクラスだけ」の作品が創られていきます。幼児の劇はそのようでありたいものです。

3 回シリーズ(3)

「学校だより」より、「あかりをともす…」

京都市立小栗栖宮山小学校 校長 畠田靖久

 以前、ある学校の支援員の方と話をする機会があり、「子どもの中にいるのは文句なしに楽しいね!」と話をしている中で、こ
んなことを聞かせていただきました。

 「『先生!一緒にスキップして!』と、腕を組んでくる子がいたんです。『いいよ!』と一緒にスキップしたんだけど、それだけであんなにうれしそうに笑ってくれるんだ、子どもとリズムを合わせて動き、一緒に笑うことがこんなに幸せなことなんだって、気づきました…」

 ドキッとした言葉でした。子どもと笑顔を共にすることが幸せなことだということ、私も含めて学校の教師はどれだけ感じていることでしょう。日々、授業に準備や取組の忙しさに追われ、忘れてしまったり、感じにくくなってしまったりしていることがないか、自分自身をふり返って、子ども達にもう一度向かっていきたくなる話でした。そして、こんな話もされました。

 「一緒にいるとき、子どもが時おりぽろりとこぼす言葉や見せる表情から、その子の抱えている『闇』に気づくときがあるんです。そのときは、どうやって小さい灯りを見つけてあげられるだろうか…、とそっと背中に手を当てながら一緒にさがすんです。」

 ハッとしました。温かく、強く心に響く重い言葉でした。

 どの子も、どんな子も、目には見えないけど、いっぱいの「育ちの不安」を抱えて生きています。自分を認め、支えてくれる人を探しながら、居場所を求めてさまよっている子もいます。そんな子を支える方法は、けっして大人の目線からではなく、一人一人を大切に考え「そっと背中に手を当てながら、一緒に灯りをさがす」目線から見えてくるものです。不安だけど一生懸命に行き先を探している子ども達にとって、道しるべとなる灯りを一緒にさがしてくれる大人の存在がぜひとも必要です。子どもは小さい大人ではありません。

大人の都合のいいように、思うように子どもを作りあげることが、子育てや教育ではありません。どの子も、生まれつき自分で力強く育つ力を持っています。一つ一つの「発達」の階段を一歩一歩、一生懸命に自分で上っていくのです。私たち大人の役割は、子どもの力を信じて、いつもそばに寄りそい、しんぼう強く後ろから見守り、いつも安心して力がいっぱい発揮できるような「場所」や「道しるべ」を用意してあげることなのですね。

 子ども達には、そんなすてきな大人にいっぱい出会ってほしいですし、私もそんな教師になりたいと心に深く刻む言葉でした。

 こういった支えを、ほんの少し多く必要としている子もいます。障がいがある子どもや、育ちの中でいろんな「しんどさ」を抱えてきた子ども達です。そういった子ども達の支え方には、その子に応じた工夫や心構え、知識がなければ抱えきれないケースも多くあります。学校ではすべての教職員が「教育のプロ」としての自覚や技術、そして感性をしっかり持ち、保護者や地域の方々と手を取り合いながら、すべての子ども達の「闇」に気づき、光を当てられる、そして、子ども達の笑顔やきらきら光るまなざしによろこびを感じられる教育をめざしていきたいです。

 子ども達の健やかな育ちのため、みなさまのご理解とご協力もよろしくお願いいたします。

3 回シリーズ(2)

「学校だより」より、「スリッパそろえていますか?」

京都市立小栗栖宮山小学校 校長 畠田靖久

 日々の日課として、学校やクラスの子ども達のようすを見て回っています。その際にいつも確かめていることがあります。トイレのスリッパの並び方です。

 あっちこっちに散らばっているところもあれば、きちんとていねいに並んでいるところもあります。中には手できれいにそろえている子も見かけます。スリッパの並び方で、その時のクラスや学年、学校全体の子ども達の心の中の状態がよくわかります。

 今月(12 月)は「人権月間」です。「人権」というと何か堅苦しいような、重いようなイメージがあるかもしれませんが、そんな言葉を使わなくても、人権をだいじにしている思いや心の表れは身のまわりにいっぱいあります。次の人が気持ちよく使えることを考えて、トイレのスリッパをきれいに並べておくことも、一つの「人権」感覚の表れです。他の人が困らないよう、しんどい思いをしないよう、そしてうれしい気持ちになってくれるようにいつも気配りができること、言いかえれば『人の存在をいつも意識できること』が「人権」の根となる感覚です。トイレのスリッパを並べている子をほめた時、その子はこんなことを言いました。「スリッパがきれいに並んでると、みんな気持ちよく使えるし、ぼくも気持ええねん…。」普段はおとなしくて、あまり目立たないこの子が、クラスでみんなから慕われていることがよく分かりました。

