新連載

3 回シリーズ(1)

「学校だより」より、「本」と出合おう!

京都市立小栗栖宮山小学校 校長 畠田靖久

 文化の日をはさむ2週間は『読書の日』です。
 私自身、今まで数多くの「本」と出会いは、現在の姿に大きく影響していると思います。
 最初の本との出合いは、記憶に残っている限り「いやいやえん」という本です。幼稚園以前のことです。
内容は、積み木の船で海に出かけたり、約束を破って山に入ると鬼が出てきたり、お話の世界に引き込まれて、すごくワクワクしました。何十回も何百回も読んでもらったと思いますが、毎回、海や山、森に行き、主人公のしげると一緒に冒険し遊んだことが鮮明に印象に残っています。モノクロの絵ですが、しげるがクレヨンで落書きした赤色がなぜか強烈に心に焼き付いています。その後も、限りなくいろんな本と出合いました。

 戦後間もない昭和22 年、まだ戦争の傷跡が数多く残る中で、「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」と、官民マスコミが一緒になって『読書週間』が始まりました。この運動は日本の国民的行事として定着し、日本人は世界有数の「本を読む国民」になりました。戦後の日本の発展を支えてきたのはこんな読書習慣の
積み重ねであったかもしれません。

 しかし、時代の流れの中でテレビやゲームが急速に普及し、子ども達から「本」が離れていきました。さ
らにコンピュータやケータイの加速度的な普及は、その利便性の一方で「読書」という子どもの全人格的な「ま
なび」を阻害し始めました。ケータイ依存、ゲーム中毒といった緊急的な課題はさて置き、目に見えないところで子ども達の活字離れがどんどん進行してきている状況は、未来の日本を背負って立つ子ども達の「想像力」「人間力」に大きな影を落としているのではないでしょうか。
 日本の子ども達の「学力」が相対的に低下しつつあるという議論がよくされます。「学力」を支える「考え
る作業」は、脳に豊富に使えるツール(道具)としての「言語」なしでは成り立ちません。算数でも社会で

も学校でのすべての教科の学習は「言葉・文字」を通して行われます。脳の中で言語を自由に使いこなせる
子と、使うのに四苦八苦している子とでは、「学び」の量や質に大きな差が出てくるのは当然です。それぞれ
の豊かな発想を、整理し表現していくのはまさにその子が持つ「言葉・文字」の力です。

 一方、子どもを取り巻く言語環境の劣化も見過ごせません。テレビのお笑いで「しね!」というような言葉が平気で使われる状況や、顔の見えないネットで相手へ誹謗・中傷の書き込みの氾濫など、人と人を豊かにつなぐ「言葉」の環境がどんどん失われつつあります。
また、家庭で一日を振り返りながら楽しくじっくり語り合う場や時間が減ってきているのも事実です。さらに、本や新聞などがいつも身近にない環境にもなりつつあります。そんな中で、家庭での会話が短い単語文でしか成り立っていないところも多くなってきているでしょう。

 だからこそ、今もう一度、意識的に「本」を子ども達の手元に取り戻すことが必要なのです。学校でも『読
書週間』での発信や、「一人一冊」「いつも手元に本を!」といった取組を進めています。ぜひお家でも簡単な絵本でいいので子どもに読み聞かせをしたり、一緒に図書館や本屋さんで好きな本を選んだり、大人が読書を
する姿を見せたり、テレビを消して本に向かう日や時間をきめたりして、子どもの「本」との出合いをいっ
ぱいさせてあげてください。

 勉強を楽ちんにスムーズに進められることで「学力」を向上させ、一人一人の想像力を生きる力に結び付け、
未来につながる世界や道を広げること間違いナシ!です。

「子どもの遊びの充実」を願って・・・・

「幼児らしく生きる」とは・・・・

京都文教短期大学  幼児教育学科
講師 白井 直美

 子どもの命にかかわるニュースが後を絶たない毎日、神戸市で起こった女児の尊い命が奪われるという痛ましい事件は、子ども達の安全・安心が守れない現実があることを突き付けられ、残念で悔しい思いをしたのは、私だけではなかったと思います。日々の生活でも、通勤電車で乗客の10人中の6~7人は、スマホに夢中で周囲に目もくれない人々の姿を目の当たりにします。かわいい幼児連れの親子と同乗した時、じっとしていることに我慢できなくなりぐずって泣き出した2歳ぐらいの子にお母さんがためらいもせずスマホを手渡しました。その瞬間、スマホを手にした子どもは泣き止み遊び出したのです。私は驚きと同時に、全身で五感を使って遊ぶ楽しさを体験する以前にスマホやゲームが子ども達の生活環境に入ってきている現実に唖然としました。

