新連載

「保育の四季 その3 11月―木の葉とカマキリとボクの小さなドラマ」4回シリーズ(3)

「保育の四季 その3 11月―木の葉とカマキリとボクの小さなドラマ」

京都橘大学教授 神谷栄司

  

 初秋の運動会が終わると、園庭や園の周辺で、子どもを惹きつけてくれる自然はドングリと木の葉くらいしか残っていない。それらは、自らは動かない自然である。春から夏にかけて生命と生活のある動きを見せてくれる躍動的な小虫や小動物とは趣きが違っている。そうした静かな自然のなかにドラマが感じられるには幼児のさらなる想像力が必要となる。

木の葉への愛着
 この場合、想像とドラマの出発点になるのは自分が見つけて気に入ったドングリや木の葉への愛着である。園外の林で、保育者が「自分の気に入った木の葉を一つだけ、幼稚園に持って帰ろう」と言うと、実に多様な木の葉が選ばれている。その理由は、「穴が空いているのがいい」「真っ赤なのがいい」「半分黄色で半分緑なのがいい」「緑の線が入っているのがいい」「パリパリなのがいい」など様々だ。保育室には幼児ひとりひとりが作った「宝箱」が待っている。皆でそれぞれの木の葉を紹介しあったあと、その箱に木の葉を大切に置くのである。これを起点に、園庭の木の葉を同じように拾ったり、木の葉についての絵本を読んだり、木から飛び降りたり風に飛ばされる木の葉について話し合い身ぶりで表現したりする。何日かが経つと、毎日、数名が登園前に見つけた木の葉を園に持って来るようになる。

ある4歳児の物語
 晩秋のある朝、4歳の男児がそのように持ってきた木の葉をクラスの皆の前で紹介してくれた。登園直後に保育者に見せて話したのであろうか、保育者はその子の話をうまく補う。それによると、この子は登園途上で立ち寄った公園の木の葉の吹き溜まりでこの木の葉を見つけた。気に入ったので、これを幼稚園に持って行こうと思い、手にしたところ、木の葉の下で「カマキリさんが寝ていた」(死にゆくカマキリであろう)。男児はカマキリさんも「寒いから葉っぱをお布団にして寝ているのだ、悪いことをしたなぁ」と思い、その木の葉をカマキリさんにそっとかけてあげた。ところが、あたりを探しても、先ほどの木の葉が一番良く思え、何度も、その木の葉を手にしたり、カマキリさんに返したりした。そのうちに、その木の葉によく似た木の葉を見つけたので、新たに見つけた方をカマキリさんにかけてあげた。そのようにして持って来たのがこの木の葉だ、という紹介だった。その一枚の木の葉にカマキリさんとボクの心温まるドラマが隠されていたのである。

子どもの心を育ててくれる自然
 たしかに人間を育てるのは人間である。だが、教育熱心な大学教員には「学生を育てるのは教員だ」という一種の思い違いがある。そうではなく、学生をもっとも奥深く育てるものは学問そのものだ(そのとき落語家が高座からふっと消えて噺の登場人物と化すがごとく教員も姿を消さねばなるまい)。それと同じように、幼児の心を深部から発達させてくれるものは、この一枚の木の葉、自然そのものではないのか。僕は園からの帰り道、そんなことを考えていた。