新連載

【新連載】3回シリーズ(3)

造形で褒めることにより見えてくるもの

京都女子大学  矢野  真

 研修会などで幼稚園の先生と話す機会がありますが、次のことをおっしゃる先生方によく出会います。それは「先生のような造形を専門とする方は、持って生まれた才能がないとできないですね。」という内容です。

 私は造形を考える上で、持って生まれた才能よりも重要な要因があると考えています。それ
は、いかに継続して造形と関わるかということです。

 大学院、そして非常勤として東京藝術大学に10 年間在籍した時、工作の公開講座などを通して幼児や小学生と関わりながら造形教育の大切さを実感しました。その後2 年間、中・高等学校で美術の教員となり、生徒たちに美術や造形の楽しさを伝えていこうと張り切っていましたが、中・高ではもう遅いということを痛感しました。というのは、美大を目指す生徒もそうでない生徒も、造形や美術が好きで楽しく取り組むというよりは、よい成績を取るために取り組んでいるように思われたからです。もっと幼少期の段階から造形を楽しむことの大切さを教えていく必要があるのではないか、そして自分が培ってきた造形に関する技能を社会(教育)に還元していくためには、幼・小の造形に関わることが必要だと考えたのです。その後、運よく児童学科のある大学に勤務することができました。今は一人でも多くの幼児、そして保育者に造形を楽しく感じてもらうことができるよう、日々の努力を続けています。

 さて、造形は才能というよりも継続が重要であるという話しに戻りましょう。幼児の造形は、小学校のように成績には反映されません。小学校に入ると図画工作は点数化され成績がつきます。自分が思うより悪い成績がつくと、いくら頑張っても意味がない→ ならば図工はつまらない→ 図工は嫌い といった図式になっていきます。造形を仕事としている人のなかには、
幼稚園時代の先生が自分の造形作品をたくさん褒めてくれたことがきっかけとなっているということがあります。私も特に上手であったとは思いません。両親や幼稚園の先生、そして絵画教室の先生に褒められ、ずっと継続してきたことが重要であり、そのことにより現在の自分がいるのだと考えています。

 そこで幼稚園の先生方にお願いしたいことがあります。先生が造形を得意でもそうでなくとも、子どもたちが作る造形をたくさん褒めてあげてください。「いいねぇ。」「上手にできたね。」と抽象的に褒めるのではなく、色や形、大きさなどを具体的に褒めてあげることが大切です。子どもたちは褒められたことにより、自信につながり、また絵を描こう、工作を作ろうという気持ちになります。子どもたちが継続して造形を楽しむことができる環境づくりをしてあげてください。このことは、子どもたちの技能や感
性につながるとともに、将来、私のように保育の造形を専門とする先生が誕生するかもしれません。「継続は力なり」です。

3回シリーズ(2)

粘土であそぼう!~粘土エクササイズのすすめ~

京都女子大学  矢野  真

 粘土を使った造形活動は、どこの幼稚園でも行われる活動です。この粘土を使った活動には発達による段
階があります。3歳児の粘土あそびでは、最初は不定形の塊が多く、つつく・突っ込む・ちぎるなどの運動的操作が多くみられ、次第にお団子やひもなどに加工されます。4・5歳児になると凹凸とともに多くの量が使われ、複雑化し、造形意図がはっきりと表れます。

 3歳児の粘土活動は、具体的なかたちにまで到達することが難しいかもしれませんが、とても重要です。この時期は、基礎的な運動能力が育つとともに、様々な遊具を手にすることにより遊びのイメージが大きく広がります。生活に身近な様々なかたちを目で見て、手で触れ、感じたり気付いたりすることができる環境づくりが大切なため、粘土あそびを通じて、身体を使って自由につくることができるかたちの面白さを学んでいきます。

 もし、幼稚園に大量の土粘土があれば、全身で泥まみれになって遊ぶことができますが、日常使っている油粘土で様々な動作(握る・ひねる・つまむ他)を十分に経験することにより、自分の手の動きをコントロールし、自らの身体感覚を高めていきましょう。

 こうした経験を助長する方法として、粘土エクササイズを提案します。粘土エクササイズとは、具体的な作品づくりに入る前に行う活動で、にぎり出す、ひねり出す、つまみ出す、丸める、ちぎる、積むなどの動作を全員で一斉に行い、手の巧緻性を高める活動です。