 コンビニでドアを開けて支えたまま次の人が入るのを自然に待つ人がいる、そして、待ってもらったほうは会釈や言葉で小さく「ありがとう…」と伝える、こんな日常の事でも、まさにお互いに「人の存在を意識した」豊かな人権感覚の表れを感じますね。

 ただ、こういった「人権」意識につながる感覚を、実際の行動や表現につなげていく大切なツールは

「言葉」です。ちくちく・とげとげした言葉からは、ちくちく・とげとげの心が育ちます。反対にふんわか・ほかほかの言葉からは、ふんわか・ほかほかの心が育ちます。さらに、心が揺り動かされる体験や経験は、意識行動を育て、実際の行動につなげていくためにとても大切です。学校では、豊かな言葉や体験活動をこういった面からも大切に進めていきたいと考えています。お家でも子ども達の言葉の環境を意識して整えていただくこと
や、感動を共鳴し合えるような場面をたくさん作っていただけるよう心から望んでいます。

3 回シリーズ(1)

「学校だより」より、「本」と出合おう!

京都市立小栗栖宮山小学校 校長 畠田靖久

 文化の日をはさむ2週間は『読書の日』です。
 私自身、今まで数多くの「本」と出会いは、現在の姿に大きく影響していると思います。
 最初の本との出合いは、記憶に残っている限り「いやいやえん」という本です。幼稚園以前のことです。
内容は、積み木の船で海に出かけたり、約束を破って山に入ると鬼が出てきたり、お話の世界に引き込まれて、すごくワクワクしました。何十回も何百回も読んでもらったと思いますが、毎回、海や山、森に行き、主人公のしげると一緒に冒険し遊んだことが鮮明に印象に残っています。モノクロの絵ですが、しげるがクレヨンで落書きした赤色がなぜか強烈に心に焼き付いています。その後も、限りなくいろんな本と出合いました。

 戦後間もない昭和22 年、まだ戦争の傷跡が数多く残る中で、「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」と、官民マスコミが一緒になって『読書週間』が始まりました。この運動は日本の国民的行事として定着し、日本人は世界有数の「本を読む国民」になりました。戦後の日本の発展を支えてきたのはこんな読書習慣の
積み重ねであったかもしれません。

 しかし、時代の流れの中でテレビやゲームが急速に普及し、子ども達から「本」が離れていきました。さ
らにコンピュータやケータイの加速度的な普及は、その利便性の一方で「読書」という子どもの全人格的な「ま
なび」を阻害し始めました。ケータイ依存、ゲーム中毒といった緊急的な課題はさて置き、目に見えないところで子ども達の活字離れがどんどん進行してきている状況は、未来の日本を背負って立つ子ども達の「想像力」「人間力」に大きな影を落としているのではないでしょうか。
 日本の子ども達の「学力」が相対的に低下しつつあるという議論がよくされます。「学力」を支える「考え
る作業」は、脳に豊富に使えるツール(道具)としての「言語」なしでは成り立ちません。算数でも社会で

も学校でのすべての教科の学習は「言葉・文字」を通して行われます。脳の中で言語を自由に使いこなせる
子と、使うのに四苦八苦している子とでは、「学び」の量や質に大きな差が出てくるのは当然です。それぞれ
の豊かな発想を、整理し表現していくのはまさにその子が持つ「言葉・文字」の力です。

 一方、子どもを取り巻く言語環境の劣化も見過ごせません。テレビのお笑いで「しね!」というような言葉が平気で使われる状況や、顔の見えないネットで相手へ誹謗・中傷の書き込みの氾濫など、人と人を豊かにつなぐ「言葉」の環境がどんどん失われつつあります。
また、家庭で一日を振り返りながら楽しくじっくり語り合う場や時間が減ってきているのも事実です。さらに、本や新聞などがいつも身近にない環境にもなりつつあります。そんな中で、家庭での会話が短い単語文でしか成り立っていないところも多くなってきているでしょう。

