子どもを見る目 その3
~倉橋惣三の思想から~
立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵
日本の“幼児教育の父”とも呼ばれ、児童中心主義に基づく保育の発展に寄与した倉橋惣三はどのような目で子どもを見ていたのでしょうか。1926(大正15)年に出版された『幼稚園雑草』に収められている「かく育てたしと思うこと」と題された文章を頼りに考えていこうと思います。
「かく育てたしと思うこと」とは、現代語に言い直すと「このように育てたいと思うこと」ということです。親は子どもに対して、将来このようになってほしいなどの期待を持つものです。例えば、「人に対して親切になってほしい」と親は期待をよせます。では、どうしたら親切さを養うことが出来るのでしょうか。
倉橋は、第一に大人が子どもの好意を受け取ることが重要だと述べます。「第一に子供が好意を表する時に――たとえ、それがいかに小さな事であるにせよ、またその結果はかえって此方には迷惑な事になるにせよ、――取敢えず敏感にこれを受取ってやりたい」というのです。
例えば、母親がしきりに何かを探している。子どもはそれを見て「きっと物差が御入用なのだろう」と思って物差を持っていく。すると母親はいらいらして「何だね、物差じゃない、鋏がいるのではないか」と怒鳴る。このような場面は現代の家庭生活のなかでも時々起こることかもしれません。しかし、これによって子どものやさしい心は折れて引っ込んでしまう。忙しければ忙しいなりに子どもの好意を受け取ってあげよう、というのが倉橋の考えです。
第二に倉橋が挙げているのは、容赦することです。つまり、「許す」ということです。子どもが悪さをし後、罰を与えたり、叱ったりした後に「許す」ということは現代でも一般的になされていると思いますが、倉橋は、罰や叱ることなく子どもを許すことの尊さについて論じています。たとえば、遊戯室で子どもが遊んでいる時、許可なくピアノを弾いてはいけないのに、弾いてしまった。ちょうどそこへ先生がやってくる。子どもはハッと思ってピアノを弾くのをやめて先生を見る。「許可なくピアノを弾いてはいけないもの」ということをその子はよく承知しているのです。もうこの心持ちだけで、何も言わなくてもいい。黙って初めから許してあげたらどうでしょう、と倉橋は言います。悪いことをして罰なしに許された時に子どもの心に「美しいもの」が現れる。それは実に尊いものだ、というのです。
つまり、倉橋の考えによれば、すべての人が自分に好意をもってくれる、容赦の世界に抱き包まれているという感覚が子どもの中に与えられることが重要なのです。
倉橋のこのような教育論に対して全面的に頷けない方もおられるだろうと思いますが、現代に生きる私たちが学ぶべきこともあると思います。それは第一に、心の教育はまず大人が子どもの好意や内面を敏感に感じ取ることから始まり、それを伸ばすということに主眼を置かなければならないということです。大人が考える「親切とはこうあるべき」と教え込んでいく教育とは異なる方針です。
第二に、この文章のタイトルは「かく育てたしと思うこと」ですが、内容を見ていくと、倉橋は大人が子どもにこうなって欲しい、例えば、将来は社会的地位の高い成功者になって欲しいなどの理想を持つことをたしなめているように思われます。人生にとって本当の幸福は社会的地位によって決まるわけではない。幸福な人間は、子ども時代を好意と容赦の間に保護されている世界で過ごし、大人になって実際の社会で失望や不平を感じても、他者からの好意を感じ取ることのできる人間だ、と倉橋は考えました。
子どもにこうなって欲しいという大人の理想は、子どもを見る目を曇らせてしまうのかもしれません。子どもが幸福な人間へと成長していくためのサポートとは、子どものありのままを見つめ、それを受け止める大人の目を基本とするものなのでしょう。
子どもを見る目 その2
~“突っ伏す”子どもを作らない保育~
立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵
これは、ある幼稚園での公開保育研究会に参加したときに学んだことです。
その日は、発表会にむけて子どもたちが準備を進めていました。ある10 名のグループの出し物は縄跳びでした。限られたスペースのなかで、どうやったら皆が縄跳びを飛べるのか、先生と子ども達が体育座りで輪になって、一生懸命相談していました。