 一例として、次の粘土エクササイズを紹介します。まず、油粘土をひとかたまり持ってギュッとにぎる(特に使い始めは油粘土が硬いため、活動前に柔らかくする効果もあります)→ 粘土板において高く手で握り出しながら高く伸ばす(このときみんなで高さを競争してもいいでしょう)→ 上から渦巻き状にクルクル丸める→ 一つのかたまりにする→ 粘土板でコロコロ転がしてひも状(ヘビのかたち)にする→ ひも状の粘土を二つに切り、交差するように2 本をねじって編む→ 一つのかたまりにする→ 小さくつまんでトゲトゲをたくさんつくる→ 大きくつまんでちぎり、お団子をたくさんつくる→ お団子を積む(縦に積む・ピラミッド型に積むなど子どもたちの工夫を促します)といった具合です。

 子どもたちの状況に応じて、順番やエクササイズの内容を変えてみてください。また、粘土エクササイズを通じて子どもたちのイメージが広がるような導入を心がけましょう。この粘土エクササイズを行った後の粘土あそびで子どもたちがつくり出すものは、様々な動作を組み合わせて工夫していることが期待できます。

 このように、粘土あそびは手や指を巧みに使うことにより、子どもたちの創造力を高める効果があること、そして子ども同士のコミュニケーション・ツールとしても有効なため、日々の保育において積極的に取り入れてもらえることを期待しています。

3回シリーズ(1)

「子どもの絵は語る」

京都女子大学  矢野  真

子どもたちの絵は、時にこんな思いを表現しているのかと驚かされることがあります。以前の事
例にこんなことがありました。

 私の前任校でのゼミ生で、とある幼稚園のA先生が研究室に遊びに来た時のことです。そこで突然、自分が担当する年長クラスの園児の絵画作品をみてほしいと言うのです。作品をみたところ、子どもたちが元気に楽しんで描く絵と何ら変わりない絵でした。

 しかし、細部までをじっくりとみていくと、家族をテーマに描いている絵と母の日をテーマに描いている絵の2 枚に共通する不思議なことに気付きました。それは、一人の人物の胴体部分に顔らしきものが3 つあるのです。普段から寡黙なBくんは、自分からあまり語ることはないため、A先生もあまり触れることがなかったらしいのですが、何枚か描く絵にこの傾向が現れること、特に母親を描くときにこうした表現をすることがわかったのです。A先生が最初にBくんの作品をみた時、Bくんは何か見えないものが見える特殊な能力があるのではないかとさえ疑ったそうです。結局、その日はしばらく様子をみるということでA先生も帰っていきました。

 後日、A先生の務める幼稚園の園長先生とも親しく、Bくんの様子も気になっていたこともあり、その幼稚園へ造形活動の見学に行きました。ちょうどその時、子どもたちが兄弟の話しで盛り上がっているところでした。私はその中に寡黙なBくんを見つけましたが、彼は普段にも増して静かに、そして落ち込んでいるようにもみられました。A先生が寄り添いながら「どうしたの?」と聞くと、小さい声で一言「ぼくには兄弟がいないから…。」
と言いました。

 さて、ここでお気づきになった方もいらっしゃると思います。そうです、Bくんが母親の胴体部分に描いていた顔らしきものは、兄弟がほしいという現れだったのです。母親のおなかに赤ちゃんがいるという、その願望を絵に表現していたのでした。その話をA先生に伝えると、A先生は以前みせてもらったBくんの作品を持ってきて、その絵に描かれた顔らしきものについて思い切って聞いてみました。すると、「(一番上の顔らしきものを指して)これは妹で、次が弟で、その次が妹なんだ。兄弟がいっぱい。そしたらみんなでいっぱい遊ぶんだ。」と、いつもは寡黙なBくんが照れながらも笑顔で教えてくれました。このように、子どもたちの絵には予想外の内容が詰まっていることがあります。そして、そこには子どもたちが伝えたいことがたくさん詰まっています。決して指導書などで描かれている事例を鵜呑みにするだけでなく、子どもたち一人ひとりとたくさんの関わりをもちながら理解していくことが大切です。また、「上手にできたね。」だけでなく、どういったところが上手に描けているのかを具体的にほめたり、描かれている絵を通じてコミュニケーションを取り、理解していくことが大切なのです。