 だからこそ、今もう一度、意識的に「本」を子ども達の手元に取り戻すことが必要なのです。学校でも『読
書週間』での発信や、「一人一冊」「いつも手元に本を!」といった取組を進めています。ぜひお家でも簡単な絵本でいいので子どもに読み聞かせをしたり、一緒に図書館や本屋さんで好きな本を選んだり、大人が読書を
する姿を見せたり、テレビを消して本に向かう日や時間をきめたりして、子どもの「本」との出合いをいっ
ぱいさせてあげてください。

 勉強を楽ちんにスムーズに進められることで「学力」を向上させ、一人一人の想像力を生きる力に結び付け、
未来につながる世界や道を広げること間違いナシ!です。

「子どもの遊びの充実」を願って・・・・

「幼児らしく生きる」とは・・・・

京都文教短期大学  幼児教育学科
講師 白井 直美

 子どもの命にかかわるニュースが後を絶たない毎日、神戸市で起こった女児の尊い命が奪われるという痛ましい事件は、子ども達の安全・安心が守れない現実があることを突き付けられ、残念で悔しい思いをしたのは、私だけではなかったと思います。日々の生活でも、通勤電車で乗客の10人中の6~7人は、スマホに夢中で周囲に目もくれない人々の姿を目の当たりにします。かわいい幼児連れの親子と同乗した時、じっとしていることに我慢できなくなりぐずって泣き出した2歳ぐらいの子にお母さんがためらいもせずスマホを手渡しました。その瞬間、スマホを手にした子どもは泣き止み遊び出したのです。私は驚きと同時に、全身で五感を使って遊ぶ楽しさを体験する以前にスマホやゲームが子ども達の生活環境に入ってきている現実に唖然としました。

 このように、子ども達を取り巻く地域環境やライフスタイルの変化により、幼児が、もの・人・ことなどとじっくりかかわり、触れ、感じ、考える時間や機会が少なくなってきている今日、幼稚園での遊びの体験は大変重要であり「子どもの遊びを充実させるためには何が必要なのか」ということだと思います。充実した遊びの中でこそ、子どもは物や人とよくかかわり、周囲の環境に目を向け、考えを生み出したり深めたりすることができるのです。

 そのために、大切だと考えられることの一つ目は、しっかり食べて、しっかり睡眠をとり体の調子を整えよく遊ぶことです。心身ともに健康であることが基盤となります。二つ目は、子どもが自分から始めた活動(遊び)を一緒に楽しむ教師の存在が非常に重要なのではないでしょうか。子どもの遊びにかかわる教師が、子どもの遊ぶ姿をゆったりと受け止め「遊べるか」ということと、教師自身の発想の豊かさだと思います。子ども達が、思わず遊び出したくなるような環境やヒントを如何に提供できるかにかかっているのです。子どもが、「自分から、自分で、自分なりに」考えて行動する主体性につながります。三つ目は、遊びの中で子ども同士のかかわりを生み出し、深めることです。遊びのおもしろさは、友達とのかかわりの中で膨らみ、友達の動きや言葉がきっかけとなって心が動き、そして、一人の体験で得るよりもはるかに大きい「や
ったぁ」、「できたぁ」といった達成感や充実感を味わうのです。間接的にも直接的にも子ども同士は影響し合い、刺激し合いながら生活しています。子どもが真剣なまなざしで遊び込む姿や、友達と目的を共有し一人ひとりが役割をもって遊んでいる姿から、私達は遊びの充実を実感できます。

 終わりに、体を動かすことを心地よく感じる季節を迎えました。子ども達の戸外遊びは充実し、各幼稚園の園庭では楽しい遊びが展開されていることでしょう。まさしく運動の秋です。先生方も子どもと共に満喫してください。

「幼児らしく生きる」とは・・・・

「幼児らしく生きる」とは・・・・

京都文教短期大学  幼児教育学科
講師 白井 直美

 平成21年度から実施された現幼稚園教育要領は、今の、そしてこれから先の時代の変化を踏まえて改訂されたものです。子どもを取り巻く環境がどのように変化しようとも、幼稚園においては、幼児の生きる力をはぐくむためには、教育の不易と流行を見失うことなく幼稚園・家庭・地域が連携し合い、幼児期を幼児らしく生きることができる社会をつくることが必要です。そこで、「子ども・子育て支援新制度」が平成27年の春に本格スタートするこの時期にこそ、幼稚園教育要領を踏まえた「幼稚園教育の在り様」を再確認したいのです。