一人の子どもが、「全員じゃ飛べないから、分けよう」と提案すると、これを受けて他の子どもたちから「じゃあ、3人、3人、4人にしたらどうだろう」、「いや、3人、3人、2人、2人に分けたほうがいい」などと次々に意見が飛び出します。
それを見ていた私は、「ここの幼稚園の子どもは皆賢いな~」と感心していたのですが、よく見ていると、皆が色々と意見を言い合うなかで、一人だけ体育座りの膝に顔をくっつけて突っ伏し、沈黙する子どもがいました。
発表会の日が差し迫っている、ということもあって、先生はその他の子ども達と話を進め、どのように縄跳びの発表を行うか決めてしまいました。
その日の午後、今日見た保育活動をもとに研究会が始まりました。上記の縄跳びの件も話題に取り上げられました。講師として迎えられていた先生は、話の進むスピードや計算についていけない子どもがいる、ということを確認した上で、そうした子どもが沈黙してしまう状況を作ってはいけない、とアドバイスをしました。「果たして今日中
に発表のやり方を決める必要があったのだろうか」、「話の進め方をゆっくりにして、その子どもが参加できる形でできなかっただろうか」と問いかけました。
体育座りの膝に顔をつけて突っ伏す子ども、沈黙する子どもを作り出しているのは保育者で、そうならない保育~子どもたちの様々な個性が認められ、ひとり一人が活き活きと活動できる保育~を目指す必要がある、というメッセージであったと思います。
そんなメッセージは、短大の教育活動において、限られた時間のなかでカリキュラムをこなしている私自身にも突き刺さりました。幼稚園、短大に限らず、集団での教育活動は、一斉性が求められる場面がたびたびあります。日本における一斉教授法の導入は明治期にまでさかのぼり、その効率の良さから教育現場で重宝されてきました。しか
し、上記の事例からマイナス面も少なくないと言えそうです。学校という組織における教育活動に効率の良さが求められることは事実です。しかし、教師はそれにとらわれ、活動の流れに乗れない子どもを“問題児”として見ることがないよう、よくよく注意をする必要があります。
黒柳徹子さんの自伝である『窓ぎわのトットちゃん』に登場する校長先生は、前の小学校を「退学」になったトットちゃんとの最初の面談で、「さあ、なんでも先生に話してごらん。話したいこと、全部」といって、4時間もかけてたっぷり話をきいてあげています。そして、たびたび「君は、本当は、いい子なんだよ!」と声を掛けました。授業を妨害する“問題児”として「退学」となったトットちゃんの疎外感を校長先生は感じ取っていたのかも知れません。ひとり一人の個性を尊重する教育は、時間がかかるものであり、効率の良さからは縁遠いものであることを物語っています。
子どもを見る目 その1
~信頼関係を築く「視線」/実習生の学びから~
立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵
保育者養成校に勤務し、教育・研究に携わっていますと、「子どもを見る目」について考えさせられることが度々あります。今回から4回にわたって「子どもを見る目」をテーマとして考えていきたいと思います。
「子どもを見る目」とは、子どもをどのように理解するか、どのように捉えるかといったような子ども観や、子どもの言動や表情から思いを読み取り理解する力のこと、とすると、両者とも保育者にとって欠くことのできないもの、ということができるでしょう。
短大の教員である私にいたっては、自分の「学生を見る目」の無さに反省することが多いのですが、保育者の卵である学生たちは実習を通してどうやって「子どもを見る目」の芽を育てていくのでしょうか。とある実習生の日誌の一部を抜粋して紹介したいと思います。
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今までお弁当前のお祈りの時に、手を合わせることができなかったM ちゃんが、今日は自らお祈りをすることができていた。その様子を担任の先生は見ていて、お弁当の時間の後に、「今日、自分でちゃんとお祈りできてたね!」とM ちゃんをほめていた。お弁当の後は、色々とやることがあるにもかかわらず、さらに先生は、Mちゃんの前で他の先生にも「今日、M ちゃんがきちんとお祈りできていたんですよ!」と報告していた。
