花が咲く朝顔と咲かない朝顔
佛教大学 教育学部
自然は、幼児の心を育むのにいろいろな経験を与えてくれます。
幼児にとっては具体的な体験を通して自分自身の目でつかみ取ることが大切です。
初夏の頃蒔いた朝顔が、夏休みになる前からつるがのびてきました。
苗床に蒔いた種からかわいい双葉が生えてきました。毎日水をやり、肥料をやっているうちに大きくなったのです。
そして、終業式にその朝顔を家に持って帰りました。
「きっと大きな花が咲きますよ。毎日忘れずに水をあげて下さいね」。
先生のことばをまもって一生懸命に世話をしました。
朝顔のつるや葉はぐんぐんのびて大きくなりました。夏休みに入ると大きな花を毎日一輪ずつ咲かせました。
幼児の生活に何とも言えない豊かな心を与えてくれます。
「一生懸命お世話したからよ。良かったね」。
お母さんに褒められた幼児はどんなに嬉しかったことでしょう。
朝顔の成長を眺めることは、一朝一夕ではできません。
土の中に埋めた種が芽を出してのびる、そして、花を咲かせる。それがまた萎れる。このようなことは文字や絵で説明しても理解できないものなのです。
土の中から種が芽を出してきて、双葉となる道程などはとても不思議なことです。
「どうして種から芽が出るの?」「どうして茎に蕾がつくの?」「どうして花になるの?」
花にいろいろな色がつくのはとても珍しいことでありますが、幼児が目でみて、肌で感じることができるのです。それをこの夏の間に知ることができたのです。
9月になった時のことです。
あるお母さんから、
「せっかく持って帰ってきた朝顔に一つも花が咲かなかったのです。もっと良い種を植えて花が咲くようにしてください」。
ということばを聞きました。
種を植えると必ず花が咲くというものではありません。花の咲かない朝顔もあるのです。それを知ることも大きな収穫になるのです。
花が咲くことは良いことですが、花の咲かない朝顔には、どのようなことでそうなったのか、水が足りない? 逆に雨が多すぎて根が腐った? 肥料が足りない? その原因を調べる方向付けを幼児に知らしめることだってできるのです。
やがて芋掘りも経験します。土を掘った時に、芋がつるに一つもついていないのに腹を立て、「一つも芋がついていないなんて、つまらないわ。もっといい畑にすればいいのに」と、幼児を前にしてこのことばは禁物です。
土の中に必ず芋が二つずつ出来ているのなら、どこかのスーパーで購入し、畑に並べておけばいいのです。
土を掘ってみて、土の中から出てくる芋が大きかったり、小さかったり、全くできていないところもあるのです。それがわからないところに芋掘りの楽しさがあり、科学の芽生える余地があるのです。
自分の目で、手で知ることができること、時間をかけなければ知ることができない経験を与えることができるのです。
失敗から学べるもの、それも経験から学べるものは幼児にとっていかに得難いものかを知っておくと、その時の幼児へのことばは変わってくるはずです。
本物に触れて…自然活動の大切さ
公益財団法人 京都YMCA
事業部 青少年育成部門
部長 久保田 展史
キャンプのお話をいたします。自然の中での自然の大きさに触れ、仲間同士と指導者のもと共同生活をするキャンプのスタイルは、子どもたちに自立や自信、新しい興味を見つける機会が与えられ、新しい友人ができるなど大きな喜びを体験させます。そのことは子どもたちの生涯にわたって大きな影響を与える、「生きる喜び」を知ることのできるチャンスであろうと私たちは考えています。
YMCAのボランティアリーダーの大先輩に弘田さんという方がおられました。K医大の脳外科のドクターでしたが、残念ながら脳出血で10年前にお亡くなりになりました。生前に先生はよく話してくださいました。中学校の時にYMCAのキャンプに参加して、夜のキャンプファイアーの時の指導者のお話を聞いて医者になろうと決意したという話です。その時の指導者のお話はあらかたこの様な内容だったそうです「この火はいくつもの薪が重なって燃えている。1本の薪ではこんなに大きな火にはならない。いくつもの薪が重なってこんなに大きな火になって、明るく温かく周りを照らしてくれる。そしてこの薪のすごいところは自分たち自身を灰にしてこのことを成し遂げているのだ。自分も自らをささげて多くの人々に明るさを与えるような生き方がしたい。」というお話であったそうです。このお話を聞いて弘田少年は人の役に立てる職業は何であろうと考え、医者になろうと決意してその道を歩みはじめたのだそうです。
