新連載

【新連載】4回シリーズ(2)

子どもを見る目 その2
~“突っ伏す”子どもを作らない保育~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

 これは、ある幼稚園での公開保育研究会に参加したときに学んだことです。

 その日は、発表会にむけて子どもたちが準備を進めていました。ある10 名のグループの出し物は縄跳びでした。限られたスペースのなかで、どうやったら皆が縄跳びを飛べるのか、先生と子ども達が体育座りで輪になって、一生懸命相談していました。

 一人の子どもが、「全員じゃ飛べないから、分けよう」と提案すると、これを受けて他の子どもたちから「じゃあ、3人、3人、4人にしたらどうだろう」、「いや、3人、3人、2人、2人に分けたほうがいい」などと次々に意見が飛び出します。

 それを見ていた私は、「ここの幼稚園の子どもは皆賢いな~」と感心していたのですが、よく見ていると、皆が色々と意見を言い合うなかで、一人だけ体育座りの膝に顔をくっつけて突っ伏し、沈黙する子どもがいました。

 発表会の日が差し迫っている、ということもあって、先生はその他の子ども達と話を進め、どのように縄跳びの発表を行うか決めてしまいました。

 その日の午後、今日見た保育活動をもとに研究会が始まりました。上記の縄跳びの件も話題に取り上げられました。講師として迎えられていた先生は、話の進むスピードや計算についていけない子どもがいる、ということを確認した上で、そうした子どもが沈黙してしまう状況を作ってはいけない、とアドバイスをしました。「果たして今日中
に発表のやり方を決める必要があったのだろうか」、「話の進め方をゆっくりにして、その子どもが参加できる形でできなかっただろうか」と問いかけました。

 体育座りの膝に顔をつけて突っ伏す子ども、沈黙する子どもを作り出しているのは保育者で、そうならない保育~子どもたちの様々な個性が認められ、ひとり一人が活き活きと活動できる保育~を目指す必要がある、というメッセージであったと思います。

 そんなメッセージは、短大の教育活動において、限られた時間のなかでカリキュラムをこなしている私自身にも突き刺さりました。幼稚園、短大に限らず、集団での教育活動は、一斉性が求められる場面がたびたびあります。日本における一斉教授法の導入は明治期にまでさかのぼり、その効率の良さから教育現場で重宝されてきました。しか
し、上記の事例からマイナス面も少なくないと言えそうです。学校という組織における教育活動に効率の良さが求められることは事実です。しかし、教師はそれにとらわれ、活動の流れに乗れない子どもを“問題児”として見ることがないよう、よくよく注意をする必要があります。

 黒柳徹子さんの自伝である『窓ぎわのトットちゃん』に登場する校長先生は、前の小学校を「退学」になったトットちゃんとの最初の面談で、「さあ、なんでも先生に話してごらん。話したいこと、全部」といって、4時間もかけてたっぷり話をきいてあげています。そして、たびたび「君は、本当は、いい子なんだよ!」と声を掛けました。授業を妨害する“問題児”として「退学」となったトットちゃんの疎外感を校長先生は感じ取っていたのかも知れません。ひとり一人の個性を尊重する教育は、時間がかかるものであり、効率の良さからは縁遠いものであることを物語っています。