新連載

【新連載】4回シリーズ(3)

子どもを見る目 その3
~倉橋惣三の思想から~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

 日本の“幼児教育の父”とも呼ばれ、児童中心主義に基づく保育の発展に寄与した倉橋惣三はどのような目で子どもを見ていたのでしょうか。1926(大正15)年に出版された『幼稚園雑草』に収められている「かく育てたしと思うこと」と題された文章を頼りに考えていこうと思います。

 「かく育てたしと思うこと」とは、現代語に言い直すと「このように育てたいと思うこと」ということです。親は子どもに対して、将来このようになってほしいなどの期待を持つものです。例えば、「人に対して親切になってほしい」と親は期待をよせます。では、どうしたら親切さを養うことが出来るのでしょうか。

 倉橋は、第一に大人が子どもの好意を受け取ることが重要だと述べます。「第一に子供が好意を表する時に――たとえ、それがいかに小さな事であるにせよ、またその結果はかえって此方には迷惑な事になるにせよ、――取敢えず敏感にこれを受取ってやりたい」というのです。

 例えば、母親がしきりに何かを探している。子どもはそれを見て「きっと物差が御入用なのだろう」と思って物差を持っていく。すると母親はいらいらして「何だね、物差じゃない、鋏がいるのではないか」と怒鳴る。このような場面は現代の家庭生活のなかでも時々起こることかもしれません。しかし、これによって子どものやさしい心は折れて引っ込んでしまう。忙しければ忙しいなりに子どもの好意を受け取ってあげよう、というのが倉橋の考えです。

 第二に倉橋が挙げているのは、容赦することです。つまり、「許す」ということです。子どもが悪さをし後、罰を与えたり、叱ったりした後に「許す」ということは現代でも一般的になされていると思いますが、倉橋は、罰や叱ることなく子どもを許すことの尊さについて論じています。たとえば、遊戯室で子どもが遊んでいる時、許可なくピアノを弾いてはいけないのに、弾いてしまった。ちょうどそこへ先生がやってくる。子どもはハッと思ってピアノを弾くのをやめて先生を見る。「許可なくピアノを弾いてはいけないもの」ということをその子はよく承知しているのです。もうこの心持ちだけで、何も言わなくてもいい。黙って初めから許してあげたらどうでしょう、と倉橋は言います。悪いことをして罰なしに許された時に子どもの心に「美しいもの」が現れる。それは実に尊いものだ、というのです。

 つまり、倉橋の考えによれば、すべての人が自分に好意をもってくれる、容赦の世界に抱き包まれているという感覚が子どもの中に与えられることが重要なのです。

 倉橋のこのような教育論に対して全面的に頷けない方もおられるだろうと思いますが、現代に生きる私たちが学ぶべきこともあると思います。それは第一に、心の教育はまず大人が子どもの好意や内面を敏感に感じ取ることから始まり、それを伸ばすということに主眼を置かなければならないということです。大人が考える「親切とはこうあるべき」と教え込んでいく教育とは異なる方針です。

 第二に、この文章のタイトルは「かく育てたしと思うこと」ですが、内容を見ていくと、倉橋は大人が子どもにこうなって欲しい、例えば、将来は社会的地位の高い成功者になって欲しいなどの理想を持つことをたしなめているように思われます。人生にとって本当の幸福は社会的地位によって決まるわけではない。幸福な人間は、子ども時代を好意と容赦の間に保護されている世界で過ごし、大人になって実際の社会で失望や不平を感じても、他者からの好意を感じ取ることのできる人間だ、と倉橋は考えました。

 子どもにこうなって欲しいという大人の理想は、子どもを見る目を曇らせてしまうのかもしれません。子どもが幸福な人間へと成長していくためのサポートとは、子どものありのままを見つめ、それを受け止める大人の目を基本とするものなのでしょう。