わたしたちは「キャンプは子ども達の生き方に大きな影響を与える」と考えています。
毎年1週間の日程のサバイバルキャンプに参加してくれていた男の子、あるとき「リーダー!僕、来年はもっとすごいことがやりたいなあ」と自ら挑戦を申し出てきました。『じゃあ、いつも浜に出て1泊するサバイバル(毎回最小限の持ち物と食糧、テント代わりのビニールシートを持って一人で1泊して帰ってくるサバイバルプログラム)で、ビニールシートを持たずに出かけてみようか』「えっ!雨が降ったりしたらどうするの?」『テントの代わりになることを考えたら?たとえばかやぶき屋根の小屋を建てるとか・・。』「うん考えてみる…。」この子は1年かけて考えてきて、翌年に「お願いだから草刈り鎌だけ追加して貸して!」とそのほかの道具と一緒に草刈り鎌を持って浜に出かけ、流木で柱を建て、草を刈ってその上に敷き詰めて、小さな小さな小屋を作りました。(最初は大きなものを作っていましたが、何度もやり直して小さなサイズにしたのです)それはほかの子ども達にとっては驚くべき存在で、工夫することの素晴らしさを知らしめました。もちろん本人は得意満面です。翌年はより工夫を凝らした小屋を作りましたし、その次の年には水を持たず井戸を掘って水を得て浄化することに挑戦、一人で3メートルの穴を掘りました。(これは衛生面で最後まで達成できませんでした)彼はその後も指導者と相談しながら課題を作っては挑戦してゆきました。高校3年生を終えた彼は私のところに来て「僕は府立大学の森林科学科に行くわ!自然のことをこれからもやっていきたいねん。そう期待してたやろ!」とにやりと笑って帰っていきました。今は林業にかかわる仕事についています。
成長期の多感な時に自然の中の生活や、ある意味不自由な生活の中で真剣に生活する体験をすると、あらゆる感性が研ぎ澄まされると考えられます。そしてそこで見聞きしたことや体験は必ずや忘れられないもの、あるいはその子の将来にわたる重要な価値観になることでしょう。
ぜひ子ども達に自然の中での体験や共同生活体験の機会をたくさん持たせてあげたいですね。
本物に触れて…自然活動の大切さ
公益財団法人 京都YMCA
事業部 青少年育成部門
部長 久保田 展史
今回チャンスをいただいて、2回の連載でキャンプや自然活動が子ども達の成長にどうかかわるかをお話ししてゆきたいと思います。
近頃の子ども達はたくさんのことを知っています。動物のこともよく知っています「だって『S動物園』っていう番組でやっていたもん!」と教えてくれます。海の動物のお話もよく知っています。「この前テレビでやっていたもの!」テレビやパソコンからはいろいろな情報があふれていて、高画質の臨場感のある放送は家にいながらにしていろいろなことを知ることができます。でも本物の体験ではありません。
昨年の夏、琵琶湖畔にあるキャンプ場でのキャンプの時です。琵琶湖の波打ち際を歩いていると、私の足にチクッとしがみつくものが、よく見るとトンボのヤゴでした。キャンプ場にみんなで連れて帰って柱に止まらせて羽化の観察です。2時間じっと見ていると、背中からせり出すように肩と背中が出てきたかと思うと、尻尾を抜こうと背を丸めます。体が出てから羽が伸び、飛び立つまでの観察は感動する時間でした。黄色い体でしたのでシオカラトンボのメスでしょうか。「がんばれーがんばれー」と子ども達の歓声が飛びます。子ども達は時に優しくなでたり、羽が乾くようにふうふう息を吹いたりします。そして羽が乾いたなと思った瞬間、あっという間にトンボは飛び立っていなくなってしまいました。でも翌日私達の周りを飛ぶ黄色いトンボが…。『そうか動物は最初に触ったものを母親と思うらしいから、昨日のトンボも私達を母親と思っているに違いないぞ』 などと(昆虫は親が育てないからありえないですが)言いながらみなでトンボに「おはよう!」と声をかけます。
ここ10年、私は自分の周りの生き物に声をかけるようになりました。これは新潟の動物博士、野柴木洋先生の影響です。カラスがなくと「よう!おはよう!どうしたの?」と言葉をかけてあげます。彼らには絶対に聞こえていると思うのです。そんな私を子ども達は時に不思議そうに見ています。自分の周りをとぶアカタテハにも、早朝に木のてっぺんでなわばりを叫ぶアオジにも声をかけます。そうすると、心が彼らに近づいたように思えるのです。そんな体験を子ども達にもしてもらいたいのです。