 このように、子ども達を取り巻く地域環境やライフスタイルの変化により、幼児が、もの・人・ことなどとじっくりかかわり、触れ、感じ、考える時間や機会が少なくなってきている今日、幼稚園での遊びの体験は大変重要であり「子どもの遊びを充実させるためには何が必要なのか」ということだと思います。充実した遊びの中でこそ、子どもは物や人とよくかかわり、周囲の環境に目を向け、考えを生み出したり深めたりすることができるのです。

 そのために、大切だと考えられることの一つ目は、しっかり食べて、しっかり睡眠をとり体の調子を整えよく遊ぶことです。心身ともに健康であることが基盤となります。二つ目は、子どもが自分から始めた活動(遊び)を一緒に楽しむ教師の存在が非常に重要なのではないでしょうか。子どもの遊びにかかわる教師が、子どもの遊ぶ姿をゆったりと受け止め「遊べるか」ということと、教師自身の発想の豊かさだと思います。子ども達が、思わず遊び出したくなるような環境やヒントを如何に提供できるかにかかっているのです。子どもが、「自分から、自分で、自分なりに」考えて行動する主体性につながります。三つ目は、遊びの中で子ども同士のかかわりを生み出し、深めることです。遊びのおもしろさは、友達とのかかわりの中で膨らみ、友達の動きや言葉がきっかけとなって心が動き、そして、一人の体験で得るよりもはるかに大きい「や
ったぁ」、「できたぁ」といった達成感や充実感を味わうのです。間接的にも直接的にも子ども同士は影響し合い、刺激し合いながら生活しています。子どもが真剣なまなざしで遊び込む姿や、友達と目的を共有し一人ひとりが役割をもって遊んでいる姿から、私達は遊びの充実を実感できます。

 終わりに、体を動かすことを心地よく感じる季節を迎えました。子ども達の戸外遊びは充実し、各幼稚園の園庭では楽しい遊びが展開されていることでしょう。まさしく運動の秋です。先生方も子どもと共に満喫してください。

「幼児らしく生きる」とは・・・・

「幼児らしく生きる」とは・・・・

京都文教短期大学  幼児教育学科
講師 白井 直美

 平成21年度から実施された現幼稚園教育要領は、今の、そしてこれから先の時代の変化を踏まえて改訂されたものです。子どもを取り巻く環境がどのように変化しようとも、幼稚園においては、幼児の生きる力をはぐくむためには、教育の不易と流行を見失うことなく幼稚園・家庭・地域が連携し合い、幼児期を幼児らしく生きることができる社会をつくることが必要です。そこで、「子ども・子育て支援新制度」が平成27年の春に本格スタートするこの時期にこそ、幼稚園教育要領を踏まえた「幼稚園教育の在り様」を再確認したいのです。

 子ども達が初めて出合う学校が幼稚園です。「幼稚園」は、安心して自分を発揮し、仲間との遊びに没頭することで自己を実現していく充実感と他者とつながることの喜びを存分に味わうことができる場であり、そうした体験が、人格形成の基礎を培い、これから先の人生を支え生きる力の土台となるのです。

 幼稚園では、幼児の生活や遊びといった直接的・具体的な体験を通して、人とかかわる力や思考力、感性や表現する力などをはぐくみ、人間として、社会とかかわる人として生きていくための基礎を培わなければなりません。幼稚園教育は、環境を通して行う教育であるということから、教師の果たす役割が大
変重要になってきます。一人ひとりの幼児に対する理解に基づき、環境を計画的に構成し、幼児の主体的な活動を直接援助すると同時に、教師自らも幼児にとって重要な環境の一つであるということです。

 幼稚園における保育とは、幼児自身が活動することを通して様々な経験を積み重ね、発達に必要なものを身に付けていけるように援助する営みです。教師は、幼児を理解することを保育の出発点とし、幼児がいま何に興味をもち、何を感じ、何を実現しようとしているのかをとらえて、発達に必要なものを身に付けていける豊かな学びとなるように援助することが重要です。