3回シリーズ(3)

「子どもの存在と時間」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子

 子どもは日々大きくなる。身体ばかりではない。いつどこで覚えたのかと大人が戸惑うような言葉を子どもは急に口にすることがある。また、今までどうしてもできなかったことが、突然できることもある。大人は子どもの成長に期待し、子どもはそれにこたえようとますます張り切って新しいことにチャレンジする。子どもの時間は止まっていない。前へ前へと速度を増しながら進んでいく。

 大人にとっても時間は留まることなく進んでいく。未来は現在に呑み込まれながら過去へと流れ去る。指の間から砂がさらさらと滑り落ちるように、今この瞬間が過ぎ去り消えてしまうものなら、生きているということは流れに身を任せ、その時その時を刹那的にやり過ごすことなのだろうか。そうであるなら、身の置き所がどこにもなく、自分自身が不確かなもののように思えてくる。経験の世界では、捉えどころのないのに名前を付けることによって形をもち、理解できるものになるということがしばしばある。なんだか体調がすぐれず病院に行き、医者に病名を告げられはじめて自分の状態に納得したという人も少なくないことだろう。時の流れについても同様で、「○○の時間」と名
付けることによって現実を区切り、確認できるものになる。しかし一方、言葉に置き換えることでなにか空々しいものとなり、自分とはかけ離れたものに感じることもある。

 生きていることそのものを捉えることはできないのだろうか。ある教育学者は、人間が生きている最も単純で原初的な形を「気分」や「雰囲気」と呼ぶ。気分は「何とも言えない気分」という言い回しが示すように明確な対象をもたないが、人間の活動にあるまとまりと固有な色彩を与える。素朴で根源的な自分のあり方を示すものが気分である。また、「子どもが自ら意識している感情のなかで現れることのない、子どものなかで現れるひとつの内的な情態、内的な充実の状態」は、「庇護性」であるとその教育学者はいう。庇護性とは安全な世界に包み守られている安心感と信頼感に満ちたものであり、庇護性こそが根源的な教育的雰囲気だというのである。

 人間は生きていく中で自分自身に不確かさを感じることが幾度となくある。その時、自分が誰かにまるご
と受け止められ守られていたことを思い出すことができたら、どんなに救われることであろう。庇護性は、そこに根を張りそこから大きく延びていく大地ともいうべきものであろう。大地に立っていたかつての自分を確認できれば、今の自分をも確認できるのではないか。幼児教育は、自然界で最も弱い一本の葦にすぎない人間にとって、戻っていくことのできる確かな基盤を創り出すことに思えてならない。

3回シリーズ(2)

「子どもと周りの世界」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子

 親として保育者として責任をもって子どもに対するとき、時として子どもが見えなくなったり、分からなくなったりしてしまうことがある。子どもの言い分や
理屈がわがままに思えたり、言うことに素直に従わない子どもに手を焼いたり、突飛な行動をする子どもを理解できないと嘆いたりする。私たち大人もみんな、
かつては子どもであって、子どもとして生きていたのに。

 子どもはどのような世界に生きていて、そしてそれをどのように受け止め、どう対しているのか。子ども、それも幼ければ幼いほど、よくわからないことに取り
囲まれて生きている。見て触って口に入れて確かめてようやく分かってくると、活動の範囲の広がりとともに知らない世界が迫ってくる。ベビーベットから見ている世界、這っていける空間、家の中、公園、友達の家、幼稚園、・・・・・征服されることのない「未知の世界」がどんどん広がってくる。自分が理解できないことに
取り囲まれながら生きるとは、どのようなことなのだろうか。私たち大人には、見知らぬものを探る手だてがある。経験であり、知性であり、本やネットなどの検索ツールもある。しかし、子どもたちはその大半をもたない。子どもとして生きるとは、身を守るすべをもたないまま、困難な状況に立ち向かうことのように思えてならない。