M ちゃんは嬉しそうに体をゆらし、私に「今日ね、一人でお祈りできたの!」と教えてくれた。私が、「やったねM ちゃん!先生にもほめてもらえて嬉しかったんだね!」と言うと、顔をくしゃくしゃっと満面の笑みでいっぱいにして、私と一緒にジャンプした。そして、「お外へ遊びに行こう!」と私を誘い、元気に外へでていった。お片づけの時も、「ちょっとあっちのお手伝いしてくるわ!」と言って、自分からすすんで動くMちゃんの姿が見られた。
M ちゃんは先生たちに強い信頼感を持てるようになったと感じた。先生たちの、個を見ながら集団を、集団を見ながら個を見ることができる視線が、きちんと子ども達に伝わり、信頼関係のもとになっているのではないかと思った。また、子ども達はそういった「ちゃんと見ているよ」というメッセージを受け取ることができるからこそ、自ら活発的に動こうという気持ちを持てるのだと思った。
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この実習生は、M ちゃんと保育者の間に形成された信頼関係を感じ取り、さらにその背景には、保育者の「視線」があるのではないか、と気が付きました。その「視線」とは、集団を見ていながら個を見る視線です。この「視線」がもとになって信頼関係が形成されているのでは、と分析しています。また、子どもたちは保育者の個を見る「視線」のメッセージを受け取ることができ、それが子どもの自発性につながる、と考察しました。
集団を見ながら個を見る、という言葉は保育を学ぶときによく耳にするフレーズですが、この実習生はそのことを実際の現場を通して自ら掴み取ったということがはっきり分かります。こうした学びを獲得するためには、学生自身が一人の人間として信頼関係を感じ取る力、他者からの「視線」のメッセージを感じ取る力を持つことが必要なのだろうと思います。そのためには、養成校や幼稚園の教員も、学生を一人の人間としてその個性を見つめ、信頼関係を築きながら学生と関わり、育てていくことが不可欠、と言うことができるでしょう。
子どもの発達とおもちゃ
神戸女子短期大学 永井久美子
今回は、保育者・保護者の視点から子どもの発達とおもちゃの関係を考え直す事を趣旨として、記載させていただきます。とかく子どもとおもちゃの関係ということになると、一般家庭でのそれと幼稚園・保育所での保育のそれとはまったく別のものとして捉えられています。というのは、一般家庭での子どものおもちゃと言えば、保護者が買い与えた商品として流通しているおもちゃであり、後者の教育・保育現場においては自然物や文房具、廃材などを使って作られたおもちゃ等ということになるからです。前者の場合はともかく話題の既製品を購入し、その最新の仕様を決められた形で楽しむことに主眼があり、後者の場合はそのままではおもちゃとして遊べない素材を製作過程と見立ての遊びを通して、おもちゃへと加工していくプロセスこそに主眼があります。幼児教育学・保育学の研究ということで言えば、前者についてはあまり触れられることなく、後者の作成方法やつくられたおもちゃの保育への活用は研究の対象として扱われることが多くあります。
このようなおもちゃをめぐる家庭と保育現場の違いについては、ここでお伝えする必要はないかと思われます。そして、今日の子どもを取り囲むおもちゃ環境は、教育や保育に精通した専門家や保護者が首肯できるものとは言いがたいものがあります。1年ごとに仕様変更されるヒーローものは遊びの継続性を切断し、また保護者に商品を買わせる経済的な意図しか持たないように思われます。また幼児から電子ゲーム機器といった遊びになじませることは、弊害が多くあります。電子ゲーム類のような、身体的な活動ではなく脳・神経系のみに特化した刺激的な遊びは、依存性があり、また実際の身体を用いないため、運動や巧緻性の発達を促しません。
このような事情から、全面的に今日のおもちゃ・遊び環境に賛意を表することはできませんが、しかし今日の大多数の教育施設・保育施設に子どもを通わせ、近隣の子どもや保護者と人間関係を営んでいる限り、商品経済、マスメディアと結びついたおもちゃや文化環境から離脱することは困難であると思います。それゆえ、子どもの文化世界および発達を守る環境として、教育施設・保育施設の保育環境は重要だと考えます。