 そのため教師は、幼児の言動を表面的に理解するのではなく、肯定的に幼児一人ひとりのよさや可能性をとらえようとしてかかわることが必要となります。目の前に起こる活動の流れだけを追うのではなく、幼児の言動を周囲の状況や前後のつながりと関連付けて考えてみることで、幼児の心の動きや活動の意味が理解でき、豊かな学びにつながる援助ができるのです。そして、常に幼稚園生活が幼児期の発達を促す場としてふさわしいものになっているかどうかを振り返り、確かめ合うことが必要です。

 幼稚園で「幼児らしく生きる」とは、幼児自身が夢中になって遊び、その中で「出合い」「試み」「考え」「悩み」等々、時には「傷つき」それを乗り越えて「喜び」「楽しむ」という、まさに「生きる」基本にかかわる様々な経験をしているといえます。幼児がそうした日々を過ごしていくためには、教師自身も幼児の様々な思いを受け止め、いつも幼児と共にあり、共に感じ、幼児に学ぶ、そうした教師の在り様が求められます。

 「人が人を育てる」という保育(教育)の営みでは、悩みながらも幼児(学生)と真摯に向き合い、前向きに保育(教育)を進めていくことが大切なのではないでしょうか。

「子どもと音楽」3回シリーズ(3)

【第3回】「「互いに感じ合って生み出すリズム」

京都教育大学
平井恭子

 「子どもと音楽」のシリーズも3回目になりました。1回目と2回目では、人が生まれてうたと出会い、やがて声と身体の動きがリズミカルに同期するようになる過程についてお話してきました。最終回の今回は、他人の声や動きのリズムに自分の声や動きを合わせる行為がもつ意味について考えてみたいと思います。

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 写真は、5歳児と6歳児が「じゃんけんほいほい」の遊びをしている場面です。この遊びでは「じゃんけんほいほいどっちかくす? こっちかくす、あいこでほいほいどっちかくす? こっちかくす…」とリズミカルに唱えながら拳を出したり引いたりします。二人は勝敗が決まっても、飽きることなく何度もこの遊びを繰り返しており、その様子からこの遊びの楽しさの要因が勝敗を決める以外にもあるのではないかと考え、遊びの様子をよく観察しました。すると、「動作のタイミングを揃え」たり、「二人揃って唱え」たりするために、拍に合わせて両腕や膝を上下させたり、お互いの呼吸を感じて拳を出すタイミングを調整していることが分かりました。つまり、こうして生み出されたリズムがこの遊びをさらに楽しくしているのではないかと気付きました。

 さらに、ある幼稚園で4~5歳児50名を対象にじゃんけんをしている場面を観察したところ、じゃんけんのタイミングをそろえるために子どもたちは様々な工夫をしていることが分かりました。例えば腕の振り下ろし以外にも、声を出しながらジャンプする、「あいこでしょ」の「しょ」の部分で足を踏み出す、など、足でタイミングをとったり、前傾姿勢で構える様子も見られました。また、1回目に相手とテンポが合わなかったある男児は、2回目にはかけ声と動きのテンポを落とし腕の動作を大きくして、タイミングを合わせるべく改善を試み、見事成功しました。このように、子どもたちは、遊びの中で相手と声や動きを合わせることに楽しさを見出し、そのために実に様々な工夫をしているのです。

 音楽を演奏する時、相手の音をよく聞き、互いの音を合わせることは非常に大切なこととされています。クラス全員で歌ったり合奏をする時など、先生方は全員の「声(音)を合わせ.る」という点でいつも苦労されているのではないでしょうか? しかし、互いに「音を合わせる」「タイミングを合わせる」といった感覚は、先生に教えられて急に身につくものではありません。じゃんけんのような日常の遊び場面で、子どもたちは、わくわくどきどきしながら互いに呼吸を感じ合い「合わせる」快感をつかんでいきます。子どもたちが掛け声をかけあったり、動作を揃えたりして成立する遊びはじゃんけん以外にもたくさんあります。幼稚園生活の中で子どもたちが互いに感じ合ってリズムを生みだす遊びを、たくさん経験させてあげたいものです。

  

「子どもと音楽」3回シリーズ(2)