 昨年、入園当初の子どもたちの様子を泣き出す子どもに注目して観察研究をした。ある子どもは登園するときから泣いている。玄関で出迎えた園長が「どうしたの?」と優しく声をかけるも、「あっちいけ!」と強い調子で拒絶した。緊張を解きほぐそうと園庭での自由遊びに誘っても、いすに座ったまま「絶対、外、行きたくない。オッチンしてる」と頑張っている。保護者との別れ際に泣き出したある子は、保育者との関わりの中で落ち着き、外遊びでは元気に走り回ったり他の子どもたちと一緒に遊んだりしているのに、時々思い出したかのように泣き出す。入園を楽しみにし、園生活になじみ積極的に活動していたある子は、園生活のきまりが理解できていない他の子に注意を促すこともできていた。しかし、何日かが過ぎ多くの子どもが園生活に慣れ始めたころ、その子どもが小さくしゃく
りあげる姿が幾度かみられた。

 幼稚園に入った、一つ大きくなったという自覚と誇りがあるから、どの子どもも初めての園生活に必死に耐えている。つかみどころない状況に身を置きながらも、真剣で懸命に生きている姿である。そうした子どもを目にするにつけ、えらいなと思い、人として尊敬すべきものを感じる。子どもであれ大人であれ、目の
前には新たな地平が広がっており、未知の世界を開拓しつづけることが生きることなのであろう。

3回シリーズ(1)

「なんぎな子」

京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子

私は子どもの頃、「なんぎな子やなあ」とよく言わ れた。なんぎ、辞書で調べると、難儀「苦しみ悩む こと。面倒なこと。処理するのがむずかしいこと。」 とある。めんどうくさい、扱いにくい子どもであっ たようだ。なにが大人たちにとってめんどうだった のか。 今も私は「難儀な大人」ではあるのだが、子ども の頃は特にひどかったらしい。私にはわからないこ とが多すぎた。幼児期は自分の周りにわからない世 界が大きく広がっていて、その世界に呑み込まれそ うな気がしていた。「あれは何?「」なんてゆうもん?」

「なにするもん?」「なんでそうなるの?」を連発して、 母親を困らせた。小学生になるとますます大変で、 算数は苦手だった。1に1を足すとはどういうこと なのか。鉛筆を1本もっていて、もう1本もらうと 2本になると先生はいう。私にはわからない。鉛筆 にもいろいろある。長い鉛筆、短い鉛筆。黒鉛筆、 赤鉛筆。違うものを合わせて数えることができるの か…。 「なんで?」「どうして?」「どうなるの?」が口癖 であった。そんな私を周囲の大人は困った顔で眺め ていた。答えてくれた大人たちもいた。しかし私に はその答えがまた分からなかった。分からないどこ ろか、ますます私を混乱させた。そんな私に閉口し た大人たちは、「それはそう決まっているの。」「そういうことやから覚えておきなさい。」と言った。 なんぎな子どもであった私は、それからなんぎな 中学生になり、なんぎな高校生になり、「人間が生き ていることとは」、「学ぶこととは」、「成長すること とは」、の答えが知りたくて教育学を勉強し始め、今 日に至っている。子どもとはどのような存在である かを考え続けている。子どもにとって周りの世界は どう見えているのか。周りの世界をどのように受け 止め、それにどう対しているのか。考えれば考える ほど、子どもっておもしろいな、子どもってえらい なと思う。 保育の現場に先生方を困らせるかつての私のよう な「なんぎな子」はいないだろうか。じっくり付き 合えば「なんぎな子」はおもしろい。その子どもが 持っている「なんぎ」は味わい深い。「へぇ~そうな んや」「おもしろいことにきぃついたなぁ」「ところ で○○ちゃんはどう思う?」と問い返していくと、「あ んなー…」ととぎれとぎれではあるが話し始める。「な んぎな子」が開いて見せてくれる世界は、大人であ る私たちが見えなくなってしまった世界であったり、 見えなくさせられてしまった世界であったりする。 しかし、そうした世界を垣間見るためには、時間と いう大きな対価が必要である。「なんぎな子」は時間 貧乏から生まれる。時間貧乏は子どもを困らせる。 子どもは豊かに育てたいという。子どもならではの 視点、子どもの思いとじっくり付き合う時間は楽し い時間であり、大人にとっても豊かな時間でもある。

3 回シリーズ(3)