一方で、このような観察や考察は、商品としてのおもちゃを普段は使わない幼児教育・保育の実践者にも資するところが大きいと思います。それを顕在させるためには、私たちは、家庭のおもちゃと教育・保育のおもちゃという高い壁、そして家庭の遊びと教育・保育の遊びという高い壁を取り払う事は無理としても、壁を低くして研究していく必要があるのではないかと考えます。
参考・引用文献
弘田陽介・永井久美子(2015)子どもの発達と「メディア」としてのおもちゃ-保育現場におけるおもちゃと家庭における「妖怪ウォッチ」の商品の狭間で- 大阪城南女子短期大学研究紀要 49,69-92
乳児保育は世界的には家庭的モデルの方が主流
神戸女子短期大学 永井久美子
わが国ではまだ十分に普及していない訪問保育(ベビーシッター)や家庭的保育(保育ママ)、小規模保育の普及に関心を向ける必要があります。
今後、市町村や保育所を経営する社会福祉法人等が、地域福祉のネットワークとして質的にも優れた保育資源を社会的、公的なサービスの一環として考慮すること、そして連携してきめ細やかな保育サービスを展開する可能性を探ることの重要性を感じます。それらは、必然的に児童福祉の質的向上に寄与し、自主的で創意にあふれた訪問保育(ベビーシッター)、家庭的保育、小規模保育等の保育資源が広がることに結びつくでしょう。
さて、欧米などを見ると、乳児(0 歳・1 歳)の保育形態は、家庭内代理保育(親族やベビーシッター)が多く、ついで、(日本で言う)家庭的保育や小規模保育でしょう。就学前までの子どもが揃って(しかも全部で150 人であるとか、もっと多い保育所で)乳児保育をしているケースはもちろんありますが、例外だと言えます。北欧などだと
そういう保育所はありますが、規模はもっと小さいでしょう。
ともあれ、とりわけ英語圏の研究者によると、親代理のような大人が少数の乳児の保育をするのが前提のように想定されていて、日本(や中国などのように)の乳児保育で相当な人数を抱えているというのを目の当たりにすると大変驚かれます。
むろん、それがいけないという意味ではありません。また、日本の乳児保育はレベルが高いと考えられます。ただ、一人の大人がずっと保育をするというモデルでないと、不思議がられるようです。さらに、3 歳以上のクラスでも日本のように(また中国のように)何百人もいる園だと想像を絶するようです。一クラスが30 人とかで、それもまた、
ありえないと感じるでしょう。しかし、子どもが整然としていることに、それも驚かれるようです。
私は、日本でも乳児(0 歳・1 歳)の保育は、ベビーシッターや家庭的保育や小規模保育をもっと充実させ、研修時間を増やすことが必要だと感じています。さらに、通例の保育所の乳児保育に対する選択肢として、むしろ優先して選びたくなる保育形態として発展していくことを願っています。
そこで、世間一般の方々に家庭的な保育について正しく理解していただくこと(認知度を上げること)を願い、「家庭的保育を考える会」という研修会を実施しております。
乳幼児期は、一生のなかで一番大切な時期です。それは、人生の土台をつくるときだからです。人はこの土台の上に、その後の人生を積み上げていくことになります。土台がしっかりしていなければ、その上に豊かな人生を築くことはできません。
今後は保育の形態を問わず、保育の場がどんな子どもも大人も成長できる小さな地域コミュニティへと成熟していくことが、保育に求められる事だろうと思っています。
造形で褒めることにより見えてくるもの
京都女子大学 矢野 真
研修会などで幼稚園の先生と話す機会がありますが、次のことをおっしゃる先生方によく出会います。それは「先生のような造形を専門とする方は、持って生まれた才能がないとできないですね。」という内容です。
私は造形を考える上で、持って生まれた才能よりも重要な要因があると考えています。それ
は、いかに継続して造形と関わるかということです。