夏の終わり、キャンプ場の広場にたくさんのトンボが飛んでいました。子ども達は人差し指を天に突き出したり、帽子でトンボを追ったりしますがなかなかつかまりません。最後には「この野郎!」などと暴力的な声を出しながらトンボに向かって帽子を振り回す子もいました。「そんなことしてトンボに当たったらかわいそう」指導者たちは止めようとしますが、私は「いいよ、いいよ」と言ってあげます。時には帽子が当たってトンボが真二つにちぎれることもあるでしょう。そうすることはあまりよくないことですが、命に触れることは大事なことです。死んで初めて命がささやかであるかということがわかります。
頭ごなしに「かわいそうでしょう」「命ですよ!大切にしなさい!」と教えても、それは子ども達の心から独自にわいてくる『愛情・愛着のゆえ』ではありません。
私は教育の中で指導者が感情の結果を教え込んではいけないと思うのです。「かわいそう」という気持ちを起こさせることは必要ですが、「かわいそう」と思いなさいという刷り込みは教育ではないと思うのです。自然活動では是非、命というものにじっくりと触れてもらいたいものです。それが命を大事にする心のもととなり、愛着のゆえに「大事にしたい」という感情が必ずや生まれてくると思うからです。そしてこの感情が生まれるプロセスは本物であり実体験である必要があります。
私どもで行っている森の動物たちを観察するキャンプでは、お母さん狸が小さな子どもを連れて現れました。「かわいい!」と息をひそめながら子ども達は叫びます。この子ども達にはぜひ、また森へ行ったときにあの動物の親子の姿を想像してにこりと心の中で笑顔になってしまう、そんな心が育ってほしいと思うのです。ですからできるだけ、本物の命や自然に触れる機会を作ってあげたいですね。
公益社団法人への移行にあたって
公認会計士・税理士 木田 稔
(監査法人グラヴィタス代表社員)
今春の貴協会の公益社団法人への移行にあたり、二回にわたり原稿を寄稿させていただく機会を頂戴しております。前回は、貴協会の公益目的事業である幼児教育等の調査・研究事業、助成事業、教育研修事業の実施上の留意点についてご説明させていただきました。公益法人は一般法人と比較して社会的評価がより高く、また税制上の優遇を受けることとなります。その一方、公益認定基準を永続的に満たすことが求められます。今回は、公益法人の業務運営のうち「財務状況に関する事項」と「法人の機関運営」についての留意点をご説明いたします。
財務状況に関する事項
経理的基礎の確保について
公益法人は、移行後も継続的に公益事業を行うための財政基盤に問題がないようにする必要があります。貴協会におかれましても会費収入等や受取補助金の今後の見通しについて予算等で把握し、これに基づく支出の管理をおこなう必要があるかと存じます。また、会計処理や財産管理、計算書類等の作成について適正に行う必要があります。これらを公益法人認定基準では「経理的基礎」と呼んでいます。
財務3要件について
また、少し専門的にはなりますが、公益法人移行後は原則として毎年の決算において、以下の財務3要件への適合が求められます。
- 収支相償
公益目的事業に係る収入がその実施に要する費用を超えない
- 公益目的事業比率
公益目的事業の実施費用が法人全体費用の50/100以上となるように事業を行う
- 遊休財産額の保有制限
公益目的事業のために使用されていない財産(遊休財産)が公益目的事業費相当額(1年分)を超過することができない
事業計画を立案・実行するにあたっては、これらの財務3要件を充足することについても配慮する必要があります。
法人の機関運営に関する事項
貴協会の運営(ガバナンス)について適切に指揮されることが必要となります。特に、重要な意思決定事項について、適切な手続きを経て行われることが求められ、少なくとも、社員総会、理事会といった法令・定款で定められた機関を適切に招集・開催し、議案が審議されることになります。同様に貴法人が法人内部に設置する各種委員会等の機関組織についても、適切に開催・運営される必要があります。
ご説明いたしました公益目的事業、ならびに財務および機関運営に関する事項は、貴協会が社会から要請されている公益事業を効率的、効果的、経済的、かつ、継続的に実施することを担保する事項とされ、また同時に、経営の透明性の確保することにより、社会全体の公益が増進することを期待するものであります。
各幼稚園の理事長、園長をはじめとする教職員の先生方は、子どもたちに対して日々真摯に向き合い、愛情を注ぎ、幼児教育の発展に貢献されてこられたことと存じます。貴協会におかれましても、開かれた経営のもと、その愛情や情熱を基礎として今後の支援活動や情報発信を行い、幼児教育を通じた社会一般の公益に寄与することが求められているのではないでしょうか。