 子ども達が初めて出合う学校が幼稚園です。「幼稚園」は、安心して自分を発揮し、仲間との遊びに没頭することで自己を実現していく充実感と他者とつながることの喜びを存分に味わうことができる場であり、そうした体験が、人格形成の基礎を培い、これから先の人生を支え生きる力の土台となるのです。

 幼稚園では、幼児の生活や遊びといった直接的・具体的な体験を通して、人とかかわる力や思考力、感性や表現する力などをはぐくみ、人間として、社会とかかわる人として生きていくための基礎を培わなければなりません。幼稚園教育は、環境を通して行う教育であるということから、教師の果たす役割が大
変重要になってきます。一人ひとりの幼児に対する理解に基づき、環境を計画的に構成し、幼児の主体的な活動を直接援助すると同時に、教師自らも幼児にとって重要な環境の一つであるということです。

 幼稚園における保育とは、幼児自身が活動することを通して様々な経験を積み重ね、発達に必要なものを身に付けていけるように援助する営みです。教師は、幼児を理解することを保育の出発点とし、幼児がいま何に興味をもち、何を感じ、何を実現しようとしているのかをとらえて、発達に必要なものを身に付けていける豊かな学びとなるように援助することが重要です。

 そのため教師は、幼児の言動を表面的に理解するのではなく、肯定的に幼児一人ひとりのよさや可能性をとらえようとしてかかわることが必要となります。目の前に起こる活動の流れだけを追うのではなく、幼児の言動を周囲の状況や前後のつながりと関連付けて考えてみることで、幼児の心の動きや活動の意味が理解でき、豊かな学びにつながる援助ができるのです。そして、常に幼稚園生活が幼児期の発達を促す場としてふさわしいものになっているかどうかを振り返り、確かめ合うことが必要です。

 幼稚園で「幼児らしく生きる」とは、幼児自身が夢中になって遊び、その中で「出合い」「試み」「考え」「悩み」等々、時には「傷つき」それを乗り越えて「喜び」「楽しむ」という、まさに「生きる」基本にかかわる様々な経験をしているといえます。幼児がそうした日々を過ごしていくためには、教師自身も幼児の様々な思いを受け止め、いつも幼児と共にあり、共に感じ、幼児に学ぶ、そうした教師の在り様が求められます。

 「人が人を育てる」という保育(教育)の営みでは、悩みながらも幼児(学生)と真摯に向き合い、前向きに保育(教育)を進めていくことが大切なのではないでしょうか。

「子どもと音楽」3回シリーズ(3)

【第3回】「「互いに感じ合って生み出すリズム」

京都教育大学
平井恭子

 「子どもと音楽」のシリーズも3回目になりました。1回目と2回目では、人が生まれてうたと出会い、やがて声と身体の動きがリズミカルに同期するようになる過程についてお話してきました。最終回の今回は、他人の声や動きのリズムに自分の声や動きを合わせる行為がもつ意味について考えてみたいと思います。

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 写真は、5歳児と6歳児が「じゃんけんほいほい」の遊びをしている場面です。この遊びでは「じゃんけんほいほいどっちかくす? こっちかくす、あいこでほいほいどっちかくす? こっちかくす…」とリズミカルに唱えながら拳を出したり引いたりします。二人は勝敗が決まっても、飽きることなく何度もこの遊びを繰り返しており、その様子からこの遊びの楽しさの要因が勝敗を決める以外にもあるのではないかと考え、遊びの様子をよく観察しました。すると、「動作のタイミングを揃え」たり、「二人揃って唱え」たりするために、拍に合わせて両腕や膝を上下させたり、お互いの呼吸を感じて拳を出すタイミングを調整していることが分かりました。つまり、こうして生み出されたリズムがこの遊びをさらに楽しくしているのではないかと気付きました。

 さらに、ある幼稚園で4~5歳児50名を対象にじゃんけんをしている場面を観察したところ、じゃんけんのタイミングをそろえるために子どもたちは様々な工夫をしていることが分かりました。例えば腕の振り下ろし以外にも、声を出しながらジャンプする、「あいこでしょ」の「しょ」の部分で足を踏み出す、など、足でタイミングをとったり、前傾姿勢で構える様子も見られました。また、1回目に相手とテンポが合わなかったある男児は、2回目にはかけ声と動きのテンポを落とし腕の動作を大きくして、タイミングを合わせるべく改善を試み、見事成功しました。このように、子どもたちは、遊びの中で相手と声や動きを合わせることに楽しさを見出し、そのために実に様々な工夫をしているのです。