大学院、そして非常勤として東京藝術大学に10 年間在籍した時、工作の公開講座などを通して幼児や小学生と関わりながら造形教育の大切さを実感しました。その後2 年間、中・高等学校で美術の教員となり、生徒たちに美術や造形の楽しさを伝えていこうと張り切っていましたが、中・高ではもう遅いということを痛感しました。というのは、美大を目指す生徒もそうでない生徒も、造形や美術が好きで楽しく取り組むというよりは、よい成績を取るために取り組んでいるように思われたからです。もっと幼少期の段階から造形を楽しむことの大切さを教えていく必要があるのではないか、そして自分が培ってきた造形に関する技能を社会(教育)に還元していくためには、幼・小の造形に関わることが必要だと考えたのです。その後、運よく児童学科のある大学に勤務することができました。今は一人でも多くの幼児、そして保育者に造形を楽しく感じてもらうことができるよう、日々の努力を続けています。
さて、造形は才能というよりも継続が重要であるという話しに戻りましょう。幼児の造形は、小学校のように成績には反映されません。小学校に入ると図画工作は点数化され成績がつきます。自分が思うより悪い成績がつくと、いくら頑張っても意味がない→ ならば図工はつまらない→ 図工は嫌い といった図式になっていきます。造形を仕事としている人のなかには、
幼稚園時代の先生が自分の造形作品をたくさん褒めてくれたことがきっかけとなっているということがあります。私も特に上手であったとは思いません。両親や幼稚園の先生、そして絵画教室の先生に褒められ、ずっと継続してきたことが重要であり、そのことにより現在の自分がいるのだと考えています。
そこで幼稚園の先生方にお願いしたいことがあります。先生が造形を得意でもそうでなくとも、子どもたちが作る造形をたくさん褒めてあげてください。「いいねぇ。」「上手にできたね。」と抽象的に褒めるのではなく、色や形、大きさなどを具体的に褒めてあげることが大切です。子どもたちは褒められたことにより、自信につながり、また絵を描こう、工作を作ろうという気持ちになります。子どもたちが継続して造形を楽しむことができる環境づくりをしてあげてください。このことは、子どもたちの技能や感
性につながるとともに、将来、私のように保育の造形を専門とする先生が誕生するかもしれません。「継続は力なり」です。
粘土であそぼう!~粘土エクササイズのすすめ~
京都女子大学 矢野 真
粘土を使った造形活動は、どこの幼稚園でも行われる活動です。この粘土を使った活動には発達による段
階があります。3歳児の粘土あそびでは、最初は不定形の塊が多く、つつく・突っ込む・ちぎるなどの運動的操作が多くみられ、次第にお団子やひもなどに加工されます。4・5歳児になると凹凸とともに多くの量が使われ、複雑化し、造形意図がはっきりと表れます。
3歳児の粘土活動は、具体的なかたちにまで到達することが難しいかもしれませんが、とても重要です。この時期は、基礎的な運動能力が育つとともに、様々な遊具を手にすることにより遊びのイメージが大きく広がります。生活に身近な様々なかたちを目で見て、手で触れ、感じたり気付いたりすることができる環境づくりが大切なため、粘土あそびを通じて、身体を使って自由につくることができるかたちの面白さを学んでいきます。
もし、幼稚園に大量の土粘土があれば、全身で泥まみれになって遊ぶことができますが、日常使っている油粘土で様々な動作(握る・ひねる・つまむ他)を十分に経験することにより、自分の手の動きをコントロールし、自らの身体感覚を高めていきましょう。
こうした経験を助長する方法として、粘土エクササイズを提案します。粘土エクササイズとは、具体的な作品づくりに入る前に行う活動で、にぎり出す、ひねり出す、つまみ出す、丸める、ちぎる、積むなどの動作を全員で一斉に行い、手の巧緻性を高める活動です。
一例として、次の粘土エクササイズを紹介します。まず、油粘土をひとかたまり持ってギュッとにぎる(特に使い始めは油粘土が硬いため、活動前に柔らかくする効果もあります)→ 粘土板において高く手で握り出しながら高く伸ばす(このときみんなで高さを競争してもいいでしょう)→ 上から渦巻き状にクルクル丸める→ 一つのかたまりにする→ 粘土板でコロコロ転がしてひも状(ヘビのかたち)にする→ ひも状の粘土を二つに切り、交差するように2 本をねじって編む→ 一つのかたまりにする→ 小さくつまんでトゲトゲをたくさんつくる→ 大きくつまんでちぎり、お団子をたくさんつくる→ お団子を積む(縦に積む・ピラミッド型に積むなど子どもたちの工夫を促します)といった具合です。