末筆となりましたが、今後の貴協会ならびに皆様の幼稚園のますますのご清栄を祈念いたしております。
公益社団法人への移行にあたって
公認会計士・税理士 木田 稔
(監査法人グラヴィタス代表社員)
平成25年4月1日をもって、貴協会におかれましては、公益社団法人京都市私立幼稚園協会に移行されました。ここに謹んでお慶び申し上げます。
すでにご高承のとおり、公益法人改革のもと、全国で約24,000の社団財団は、公益社団財団法人あるいは、一般社団財団法人への移行を求められております。貴協会におかれましては、教職員の資質の向上と幼児教育の充実を図り幼児教育の振興に寄与することを目的に、公益性がより強く求められる「公益社団」への移行申請を決定し、その事業等が新制度における公益法人とすることがふさわしいと京都府公益認定等審議会に認められました。これは、歴代の役員の先生方はもちろんのこと、協会を構成する私立幼稚園の園長・設置者、教員の先生方の教育や協会活動への熱心な取組みがあったからこそと尊敬しております。
今般、会報記事を2回にわたり寄稿させていただく機会を頂戴いたしました。今回は、今後、貴協会が公益社団として事業を運営されるうえで特にご留意いただくべき事項についてご説明させていただきます。
貴協会が行う公益目的事業が公益認定基準に適合することが求められます。ここで、「公益目的事業」とは公益法人認定法では「学術、技芸、慈善その他の公益に関する別表各号に掲げる種類の事業であって、不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するもの」としています。
貴協会の公益目的事業を、
- 今日的・未来的な課題と展望を踏まえた「特色ある幼児教育」に関する推進事業
- 特別支援教育に関する推進事業
と大きく分類し、幼児教育等の調査・研究事業、助成事業、教育研修事業を行うことになります。
これらの事業については、公益社団法人に移行前から行われているものですが、今後は、より一層「不特定多数」、つまり社会全体の利益を増進することに寄与しているかという観点から事業を行うことが求められています。具体的には以下の事項に留意することが必要です。
- 調査研究事業については、テーマの選考にあたり、大学・研究機関の教育・研究者等の有識者が関与し、調査の内容や結果に関して、報告書、ホームページ、研修大会等で不特定多数の者がその内容を閲覧できるようにします。
- 助成事業については、応募の機会が一般に開かれており、また選考にあたっては有識者からなる選考委員会で決定され、その結果についてホームページ等で公表され、また、助成対象者からの報告をうけるようにします。
- 教育研修事業については、研修参加の機会を開くため、ホームページ等で内容を掲載し参加者を募集することとなります。
今後は、上記の事項をふまえ、事業の内容と実施方法、成果の公表方法を継続的に検討し、幼児教育の諸課題に取組むための事業を実施することとなります。研修活動や支援活動を行い、情報発信をしていくことで、教育環境、ひいては社会の在り方もより良い方向へ変わっていくことでしょう。その結果、社会一般の公益に寄与することが期待されています。
乳幼児のこころと発達 その3 ~心理療法について~
花園大学児童福祉学科 講師 藤森旭人
今回はこれまでの「内的対象」と「こころの抱っこ」を踏まえて、心理療法について書いてみたいと思います。現在、スクールカウンセラーやキンダーカウンセラーが比較的身近な存在になり、心理療法やカウンセリングという言葉も耳にするようになられているのではないでしょうか。しかし、その具体的な方法、中身についてはあまり知られていないかもしれません。相談者の話に耳を傾けて「傾聴」したり、子どもと楽しく遊んで気持ちを発散したりすることで、問題が解消するといったイメージを持たれている先生もいらっしゃるかもしれません。