【第2回】「リズムにのって動く~心も身体も動き出す」

京都教育大学
平井恭子

 前回は、歌の原点をさぐりながら、歌うこと、歌い合うことのすばらしさについてお話をしました。今回は、歌っているときの子どもの身体の動きに着目し、身体でリズムを感じ動くことの意味について考えてみたいと思います。幼稚園では、音楽に合わせて体操をしたりダンスを踊ったりする機会がたくさんありますが、聞こえてくる音楽のリズムに自らの身体の動きをコントロールして合わせることは、大人が考えるほど容易なことではありません。それでは、音楽に合わせて動く能力はいつからどのように獲得されていくのでしょうか?

身体が自然に動き出す

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 写真は、赤ちゃん(11カ月)とお姉ちゃん(2歳7カ月)の2人姉妹です。お姉ちゃんがが絵本に出てくる子猫の絵を見て「まいごのまいごの…」と「犬のおまわりさん」の歌を歌いはじめると、床に座っていた赤ちゃんがソファーにつかままり立ちし、身体を繰り返しバウンスしたり頭を上下に振りながら歌に合わせて動き始めました。

 このように、音楽のリズムに反応して身体が自然に動き出す行動は、世界中どの文化圏でも認められる現象で、発達の初期の段階から見られます。最近の研究から、赤ちゃんが自分の身体を動かすことがリズムの知覚に有効に働くことが分かっており、ちょうど音声模倣を始める9~10か月頃から、自ら積極的にリズムにのって身体を動かす姿が頻繁に見られるようになります。

手や足の動きが歌と同期しはじめる

 前例にみられるような0歳児の動きは、自然発生的かつ衝動的なものですが、1歳を過ぎると、親や保育者のする手遊びを見て、部分的に言葉を発しながらリズムに同調し始め、2歳から3歳頃にかけて歌いながら動きを再現する能力は飛躍的に発達します。動きの種類でいうと、手拍子や腕を振る動作は、比較的早くから歌と同期するようになります。一方、足の動き(歩く、走る、ジャンプなど)と歌の同期は、認知的な発達との関係から、歌と手の同期からは約1年から1年半遅れて可能になります。

歌いながら動く~心と身体の調和へ

 このように、流れてくる音楽に自らの動きを合わせ始めるずっと前から、子どもたちは積極的に自らの歌と動きを同期させ始めます。自分の声と身体の動きが一体となる心地よさを、生活や遊びの中で十分に味わうことは、音楽的感覚を養う上ではもちろん、心と身体を調和させていく意味で、とても重要です。幼稚園生活の中でも、いろいろなシーンの中で自らの声と動きを調和させる活動を十分に味わわせてあげたいものです。

  

「子どもと音楽」3回シリーズ(1)

「声を合わせる~歌うことは、生きること、つながること」

京都教育大学
平井恭子

 今回から3回シリーズで「子どもと音楽」についてお話したいと思います。まず第一回目は、子どもにとって最も身近な「歌うこと」の意味を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 先日ある幼稚園のそばを通りかかると「こいのぼり」の歌が聞こえてきました。「ああ、もうすぐ子どもの日だな」と感じるとともに、歌は子どもたちの生活を豊かに彩ってくれる大切なものだなと改めて思いました。

うたとの出会いはいつから?

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 ところで、子どもたちはいつからどのようにして歌と出会い、歌うことできるようになるのでしょう。最近の研究では、通常の語りと歌とでは、はるかに歌の方に赤ちゃんが強く引き付けられることが分かっています。写真は、生後3か月の赤ちゃんにお母さんが童謡の「ぞうさん」を歌い聞かせている場面です。お母さんが「ぞうさん、ぞうさん…」と歌い始めると、赤ちゃんはにこにこしながらお母さんの目をじっと見つめ、歌を聞いています。そして、お母さんが2番の歌詞にさしかかったとき、それまで黙って聞いていた赤ちゃんは母の声にやわらかい小さな声で「アー、アー…」と声を重ねてきました。赤ちゃんと身近な養育者との間で声を通じたコミュニケーションが成立した瞬間です。