「障害は個性なのか」に対してどう幼稚園教諭は受け止めるべきかについて考える

大谷大学 文学部 教育・心理学科 安田誠人

 早いもので今回が連載3 回目と最終回になりました。今回は幼稚園の先生や障害のある子どもを持つ保護者の方々からよく質問される、「障害は
個性なのか」に関して私見を述べてみたいと思います。

 私の子どもも3 歳児検診で「知的障害」「自閉傾向児」の疑いがあるとの報告を受けました。私自身はともかくとして妻は随分悩んだことと思いま
す。ただそのときに「障害は個性だから大丈夫、大丈夫」という励まし( ? ) を何度かしてもらいました。正直な気持ちを述べると、ある意味ありが
たく、ある意味戸惑った言葉です。

 ありがたかったこととしては、やはり気持ちが一時的とはいえ落ち着いたことがあげられます。今後の可能性に対する期待や希望を感じることができたことは、「障害は個性」の言葉の背景に大きな意味があるのだと思います。ある人にとっては励ましになり、ある人にとっては希望になり、またある人にとっては子どもの生きる意味を感じる後押しになっているのだと思います。

 ただその一方で戸惑ったこともありました。「障害は個性」といっても、なかなか人に対して自分たちの子どものことを平気で話すまでには時間がかかったことも確かです。「五体不満足」の著者である乙武洋匡さんは、「障害は個性と言われるとちょっとくすぐったい気持ちになる。」と述べられて
います。その理由の一つとして、「障害」は人に自慢できるというものではないからとも述べられています。乙武洋匡さんと私たちとでは、障害の種
別も違いますし、自分自身に障害があるのと自分たちの子どもに障害があるのとでは置かれた状況や感じ方に違いが当然あるわけですが、ある意味
強く共感できる言葉でした。

 そこで私たちの子どもに目を向けてみると、「障害は個性」というよりも「障害があると不便だなあ」というのが妻とよく話す障害に対する印象です。私たちの子どもは7 歳ですがまだ言葉が出ていない状況です。そのためなかなか自分の気持ちを家族や先生、周囲の友達に伝えることができず、何度も身振り手振りやサインによって自分の気持ちを伝えることになります。しかし分かってもらうのに時間がかかったり、きちんと伝わらないこともしばしばあります。言葉で伝えることができれば「便利なのになあ」と思う場面です。

 「障害は個性か」ということになると、結局のところ個人によって受け止め方が違うということになると思います。私たちのようにある程度障害を
受容している(と思っている)保護者にとっては、あまり気にならない言葉ですが、人によっては好意的に受け止め、また人によっては反発を感じることもあると思います。幼稚園教諭としてはあまりこうした「障害は個性」というような個人によって受け止め方の違う言葉は自分からは積極的に使わず、最初は保護者自身が会話の中で用いた段階で「繰り返し」として用いるのが望ましいと思います。

 ただ専門家としての本音を言えば、保護者から子どもの障害に関する気持ちを引き出した段階で、保護者から信頼されている幼稚園教諭として評価
されていると自信や手ごたえを感じてもらっていいかと思います。そうした自信や手ごたえを感じることのできる幼稚園教諭が育ってもらえることを大いに期待しています。

3 回シリーズ(2)

保護者の障害の受容において幼稚園教諭ができることについて考える

大谷大学 文学部 教育・心理学科 安田誠人

 今回は障害のある子どもさんを持つ保護者の障害の受容について考えていきたいと思います。
保護者が子どもの障害を理解していない、受容していない保護者に対してどう保護者に子どもの障害を理解、受容してもらえばいいのかという相談を私も良く受けます。幼稚園教諭としては何とか自分の子どもの障害のことを保護者の方に分かって欲しいのに、分かってもらえないという悩みです。子どもの障害のことを分かってもらえると、確かによりよい保育が期待できるという利点があると思います。

しかし幼稚園教諭は保護者による自分の子どもの障害の理解、受容は簡単ではないということをまず知っておく必要があります。また保護者が自分の子どもの障害について何となく気付いていても、障害を認めたくないという気持ちが勝っていることもあります。

現在では検診制度が充実したこともあり、比較的早期に障害に気付くことが増えています。特にダウン症など身体的特徴のある障害、中重度の知的障害に関しては、診断が一般的に可能となる3 歳頃までに障害の告知をされることが多くなっています。