私は精神分析と呼ばれる、こころの奥にあるであろう「無意識」を理解するという立場をとっています。来談者がこころの中に抱いている「内的対象」を捉えながら、彼らが抱いている気持ちを一緒に考えていきます。「今、ここで」起こっている私と来談者との関係は、「内的対象」が反映されたものだとして見ていくわけです。子どもの場合は遊びを通じて考えていくことになります。例えば幼稚園でも、タロウ君には「やさしい先生」として関わってこられ、タクヤ君には「鬼のように恐い先生」として関わってこられて、もしかしたら先生方も「私はそんなにやさしくも、怖くもないんやけどなあ」と違和感を持たれたことがあるかもしれません。これは、まさにその子の「内的対象」を通じて、先生を見ているからなのです。一般的に心理療法に連れてこられる子は、生活の中で何らかの問題がみられたり、不適応を起こしたりしていることが多く、周囲も対応に追われていることが多いのではないでしょうか。そして、あまり良好な「内的対象」がこころの中に存在しないことが多いのです。
具体的に見てみましょう。幼稚園年中のタクヤ君は、友達にすぐに手を出してケガをさせたり、幼稚園の花子先生のお話も落ち着いて聞くことができません。注意をしても「うるさい、ババア」と、悪態をつくばかりです。でも、ひらがなが書けたり、計算もできるなど、学習の能力はあるようでした。ご両親に園での様子を報告しても、事態は一向に変わりません。困り果てた花子先生は一度心理療法を受けてみてはどうかとご両親に提案されました。そして、お母さんと2人で心理療法を行っているフジモリ先生のところへやってきました。フジモリ先生と2人になり、始めに「ここで、一緒にタクヤ君の思ってることを考えようと思うよ」と伝えると、「フジモリ?ふん、チャライねん」と言い、一人、人形で遊び始めました。フジモリ先生はおいてけぼりにされた感覚を抱き、とても寂しくなりました。どうやらタクヤ君のこころの中には自分の気持ちなんか聞いてくれない大人(内的対象)が存在していそうでした。そして相手にされずとても寂しい思いを抱いてきたのではないだろうかと想像しました。この気持ちを大人に理解してもらう(抱っこしてもらう)ことが必要だと想い、心理療法を続けていくことにしました。お母さん面接も並行して行われました。そこでは担当のサトウ先生に「私たちは忙しくて、全然タクヤの相手をしてあげられなかった。タクヤがいうことを聞かず、怒ってばかりきたんです」といったことが語られました。その後も、タクヤ君はフジモリ先生に悪態をつき続け、気持ちの交流を閉ざそうとする時間が続きました。それはまるでこころに鎧をまとって、小さく傷ついた子どものタクヤ君を守っているかのようでした。それでも関心を持って、タクヤ君の表現していることを見続け、タクヤ君が思っていそうな言葉をかけ続けます。すると、1年ぐらい経ってから人形遊びの中で、フジモリ先生と仲良く遊園地に遊びに行くタクヤ君を表現し始めました。また、寂しい子どもがお父さんと休みの日にキャッチボールをするという人形での表現も始めました。次第にタクヤ君はこころの中に「自分のことを考えてくれる大人」という存在を見つけました。こうして、タクヤ君の問題児の部分は抱えられて、幼稚園でも落ち着きがみられるようになりました。またお母さんも仕事を何とか減らし、タクヤ君に関わる時間を増やそうと努力するようになりました。
このように、数年単位での長い取り組みが実を結ぶことも心理療法の特徴です。そして、心理療法は魔法のようなものではなく、じっくりと気持ちを考えるという作業であるため、子どもをとりまく大人との連携が不可欠であり、むしろ養育者や保育者との協働関係の中で子どものこころは発達していくものだと私は考えています。
最後に、私が専門会員として所属しています「NPO法人子どもの心理療法支援会」(平井正三理事長)を紹介させていただきます。本NPOは、2005年に児童養護施設や社会福祉領域の子どもに対する心理療法的支援を目的として設立し、その中の事業の一環として「キンダーカウンセラー派遣事業」の支援を行っています。月に1回~3回の頻度で、京都市内の私立幼稚園にキンダーカウンセラーが派遣され、主に教諭への相談・助言や、保護者への相談・助言、保護者への面接・講習会などの活動が行われています。費用の半額を幼稚園が負担し、残りの半分を当NPOが支援しています。何か子どものことでご相談がありましたら、是非ともご活用いただけたらと思います。以下にホームページとメールアドレスを載せておきますので、何かありましたらご連絡いただければと思います。
「NPO法人子どもの心理療法支援会」ホームページ:http://sacp.jp
「NPO法人子どもの心理療法支援会」メールアドレス:info@sacp.jp
これで「乳幼児のこころと発達」についての連載を終わらせていただきます。ありがとうございました。
「乳幼児のこころと発達 その2 ~『こころの抱っこ』の重要性~」