子どもたちの状況に応じて、順番やエクササイズの内容を変えてみてください。また、粘土エクササイズを通じて子どもたちのイメージが広がるような導入を心がけましょう。この粘土エクササイズを行った後の粘土あそびで子どもたちがつくり出すものは、様々な動作を組み合わせて工夫していることが期待できます。
このように、粘土あそびは手や指を巧みに使うことにより、子どもたちの創造力を高める効果があること、そして子ども同士のコミュニケーション・ツールとしても有効なため、日々の保育において積極的に取り入れてもらえることを期待しています。
「子どもの絵は語る」
京都女子大学 矢野 真
子どもたちの絵は、時にこんな思いを表現しているのかと驚かされることがあります。以前の事
例にこんなことがありました。
私の前任校でのゼミ生で、とある幼稚園のA先生が研究室に遊びに来た時のことです。そこで突然、自分が担当する年長クラスの園児の絵画作品をみてほしいと言うのです。作品をみたところ、子どもたちが元気に楽しんで描く絵と何ら変わりない絵でした。
しかし、細部までをじっくりとみていくと、家族をテーマに描いている絵と母の日をテーマに描いている絵の2 枚に共通する不思議なことに気付きました。それは、一人の人物の胴体部分に顔らしきものが3 つあるのです。普段から寡黙なBくんは、自分からあまり語ることはないため、A先生もあまり触れることがなかったらしいのですが、何枚か描く絵にこの傾向が現れること、特に母親を描くときにこうした表現をすることがわかったのです。A先生が最初にBくんの作品をみた時、Bくんは何か見えないものが見える特殊な能力があるのではないかとさえ疑ったそうです。結局、その日はしばらく様子をみるということでA先生も帰っていきました。
後日、A先生の務める幼稚園の園長先生とも親しく、Bくんの様子も気になっていたこともあり、その幼稚園へ造形活動の見学に行きました。ちょうどその時、子どもたちが兄弟の話しで盛り上がっているところでした。私はその中に寡黙なBくんを見つけましたが、彼は普段にも増して静かに、そして落ち込んでいるようにもみられました。A先生が寄り添いながら「どうしたの?」と聞くと、小さい声で一言「ぼくには兄弟がいないから…。」
と言いました。
さて、ここでお気づきになった方もいらっしゃると思います。そうです、Bくんが母親の胴体部分に描いていた顔らしきものは、兄弟がほしいという現れだったのです。母親のおなかに赤ちゃんがいるという、その願望を絵に表現していたのでした。その話をA先生に伝えると、A先生は以前みせてもらったBくんの作品を持ってきて、その絵に描かれた顔らしきものについて思い切って聞いてみました。すると、「(一番上の顔らしきものを指して)これは妹で、次が弟で、その次が妹なんだ。兄弟がいっぱい。そしたらみんなでいっぱい遊ぶんだ。」と、いつもは寡黙なBくんが照れながらも笑顔で教えてくれました。このように、子どもたちの絵には予想外の内容が詰まっていることがあります。そして、そこには子どもたちが伝えたいことがたくさん詰まっています。決して指導書などで描かれている事例を鵜呑みにするだけでなく、子どもたち一人ひとりとたくさんの関わりをもちながら理解していくことが大切です。また、「上手にできたね。」だけでなく、どういったところが上手に描けているのかを具体的にほめたり、描かれている絵を通じてコミュニケーションを取り、理解していくことが大切なのです。
「子どもの存在と時間」
京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子
子どもは日々大きくなる。身体ばかりではない。いつどこで覚えたのかと大人が戸惑うような言葉を子どもは急に口にすることがある。また、今までどうしてもできなかったことが、突然できることもある。大人は子どもの成長に期待し、子どもはそれにこたえようとますます張り切って新しいことにチャレンジする。子どもの時間は止まっていない。前へ前へと速度を増しながら進んでいく。
大人にとっても時間は留まることなく進んでいく。未来は現在に呑み込まれながら過去へと流れ去る。指の間から砂がさらさらと滑り落ちるように、今この瞬間が過ぎ去り消えてしまうものなら、生きているということは流れに身を任せ、その時その時を刹那的にやり過ごすことなのだろうか。そうであるなら、身の置き所がどこにもなく、自分自身が不確かなもののように思えてくる。経験の世界では、捉えどころのないのに名前を付けることによって形をもち、理解できるものになるということがしばしばある。なんだか体調がすぐれず病院に行き、医者に病名を告げられはじめて自分の状態に納得したという人も少なくないことだろう。時の流れについても同様で、「○○の時間」と名