しかしながら自閉症スペクトラムや発達障害などの場合には障害の原因が特定できないことも影響して、確定診断や障害の告知が遅くなってしまうこともあります。また障害の告知がなされていても、曖昧な告知が行われることもしばしばあります。曖昧な告知は保護者の障害の理解、受容を遅らせている一因になりやすいです。

では幼稚園教諭としてはどう対応すればいいのでしょうか。障害の受容に関しては、はっきりとこうすればいいという答えはありませんが、まず障害があるかも知れないということを幼稚園教諭から切り出すことは避けるべきと思います。むしろ保護者が自分で何となく気づき、相談をしてくるか、専門機関で告知を受けた後のフォローをどうするかを考えた方がいいかと私は考えています。

障害の告知を受けた保護者の心理的負ダメージは大変大きい上に、残念ながらその後の専門機関での指導や助言に関して、「役に立たなかった」、「む
しろ精神的ストレス」が過半数を超えているとの報告も多くあります。

そこで幼稚園教諭の出番です。保護者にとって伝えて欲しいことは、具体的な育児や関わり方や、周囲の人(特に母親一人が告知を受けた場合の父親)へ説明、さらには自分の不安な気持ちや揺れる気持ちを聴いて欲しいことなどです。具体的には、自分の子育てに原因があるのではないかとの不安に対する安心できる説明などです。おそらく専門機関でも正しい内容を伝えていると思いますが、より身近な存在である幼稚園教諭が落ち着いた環境で伝えられることは幼稚園教諭ならではのメリットです。伝えるというよりはむしろ支えるという姿勢がさらに効果的です。

ただ障害の受容の問題は幼稚園に在園している年齢の頃が、保護者にとって実は一番厳しい時期と言われています。障害に対する「否認と焦り」という感情がピークになり、何とか障害が軽減しないかという期待を保護者が強く継続的に持っている時期でもあります。

だからこそそうした保護者の複雑で辛い思いを幼稚園教諭は焦らずに受け止め、必要な正しい知識や具体的な子育て方法を寄り添いながら、一緒に考えていく姿勢が求められると思います。

3 回シリーズ(1)

障害のある子どもさんを持つ保護者さんへの対応・支援を考える

大谷大学 文学部 教育・心理学科 安田誠人

 私は知的障害や自閉症スペクトラムに関する障害児臨床を主な専門領域としております。今回担当させていただく連載ではこうしたテーマを中心にしたいと思います。今回は障害のある子どもさんを持つ保護者への対応・支援方法について考えていきたいと思います。
最近は幼稚園にも知的障害や自閉症スペクトラムなどが疑われる子どもさんが入園することが一般的になってきました。障害がある子どもさんや保護者の方からすれば、大変有意義なことと思います。また健常児にとってもいくつかの課題はあるものの、心身の成長に効果があることも認められています。

 しかしその一方で幼稚園教諭や幼稚園の負担が増したことも事実だと思います。京都市では障害児に対する加配制度は充実しているのは確かですが、それだけで十分な教員配置が可能とは思えません。また「障害」と一言に言っても知的障害、自閉症スペクトラムなどの知的障害、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由などの身体障害、病虚弱など多種多様の障害があります。そして一人ひとりに応じた保育が必要であり、すべての子どものニーズに応じた適切な保育を行うことは本当に大変なことです。この点に関しては幼稚園教諭や幼稚園の努力だけでは対応に限界があり、保育の質を維持、向上するためには保育集団に応じた教員の配置が絶対に必要です。その前提の下で、障害児に対するよりよい保育の検討が必要となります。

 さらには保護者対応・支援の難しさも指摘されています。障害のある子どもさんを持つ保護者さんの場合には、障害の種類や程度、障害の受容や家族状況によるニーズや悩みの違いなどがあるため、健常児の保護者さん以上に保護者対応・支援が大変です。私の教え子もそうした保護者対応・支援に悩んで、よく私のところに相談に来てくれます。

 そこでまず提案するのは「保護者さんの話を否定しないで聴く」ということです。どんな無茶な話であっても、保護者さんの話を途中で遮ったり、否定することなく、話をしやすいように促しながら聴くことです。幼稚園教諭のカリキュラムにこうした内容は入っており、すでに学習していることです。実践するのは意外と難しいことですが、やってみる価値はあると思います。特に保護者との信頼関係を結ぶことに役立ち、今後の保護者さんとの話し合いを円滑にする効果も期待できます。