花園大学児童福祉学科 講師 藤森旭人
前回は「内的対象」という考え方についてのお話でした。今回はその続きで、気持ちに焦点を当てることの重要性について述べてみたいと思います。
先生方は、子どもに「イタイのイタイの飛んでけー」と、されたことはおありでしょうか。実はこれが非常に大事な対応なのです。少し、そのような場面を詳しく描写しながら、何が起こっているのか考えてみましょう。
幼稚園児のタロウ君は園庭で友達と楽しくサッカーをして、ボールを追いかけていました。すごい勢いで走っていた時につまずき転んで擦りむき、血が出てきました。かなりの痛さと血がどんどん流れ出ることに驚いたタロウ君は、「わー!!」と泣き出してしまいました。そこに担任の花子先生が、絆創膏を持って来てくれて、抱っこしてそれを貼りながら「ビックリしたなあ。痛いなあ。イタイのイタイの飛んでけー」と言ってくれるわけです。すると、徐々にタロウ君は泣きやみ、痛みも徐々に和らいで落ち着きを取り戻しました。めでたしめでたし。
さて、すでにお分かりかと思いますが、もちろん物理的にその擦りむいた傷口が飛んでいくわけではありませんし、急に痛みがなくなるわけでもありませんよね。では、ここで何が起きているのでしょうか。こころの視点から見てみたいと思います。まず、タロウ君は、自分の中で抱えられない、擦りむいた痛さ・驚きを「泣く」という形で「排出」します。そこにやってきた花子先生が、その痛み・驚きを感じ取り「イタイのイタイの飛んでけー」という、タロウ君が受け止められる言葉にして返してあげています。すると、それまで抱えられなかった痛みを何とか抱えられるようになって、タロウ君は落ち着くわけです。大人の皮膚の中に抱えられる身体的な「抱っこ」と共に、花子先生は「こころの抱っこ」をしてあげているのです。この「こころの抱っこ」によって、乳幼児のこころは発達・成長していくと言われています。ポイントは身体的な「抱っこ」をしていてもその子に関心を持っていない状態での「抱っこ」では、子どもからすると抱えられているようには思えないということです(例えばケータイを使いながらの抱っこなど)。「こころの抱っこ」とその後学習する知識によって(この例では、血が出ても血小板の働きによって傷口は回復するから大丈夫など)、子どもは安心感を獲得していくのです。しかし同じような状況で、タクヤ君は「もう、うるさい。泣くんじゃない。それぐらいで」と言われていたらどうでしょうか。このつらい気持ちをどうにかしてもらいたいのに、こころの中でずっと残ったままになってしまいそうですよね。この気持ちを何とか「排出」しようとして、それが問題行動になってしまうことがあります。ジッと教室に居られないことや、おもらしなどがその例かもしれません。日々気づかないうちにしている「こころの抱っこ」について、改めて考えてみるのも、子どもたちとの関わりを振り返る手助けになるかもしれませんね。
「龍短における幼稚園教員の養成4」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
1回目の連載でも紹介しましたように、昨年度設立された本学のこども教育学科は、今年度、初めての卒業生を送り出します。四年制大学に併設されている短期大学ということもあり、編入する学生たちの割合も少なくないですが、それでもやはり、保育職(幼稚園教諭、保育士)に就くことを希望する学生の割合が最も高いです。
こうした保育職への就職を希望する本学科の学生たちは、現在、就職活動に日々取り組んでいるところですが、これまで保育士ないし幼稚園教諭のいずれかで内定を得た学生たちの大まかな内訳をみると、保育士と幼稚園教諭の割合が、およそ3:1だそうです(もちろん、これはあくまで現時点(11月)のことであり、確定した状況ではありません。今なお、就職活動中の学生も少なからずいます)。今年(2012年)の5月に開催された「幼稚園教員養成大学と(社)京都市私立幼稚園教会との交流懇談会」に参加させていただいた際に、幼稚園教諭よりも保育士を志望する学生が非常に多いといった旨のご意見を、多々耳にしましたが、そのことは、本学科でも例外ではなかったようです。