同調することでつながる

 赤ちゃんとお母さんの例からも分かるように、他者と声を重ねることは一体感を得たり、共鳴したり、社会的なつながりを得る上で非常に有効にはたらいているといえます。またこうした特徴は歌に対してだけでなく、マザリーズとよばれる抑揚の大きい、ゆっくりしたテンポの独特の語りかけにも同様の反応が認められます。音声を通して人と人とがつながること、これがうたの原点といえましよう。

歌の原点を見直してみましょう

 幼児期になると、歌は生活の中で友達との喜びを共有したり、きずなを深めたりするうえでとても大切な存在になります。一人で歌う歌、仲良しの友達と歌う歌、先生やクラスのみんなと歌う歌、歌うスタイルも様々に変化してきますが、互いの声を聞きあい声を重ね合わせることは心と心をつなぐ大きな力となります。少々音がはずれても、ピアノが下手でも気にする必要はありません。歌の原点に立ち返り、先生自身が心をこめて積極的に子どもたちに歌いかけてもらいたいと思います。

  

保育実践で遣いたい『明元素ことば』3回シリーズ(3)

保育実践で遣いたい『明元素ことば』

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科
教授 河嶋 喜矩子

 保育者が、保育実践の場で遣っている言葉には、『明元素ことば』と『暗病反ことば』の2種類があるといわれています。

 『明元素ことば』とは、文字通り、明るく、元気で、前向きな言葉です。たとえば、楽しい、おもしろい、幸せ、きれい、すばらしい、やってみよう等です。

 『暗病反ことば』とは、暗くて、病気で、否定的な言葉、たとえば、忙しい、つまらない、いやだ、だめだ、まずい、不幸だ、困った、つらい、やりたくない等です。

 この2 種類の言葉は、思いを伝えると共に、保育者の生き方や考え方を表すものではないでしょうか。

 先日、ある幼稚園の保育を参観させてもらった時のことです。偶然、この2つの言葉を耳にする機会がありました。遊んでいる途中で、雨が降ってきました。すると、その様子をみたA保育者は、子どもたちに、「あっ、雨が降ってきた。いややねぇー」と不満そうに言葉をかけられました。近くにいたB保育者は、「おや雨さん、降ってきた。お部屋にはいろ。何してあそぼ。お部屋でいっぱいあそべるねぇー」とにこにこ顔で、子どもたちに言葉をかけられました。

 保育実践の場で、保育者は子どもたちに、さまざまな言葉をかけています。言葉を遣って話すということは、保育者としてたいへん重要な役割のひとつです。A保育者の遣った「いややねぇ」は『暗病反ことば』、B保育者の遣った「お部屋でいっぱいあそべる。うれしいねぇ」は『明元素ことば』です。二人の保育者の言葉を聞いて、それぞれの子どもたちは、どう思ったでしょうか。

 保育の営みとは、子どもたちと、夢と勇気と希望を語らうくらしです。私たち保育者はどんな言葉を遣っていけばよいのでしょうか。

 『明元素ことば』を遣おうと心掛けてられるけいこ先生のエピソードをご紹介したいと思います。
[イチゴ いいにおい、イチゴジュースができました]

 3歳児のクラスで、イチゴの栽培をはじめました。みんなで、毎日毎日みずやりをして、大切に育てました。イチゴは見事に育ち、みんなで食べました。

 ある日のこと、葉の下にかくれていた最後の一粒を、まみちゃんがみつけました。大喜びのまみちゃんは、まっ赤に熟れたイチゴを手にして大好きなけいこ先生のもとへ大急ぎで走り出しました。ところが途中でスッテンコロリと転んでしまいました。まみちゃんはイチゴを握りしめたまま大泣きです。まみちゃんの様子をみて、かけよるけいこ先生。さて、けいこ先生は、まみちゃんにどんな言葉をかけられたでしょうか。

  

「わらって おはよう」3回シリーズ(2)

「わらって おはよう」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科
教授 河嶋 喜矩子

 私が大切にしている心・言葉は、『わらって おはよう』です。この言葉は亡くなった母の口癖の言葉でした。京都うまれの、京都そだちの母は、私に小さい頃からよくこんな風に言っていました。「朝ニコニコ顔で出逢ったお人さんに おはようさんって言うとおみ。その日ええことあるえ」と。

 京都では、言葉のはじめに よく「お」と「さん」をつけます。豆腐のことを「おとふさん」、油揚げのことを「おあげさん」という風に。母の言う「おはようさん」の言葉は、幼い私にとって、とてもやさしい響きがあり、特別な言葉として心の奥に残り続けました。