 音楽を演奏する時、相手の音をよく聞き、互いの音を合わせることは非常に大切なこととされています。クラス全員で歌ったり合奏をする時など、先生方は全員の「声(音)を合わせ.る」という点でいつも苦労されているのではないでしょうか? しかし、互いに「音を合わせる」「タイミングを合わせる」といった感覚は、先生に教えられて急に身につくものではありません。じゃんけんのような日常の遊び場面で、子どもたちは、わくわくどきどきしながら互いに呼吸を感じ合い「合わせる」快感をつかんでいきます。子どもたちが掛け声をかけあったり、動作を揃えたりして成立する遊びはじゃんけん以外にもたくさんあります。幼稚園生活の中で子どもたちが互いに感じ合ってリズムを生みだす遊びを、たくさん経験させてあげたいものです。

  

「子どもと音楽」3回シリーズ(2)

【第2回】「リズムにのって動く~心も身体も動き出す」

京都教育大学
平井恭子

 前回は、歌の原点をさぐりながら、歌うこと、歌い合うことのすばらしさについてお話をしました。今回は、歌っているときの子どもの身体の動きに着目し、身体でリズムを感じ動くことの意味について考えてみたいと思います。幼稚園では、音楽に合わせて体操をしたりダンスを踊ったりする機会がたくさんありますが、聞こえてくる音楽のリズムに自らの身体の動きをコントロールして合わせることは、大人が考えるほど容易なことではありません。それでは、音楽に合わせて動く能力はいつからどのように獲得されていくのでしょうか?

身体が自然に動き出す

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 写真は、赤ちゃん(11カ月)とお姉ちゃん(2歳7カ月)の2人姉妹です。お姉ちゃんがが絵本に出てくる子猫の絵を見て「まいごのまいごの…」と「犬のおまわりさん」の歌を歌いはじめると、床に座っていた赤ちゃんがソファーにつかままり立ちし、身体を繰り返しバウンスしたり頭を上下に振りながら歌に合わせて動き始めました。

 このように、音楽のリズムに反応して身体が自然に動き出す行動は、世界中どの文化圏でも認められる現象で、発達の初期の段階から見られます。最近の研究から、赤ちゃんが自分の身体を動かすことがリズムの知覚に有効に働くことが分かっており、ちょうど音声模倣を始める9~10か月頃から、自ら積極的にリズムにのって身体を動かす姿が頻繁に見られるようになります。

手や足の動きが歌と同期しはじめる

 前例にみられるような0歳児の動きは、自然発生的かつ衝動的なものですが、1歳を過ぎると、親や保育者のする手遊びを見て、部分的に言葉を発しながらリズムに同調し始め、2歳から3歳頃にかけて歌いながら動きを再現する能力は飛躍的に発達します。動きの種類でいうと、手拍子や腕を振る動作は、比較的早くから歌と同期するようになります。一方、足の動き(歩く、走る、ジャンプなど)と歌の同期は、認知的な発達との関係から、歌と手の同期からは約1年から1年半遅れて可能になります。

歌いながら動く~心と身体の調和へ

 このように、流れてくる音楽に自らの動きを合わせ始めるずっと前から、子どもたちは積極的に自らの歌と動きを同期させ始めます。自分の声と身体の動きが一体となる心地よさを、生活や遊びの中で十分に味わうことは、音楽的感覚を養う上ではもちろん、心と身体を調和させていく意味で、とても重要です。幼稚園生活の中でも、いろいろなシーンの中で自らの声と動きを調和させる活動を十分に味わわせてあげたいものです。

  

「子どもと音楽」3回シリーズ(1)

「声を合わせる~歌うことは、生きること、つながること」

京都教育大学
平井恭子

 今回から3回シリーズで「子どもと音楽」についてお話したいと思います。まず第一回目は、子どもにとって最も身近な「歌うこと」の意味を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 先日ある幼稚園のそばを通りかかると「こいのぼり」の歌が聞こえてきました。「ああ、もうすぐ子どもの日だな」と感じるとともに、歌は子どもたちの生活を豊かに彩ってくれる大切なものだなと改めて思いました。

うたとの出会いはいつから?