付けることによって現実を区切り、確認できるものになる。しかし一方、言葉に置き換えることでなにか空々しいものとなり、自分とはかけ離れたものに感じることもある。
生きていることそのものを捉えることはできないのだろうか。ある教育学者は、人間が生きている最も単純で原初的な形を「気分」や「雰囲気」と呼ぶ。気分は「何とも言えない気分」という言い回しが示すように明確な対象をもたないが、人間の活動にあるまとまりと固有な色彩を与える。素朴で根源的な自分のあり方を示すものが気分である。また、「子どもが自ら意識している感情のなかで現れることのない、子どものなかで現れるひとつの内的な情態、内的な充実の状態」は、「庇護性」であるとその教育学者はいう。庇護性とは安全な世界に包み守られている安心感と信頼感に満ちたものであり、庇護性こそが根源的な教育的雰囲気だというのである。
人間は生きていく中で自分自身に不確かさを感じることが幾度となくある。その時、自分が誰かにまるご
と受け止められ守られていたことを思い出すことができたら、どんなに救われることであろう。庇護性は、そこに根を張りそこから大きく延びていく大地ともいうべきものであろう。大地に立っていたかつての自分を確認できれば、今の自分をも確認できるのではないか。幼児教育は、自然界で最も弱い一本の葦にすぎない人間にとって、戻っていくことのできる確かな基盤を創り出すことに思えてならない。
「子どもと周りの世界」
京都聖母女学院短期大学 児童教育学科 教授 松井玲子
親として保育者として責任をもって子どもに対するとき、時として子どもが見えなくなったり、分からなくなったりしてしまうことがある。子どもの言い分や
理屈がわがままに思えたり、言うことに素直に従わない子どもに手を焼いたり、突飛な行動をする子どもを理解できないと嘆いたりする。私たち大人もみんな、
かつては子どもであって、子どもとして生きていたのに。
子どもはどのような世界に生きていて、そしてそれをどのように受け止め、どう対しているのか。子ども、それも幼ければ幼いほど、よくわからないことに取り
囲まれて生きている。見て触って口に入れて確かめてようやく分かってくると、活動の範囲の広がりとともに知らない世界が迫ってくる。ベビーベットから見ている世界、這っていける空間、家の中、公園、友達の家、幼稚園、・・・・・征服されることのない「未知の世界」がどんどん広がってくる。自分が理解できないことに
取り囲まれながら生きるとは、どのようなことなのだろうか。私たち大人には、見知らぬものを探る手だてがある。経験であり、知性であり、本やネットなどの検索ツールもある。しかし、子どもたちはその大半をもたない。子どもとして生きるとは、身を守るすべをもたないまま、困難な状況に立ち向かうことのように思えてならない。
昨年、入園当初の子どもたちの様子を泣き出す子どもに注目して観察研究をした。ある子どもは登園するときから泣いている。玄関で出迎えた園長が「どうしたの?」と優しく声をかけるも、「あっちいけ!」と強い調子で拒絶した。緊張を解きほぐそうと園庭での自由遊びに誘っても、いすに座ったまま「絶対、外、行きたくない。オッチンしてる」と頑張っている。保護者との別れ際に泣き出したある子は、保育者との関わりの中で落ち着き、外遊びでは元気に走り回ったり他の子どもたちと一緒に遊んだりしているのに、時々思い出したかのように泣き出す。入園を楽しみにし、園生活になじみ積極的に活動していたある子は、園生活のきまりが理解できていない他の子に注意を促すこともできていた。しかし、何日かが過ぎ多くの子どもが園生活に慣れ始めたころ、その子どもが小さくしゃく
りあげる姿が幾度かみられた。
幼稚園に入った、一つ大きくなったという自覚と誇りがあるから、どの子どもも初めての園生活に必死に耐えている。つかみどころない状況に身を置きながらも、真剣で懸命に生きている姿である。そうした子どもを目にするにつけ、えらいなと思い、人として尊敬すべきものを感じる。子どもであれ大人であれ、目の
前には新たな地平が広がっており、未知の世界を開拓しつづけることが生きることなのであろう。