しかし、少なくとも私の目から見た場合ですが、幼稚園教諭の道を選んだ学生たちは、安易に妥協したり、いい加減な気持ちで取り組んだりして進路を選択したわけでなく、実習等で得た経験や学びを通して、主体的に幼稚園教諭という道を選んだ感じを受けます(これは、他の進路を選んだ学生に対しても当てはまりますが)。例えば、先月(10月)に3週間の教育実習(幼稚園)を終えてきた学生たちの中には、そこでの経験から、幼稚園教諭を明確な進路として選択した者もいました。また、ありがたいことに、実習した幼稚園に就職が決まった学生もいました。割合としては、保育士を志望する学生よりも少ないかもしれませんが、幼稚園教諭を志望する学生たちの志や情熱は高い状態にあると思われます。そして、養成大学としては、そうした学生を一人でも多く育てて送り出すことが最大の使命だと感じています。
ただ、私自身は、むしろ学生たちからいろいろと学ばせてもらっている立場でもあります。特に、実習を終えた学生たちからは、非常に逞しくなった様子をひしひしと感じます。先日も、これまでの実習を振り返る演習授業の中で、グループ活動をしている学生たちの様子を見ていると、自分たちがこれまで行ってきた大学や実習先での学びの経験を踏まえながら、他の学生たちと「語り合う」「聴き合う」といった活動を自主的に行っていました。そして、それぞれが実習中に課題だと感じた経験について、グループ内で共有し、その上で、その場で考えられうる解決策を「探究」するといった、非常に水準の高い学びを展開していました。いわば、「語りと探究のコミュニティ(共同体)」を形成していたと言えます。この点は、私も見習わなければと強く感じました。
こうしたさまざまな潜在力(ポテンシャル)を秘めた学生たち個々の力を削ぐことなく、少しでも高みに向かってレベルアップできるよう、ささやかながらでも手助けすることが、養成校の教員としての責務であり、楽しみでもあると痛感しています。
さて、9月から連載させていただいた本稿も、今回が最終回となります。これまで、本学の方針や学生の学び、進路の様子を中心に紹介させていただきました。このような機会を与えていただいたことに、心より御礼申し上げます。そして、これからも、みなさまからご指導いただきながら、日々精進し、本学への教育活動に活かしていきたいと考えております。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。
「龍短における幼稚園教員の養成2 学生たちの学び(2)」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
前回、学生たちに、事後指導の一環として、「幼稚園教諭の仕事」についてのマップ(地図)を描いてもらったことを報告しました。今回は、その次の段階の活動について報告します。
まず、3人でグループを作ってもらい、自分たちが描いたマップをグループの他のメンバーに説明して質疑応答する、という作業をしてもらいました。次に、各自のマップに関する説明および質疑応答を終えた後、グループで話し合った上で、幼稚園教諭に求められる力として3つ(「~力」として表記する)、そして、それらの力は、どのようにして育成することができるか、ということをワークシートに書くことでまとめてもらいました。
この作業を通して出てきた「~力」及びその育成方法は、グループによってさまざまでした。例えば、「環境整備力・声掛け力・観察力」の3つを挙げたグループもあれば、「体力・精神力・理解力」、「まとめる力・見守る力・想像力」、「発信力・発想力・発見力」、などを挙げたグループもありました。その中で、挙げた力の3つともが一致するグループはありませんでした。
しかし、その一方で、注目すべき共通点もありました。それは、「コミュニケーション力」です。この力を3つのうちの1つとして挙げたグループは、実に半数を超えていました。また、その力の育成方法に関する記述の中で目立っていたのが、「積極的(自発的)」という表現でした。若者のコミュニケーション不足や積極性の欠如ないし消極性が叫ばれて久しいですが、実習に臨む学生に対しても、そうした問題や課題を現場の先生方からご指摘を受けることも少なくありません。もちろん、養成校の教員である我々もそのことは十分に意識したうえで、日々教育活動に携わっているのですが、実習を経験した学生自身もやはり、そのことは痛感するようです。だからこそ、そうした力を育成するための方策も、学生たちは自分たちなりに真剣に考えたようです。