 しかし、ニコニコ顔で、おはようさんと言うと どんなええことがあるのか、その意味はわかりませんでした。

 私は「ええことって 何やろ」と長い間 思い続けていました。そして、ある日、母の言うように、ニコニコ顔で「おはようございます(おはようさん)」と言ってみてはじめてその意味がわかりました。言った私がとてもいい気分になったのです。そして言われた相手の方、どなたも笑顔になられました。お互いにいい気分になれる、相手と心がつながるこんなええことはありません。その日、特別に何かあったわけでなくても、とても爽やかな気分で、人との出逢いの楽しさを感じるひとときを過ごせます。きっと、母が私に伝えたかった「ええこと」の意味は、このことだったのではないでしょうか。

 そして、私は幼稚園につとめました。毎朝150人の子どもたちと出逢います。ニコッと笑って私の前を走り抜けていくけんちゃんには、「けんちゃん おはよう」と『わらって おはよう』の心を込めて 言葉をかけました。丁寧におじぎをしながら、「おはようございます」と言うじゅんこちゃんには、「じゅんこちゃん おはよう。きょうもげんきにあそぼうね」と『わらって おはよう』の心を込めて 言葉をかけました。一人ひとりの子どもに母から教わった『わらって おはよう』のこころ・言葉を伝え続けました。

 おかげさまで、かわいい子どもたち、お母さん(保護者)方、そして仲間の先生方という「人という宝物」に出逢うことができました。本当に「ええこと」がたくさんありました。

 現在、私は 大学で 幼稚園の先生や、保育士を目指す学生さん達に、保育の楽しさ、むつかしさ、重要さ、そして 素晴らしさなどを伝える仕事をしています。授業のはじめには必ず『わらって おはよう』のあいさつをかわしあっています。

 

 今も、これからも 『わらって おはよう』のこころ・言葉は 私の生きていく上での大切な指標となり続けることでしょう。

  

「保育者として大切にしたい〔愛しき情(こころ)〕」3回シリーズ(1)

「保育者として大切にしたい〔愛しき情(こころ)〕」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科
教授 河嶋 喜矩子

 保育者がかかわるのは乳幼児期の0歳から6歳迄の子ども達です。この乳幼児期とは、どんな時期なのでしょうか。そして、保育者としてどんなことを大切にしなければならないのでしょうか。

 乳幼児についての考え方はいろいろありますが、私は愛情の貯金をつくる時期ではないかと考えます。人間は誕生した時は、愛情の貯金はゼロ。心は空っぽの状態です。そして、この愛情の貯金は自分で作り出すことができません。保育者や両親など周りにいる大人達から〔愛しき情〕温かい心・優しい言葉をかけてもらうことで、はじめて心に愛情の貯金ができるのです。しかし、うれしいことに蓄えられた愛情の貯金は、その子どもが出逢う人達に必ず使われていくものなのです。

 では具体的にどうしたら愛情の貯金はつくられるのでしょうか?それは私達保育者・大人が一人ひとりの子どもに〔愛しき情〕をかけ、感情の共有体験をすることです。いっしょに遊んだり、いっしょに絵本をみたり、いっしょに食事を味わったりして、<楽しいなぁー楽しいねぇ><おもしろいなぁーおもしろいねぇ><うれしいなぁーうれしいねぇ><おいしいなぁーおいしいねぇ>と子どもと同じ気持ちになるトキを持つことです。この〔愛しき情〕=感情の共有体験を一人ひとりの子どもとたっぷりとかわしあうことで、子どもの心に愛情の貯金ができていくのです。この愛情の貯金は、その子どもの生きる力のタネになるもので、がんばる力やあきらめない心にもなるものでしょう。こう考えると、この〔愛しき情〕こそ、乳幼児期に私達保育者が大切にしなければならない心であると、私は声を大きくして言いたいと思います。学生のAさんが幼稚園の頃のエピソードを話してくれました。「苦手な鉄棒で何回も何回もがんばって、ようやく前まわりができた時、先生がすごく喜んで抱きしめてくれました。そのぬくもりを今でもはっきりと覚えています。とてもうれしかったし、その後の成長への意欲にもなっていました。」Aさんの先生の〔愛しき情〕がAさんの自信力と新たなことへのチャレンジ力を生む心のタネをつくったのではないでしょうか。