 次に最近よく提案するのは、「例外探し」ということです。言い換えると成功例、いい結果探しです。
「そんなことはないです。」という保護者さんに対しては、いつもより少しでもましな状態、いつもと違うこと探しです。いつもなら、「水」などに夢中になって私たちの話が全く入らない子どもさんが、一瞬私たちの顔を覗き込んだとか、大声で反応したなどです。

 「例外」は、ほとんどの保護者さんが一度は経験したことがあるので、幼稚園教諭も保護者さんと子どものことで相談を受けた時に話題にしやすく、何らかの話が保護者さんから語られた瞬間に、「それは良かったじゃないですか」「うまくいったこともあるじゃないですか」「ちょっとびっくりしましたね」などとプラスの方向に会話を持っていきやすいです。

 今回は保護者さんとの会話の中で比較的に行いやすい対応方法を挙げてみました。これらは「センス」でなく「技法」ですので、意識すればある程度は誰でも実践できるのが利点です。一度面談、相談場面などで試してもらえればと思います。

2 回シリーズ(2)

ある自閉症の幼児の想像

京都橘大学教授 神谷栄司

  自閉症を抱えている青年の東田直樹さんの本がNHKのドキュメンタリー番組で取り上げられたおかげで、専門家ではない方々の自閉症理解が進んできたように思われます。私の1 回生ゼミ生で、ある一日、自閉症の子どもとつきあうヴォランティアをした学生が「よく理解できなかった」という感想をもらしていたので、その番組で取り上げられていた本(彼が15 歳のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』)を読んでもらいました。心のなかで思っていることとその表現(言語を含む)との独特な矛盾(例えば、思っていることと正反対の事をしゃべってしまう、など)がこの学生の理解を助けてくれたようです。「この本を読んで、あの子のことがよくわかった」「先に読んでおけば良かった」との率直な感想がかえってきました。

 ところで、自閉症の幼児はどのように理解したらいいのでしょうか。東田さんがおこなったような自己観察は、概して、思春期に自己意識が誕生することにより可能になります。もちろん、彼の自己観察から手がかりを得ることはできますが、幼児期の自閉症を十分に理解することはできないでしょう。幼稚園においても、そうした幼児の一人ひとりと向き合って、理解を積み重ねるほかはありません。

 ある自閉症の5 歳児は、「ぎざ耳うさぎ」(シートン・作)の冒頭のシーン、お母さんうさぎが巣穴を掘り、そこに赤ちゃんうさぎを隠して、食べ物をとりにいく(そこに黒大蛇が現れるのですが)というシーンから、「穴を掘ると温泉がいっぱい出て危ないから浮き輪がいる。浮き輪をして、ヘルメットをかぶり、懐中電灯とビデオをヘルメットにつけないといけない」と言いました。多弁な子でしたので、彼の考え方がよくわかり
ましたが、いうまでもなくお話の理解から逸れていく想像です。補助の先生の話をよく聞いてみると、この子の想像に「浮き輪」が出てくるのは東日本大震災時の津波が理由のようでしたが、あとは解らないとのことでした。この子は想像ができないのではなく、現実から想像する(眼から想像する)というもっとも基本的な想像力はもっているものの、ことばから想像するというやや高度な想像力(それ故にお話から逸れていくのです)は獲得されていないと感じられました。とすると、ことばを主とし絵を従とする普通の読み聞かせではこの子のお話理解は得られない、むしろ、それ
を逆にして、絵を主として理解を進めることが必要ではないか、と助言しました。もちろん十分な確信があったわけではありませんが、この場合、助言は具体的でなければなりません。その後、この園では、3 種類の「ぎざ耳」の絵本を準備され、この子に絵本を選ばせ、それにもとづいてお話理解が図られました。後日、補助の先生は、「絵をもとにお話の理解をすすめてから、この子は変わりました」とやや興奮気味に話されました。お話が理解できるようになった、ということでしょう。

 このような小さな事実の積み重ねが自閉症の幼児を
理解する土台を築くことになると思います。