ただ、言葉では同じ「積極的(自発的)」ですが、その意味はグループによって多様でした。例えば次のような感じです(以下、引用文中の“ ”は私(森)による挿入です)。「グループワークに“積極的”に取り組む。」、「自分から他人と“積極的”に関わっていく。」、「“積極的”に行動する。挑戦していく。」、「“積極的”に自分の意志を伝える。」、「“積極的”に困っている人を助ける。」、「“自発的”に人と関わる。」、「子どもとたくさん“積極的”に関わる(話す、遊ぶ、性格を知る、etc.)。」…。これだけ多彩なのは、実習で自分自身が体験・経験したことの内容が反映されたからだと考えられます。
加えて、「コミュニケーション力」一つとっても、これは普段の日常生活での心がけや行動を通して育成することが可能だ、という点に学生たちは(多かれ少なかれ)気づいたようでした。この点を、私自身は何よりも重要なことだと感じました。大学における学びも大切ですが、その大学生活は、日常生活という大きな括り(枠組み)の一部でもあります。そう考えると、大学での生活態度のみに気を配れば事足りるわけではなく、普段の生活全般を通して、自分なりに目的意識をもって行動することが、何よりも大事になります。こうしたことを、今回だけでなく、今後の事後指導を通して学生たちにより一層感じて欲しいと願っています。
龍短における幼稚園教員の養成2 学生たちの学び(1)」
龍谷大学短期大学部 准教授 森 久佳
前回お知らせしたように、今回は、幼稚園で観察実習(1週間)を終えた本学の学生たちの学びの様子を報告させていただきます。
今年(2012年)の3月に実習を終えた学生たちに、事後指導の一環として、「幼稚園教諭の仕事」についてのマップ(地図)を書いてもらいました。私の方から、「幼稚園教諭の仕事」と中心に記されたA3用紙を学生一人ずつに配布し、「幼稚園教諭の仕事(活動・業務)として、実習を通して自分が観察したり経験したりしたことを、思いつく限り列挙し、関連づける」、「観察実習で行ったことを思い出して描く(書く)」、「真ん中にある『幼稚園教諭の仕事』から、派生させたり関連させたりしながら、自由に描く(書く)」という指示をしてマップを作成してもらい、その後、自身のマップを見て各自が気付いたことをワークシートに書いてもらいました。ここでは、その一部を紹介いたします。
まず、ほとんどの学生たちは、マップを描くことによって、幼稚園教諭の仕事(業務)が膨大であること、また、それらが断片的ではなく相互にかつ複雑に絡み合い関わり合っていることに気付いたようでした。加えて、これらの仕事(業務)はすべて子どものことと(程度の差はあれ)関連していること、それゆえに、責任を伴うものであることを学んだ(もしくは再確認できた)、という学生が多かったようです。これらの点は、例えば、「一つの物事からいろいろなことが派生していて、何らかのつながりがある…(中略)…教師の仕事は、子どもたちと関わることだけではなくて、その周りの環境に配慮したり、教師同士で会議などで行っていたコミュニケーションをとったりと、とても広い…(中略)…一見つながりのないものだと思っても、派生していたものをたどっていくとつながりがあって深いなと感じました」、「実習中には深く考えていなかったところを、今回改めて書くことで、これはどうなんだろうと思うところがたくさんありました。また、全く関連していなさそうなものが意外と関係していたりして、発見することもたくさんありました。…(中略)…教師の仕事というものは、事務的なことよりも人間関係や子どもたちの援助や支援の方が大きいと感じ、保育者を目指すにあたってどういうことをすればよいのかということが見えてくるのではないかと思いました」という学生のコメントに見受けられます。
さらに興味深いコメントとして、次のものも紹介したいと思います。「(教師の仕事は)本当に終わりがないということをマップにしてみてとても感じました。この仕事はここまできたら終わりといった印もなく、むしろ他になにをしていったらよりよくなるだろう、自分がまだ気づいていなかった点も他の人と話すことからまだまだあるということ、など、することがだんだん増えていくこと、増やしていけることによってよりよい仕事になっていく職業だと感じました。視点も一つではなく、親目線、子ども目線、先生目線などさまざまなことを全て含めて考えて行動していく仕事だと思いました」。これは、まさに学び続ける専門家としての教師像の一端を把握している現れとも言えるでしょう。1週間という短い期間であっても、学生たちは仕事(業務)という視点から幼稚園教諭に関する振り返り(省察)を行った結果、教師の専門性という観点にまでつながる知見を学ぶことができたようです。こうした学生たちの学びや気付きについては、次回でも紹介したいと思います。