 また、幼稚園実習を終えた学生のBさんは「絵本のよみきかせをしたら、子ども達が目をキラキラ輝かせて聴いてくれて、とてもうれしかった。」といきいきと語ってくれました。学生のCさんは「子ども達から又きてねと言ってもらった。」と号泣していました。この涙は子ども達へかけた〔愛しき情〕の何倍もの心を子ども達からもらった喜び・うれしさの涙だと思います。「私、絶対保育者になる!」という彼女達の希望のもとになるものではないでしょうか。

 是非保育者として、子ども達の生きる力のタネになる愛情の貯金を、ありったけの〔愛しき情(こころ)〕で一人ひと
りの子どもの心に作ってあげてほしいと願っています。

  

「一冊の絵本から保育を考えると…」2回シリーズ(2)

一冊の絵本から保育を考えると…

平安女学院大学短期大学部 保育科教授
金子 眞理

 「がたんごとん がたんごとん」安西水丸さく 福音館出版 1987 年

 この絵本を読むといつもフレーベルの思想が思い出されるのです。

 フレーベルは、「一般に人間は、それぞれの発達段階において、全くその段階が要求するものに向かって努力する以外の努力をすべきではない。そうすれば各々の段階は次から次へと健全な芽から新しい枝がとびだすように、すくすくと成長していくだろう。そしてこの新しい枝はそれぞれの段階で同じ努力によって、その段階が要求することを完成するであろう。というのは前の段階で十分に発達して始めて次の発達が十分に行われるからである。」と連続発展観で述べています。

 さて、絵本「がたんごとん」の扉を開けると、責任感をいっぱい、また力強い顔をした汽車がやってきます。ページをひらけると、哺乳瓶が「のせてくださーい」と待っています。次をひらけると哺乳瓶が貨車の中に安定して、しっかりとのっています。次のページはコップとスプーンが「のせてくださーい」と待っています。そしてコップとスプーンが安定して貨車にのっています。次はりんごとバナナが待っています。そして貨車の中にりんごとバナナが安定してのっています。このように、哺乳瓶にはじまってコップとスプーン、りんごとバナナがそれぞれ貨車に安定してしっかりと乗っています。その場面をみてみると、哺乳瓶は1 歳の時のこと、コップとスプーンは2 歳の時のこと、りんごとバナナは3 歳の時のこと、それぞれ1歳・2歳・3歳の発達段階を表していることがわかりました。

 また貨車は親の愛情とみることができ、そこにしっかりと乗ることができる居場所があり、しっかりと愛され守られているという証しになっています。それは愛されて守られて十分に1歳のときを過ごしました、愛されて守られて十分に2歳のときを過ごしました、愛されて守られて十分に3歳のときを過ごしましたということになります。

 その次のページをひらくと、ねことねずみが「のせてくださーい」と手をあげています。次は、なんとのるところがないにもかかわらず機関車のうえにねことねずみがのっているではありませんか。機関車のうえというのは安定した居場所はないけれど、前の段階で十分に発達したこどもは自分でのるところを見つけるということ、言い換えれば自分の力で居場所を確保することができるということです。ねことねずみはまた、トラブルをおこす象徴とも言われています。遊びの中で体験するトラブル、つまり思うようにならない体験やぶつかり合いの体験を通して相手の存在を知り、自分の意のままにならないことを知り、必要な我慢をすることも知るのです。そして一緒になった喜びも感じるのです。このような多様なかかわりの体験をしていくという育ちの方向性のことがこの場面から読み取れるのです。最後のページでは食事のところで満足している表現があり、空っぽになった汽車がこどもから離れていくところで終わっています。しかし、そこで終わったのではなく、空っぽの汽車がまた再び私の元にやってきます。「また汽車はいつでもやってきますよ、やり直しができますよ」という安心感をお母さんにあたえているのがわかります。

 この絵本から保育者が学ぶことは連続発展観を基に、こどもの生きる力を育てていく大切な場所としての幼稚園、こどもの生きる力を育てていくことができる責任ある保育者としての歩みなど、こどもが育つための保育の方向性が描かれているように思います。

 がたんごとん がたんごとん・・・  がたんごとん がたんごとん・・・