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 ところで、子どもたちはいつからどのようにして歌と出会い、歌うことできるようになるのでしょう。最近の研究では、通常の語りと歌とでは、はるかに歌の方に赤ちゃんが強く引き付けられることが分かっています。写真は、生後3か月の赤ちゃんにお母さんが童謡の「ぞうさん」を歌い聞かせている場面です。お母さんが「ぞうさん、ぞうさん…」と歌い始めると、赤ちゃんはにこにこしながらお母さんの目をじっと見つめ、歌を聞いています。そして、お母さんが2番の歌詞にさしかかったとき、それまで黙って聞いていた赤ちゃんは母の声にやわらかい小さな声で「アー、アー…」と声を重ねてきました。赤ちゃんと身近な養育者との間で声を通じたコミュニケーションが成立した瞬間です。

同調することでつながる

 赤ちゃんとお母さんの例からも分かるように、他者と声を重ねることは一体感を得たり、共鳴したり、社会的なつながりを得る上で非常に有効にはたらいているといえます。またこうした特徴は歌に対してだけでなく、マザリーズとよばれる抑揚の大きい、ゆっくりしたテンポの独特の語りかけにも同様の反応が認められます。音声を通して人と人とがつながること、これがうたの原点といえましよう。

歌の原点を見直してみましょう

 幼児期になると、歌は生活の中で友達との喜びを共有したり、きずなを深めたりするうえでとても大切な存在になります。一人で歌う歌、仲良しの友達と歌う歌、先生やクラスのみんなと歌う歌、歌うスタイルも様々に変化してきますが、互いの声を聞きあい声を重ね合わせることは心と心をつなぐ大きな力となります。少々音がはずれても、ピアノが下手でも気にする必要はありません。歌の原点に立ち返り、先生自身が心をこめて積極的に子どもたちに歌いかけてもらいたいと思います。

  

保育実践で遣いたい『明元素ことば』3回シリーズ(3)

保育実践で遣いたい『明元素ことば』

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科
教授 河嶋 喜矩子

 保育者が、保育実践の場で遣っている言葉には、『明元素ことば』と『暗病反ことば』の2種類があるといわれています。

 『明元素ことば』とは、文字通り、明るく、元気で、前向きな言葉です。たとえば、楽しい、おもしろい、幸せ、きれい、すばらしい、やってみよう等です。

 『暗病反ことば』とは、暗くて、病気で、否定的な言葉、たとえば、忙しい、つまらない、いやだ、だめだ、まずい、不幸だ、困った、つらい、やりたくない等です。

 この2 種類の言葉は、思いを伝えると共に、保育者の生き方や考え方を表すものではないでしょうか。

 先日、ある幼稚園の保育を参観させてもらった時のことです。偶然、この2つの言葉を耳にする機会がありました。遊んでいる途中で、雨が降ってきました。すると、その様子をみたA保育者は、子どもたちに、「あっ、雨が降ってきた。いややねぇー」と不満そうに言葉をかけられました。近くにいたB保育者は、「おや雨さん、降ってきた。お部屋にはいろ。何してあそぼ。お部屋でいっぱいあそべるねぇー」とにこにこ顔で、子どもたちに言葉をかけられました。

 保育実践の場で、保育者は子どもたちに、さまざまな言葉をかけています。言葉を遣って話すということは、保育者としてたいへん重要な役割のひとつです。A保育者の遣った「いややねぇ」は『暗病反ことば』、B保育者の遣った「お部屋でいっぱいあそべる。うれしいねぇ」は『明元素ことば』です。二人の保育者の言葉を聞いて、それぞれの子どもたちは、どう思ったでしょうか。

 保育の営みとは、子どもたちと、夢と勇気と希望を語らうくらしです。私たち保育者はどんな言葉を遣っていけばよいのでしょうか。

 『明元素ことば』を遣おうと心掛けてられるけいこ先生のエピソードをご紹介したいと思います。
[イチゴ いいにおい、イチゴジュースができました]

 3歳児のクラスで、イチゴの栽培をはじめました。みんなで、毎日毎日みずやりをして、大切に育てました。イチゴは見事に育ち、みんなで食べました。

 ある日のこと、葉の下にかくれていた最後の一粒を、まみちゃんがみつけました。大喜びのまみちゃんは、まっ赤に熟れたイチゴを手にして大好きなけいこ先生のもとへ大急ぎで走り出しました。ところが途中でスッテンコロリと転んでしまいました。まみちゃんはイチゴを握りしめたまま大泣きです。まみちゃんの様子をみて、かけよるけいこ先生。さて、けいこ先生は、まみちゃんにどんな言葉をかけられたでしょうか。