新連載

【新連載】3回シリーズ(3)

保育者養成雑感(3)

大谷大学 冨岡 量秀

 さて今回2回目となりました。引き続き養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただ
こうと思います。

 さて今回が3回目となり、最後となります。本当に申し訳ありません!なんかまとまりもなく書かせていただいております。最後の「雑感」を書かせていただこうと思います。

 前回は各養成校が抱えているであろう共通の課題として、「ミスマッチの問題」を中心に「雑感」を述べました。今回は、これも多く耳にする言葉ですが「学生の経験不足」という課題です。

 「学生の経験不足」が言われる時、大きく二つの視点があります。それは①「生活経験の不足」と②乳幼児期の「遊び込む経験の不足」です。この経験の不足を考える前に、大前提があるかと思います。それは「今の」学生は、必ず私たち大人の世界で育ち、大人から様々なことを受け継いでいるということです。これは当たり前のことですが、でも忘れていませんか?大人たちは・・・。

 まず①「生活経験の不足」ですが、これは以前から、あるいは昔から、大人から子どもへ、年配者から若者へと指摘され続けてきたことかもしれません。私自身、かつて若者だった時、年配の方から「最近の若い者は・・・」と言われ続けてきました。今は私自身が年配者となってしまいましたが。生活はどんどん便利になり、さまざまな便利グッズも生まれました。家電も進歩しました。例えば、洗濯機の二槽式って、家庭で使われてますか?ほとんどが一槽式・ドラム式ですよね。また雑巾掛けって、家庭でもやっていますか?便利なフローリングワイパーなどが使われていますよね。箒と塵取り使ってお掃除をする経験はどこでできるのでしょうか?学校ですか?しかし学校でのお掃除の時間をとおして、お掃除の仕方を身につけたでしょうか?私自身はそのような実感がありません。これはほんの
一例に過ぎませんが、生活経験の内実は大きく変化し続けているのです。だからと言って、「学生が知らなくて当然だろう!」ということではありません。保育者として「本当に」必要とされる経験とはなにか?どこでその経験不足を補うことが望ましいのか?を様々な段階で関わる大人たちが共有し、社会に送り出す前の具体的な組み立てをするべきだろうと、養成校の課題としても思うわけです。

 また「遊び込む経験の不足」ですが、これは子どもたちというよりも、周りにいる大人たちの価値観に大きく左右されているのではないでしょうか。例えば、近隣との関係で声を出して園庭で遊んではいけないとか、大人の目を気にしながら遊ばなくてはいけない環境の園が都会には多々あると聞きます。そのような環境で遊んだ子どもたちの中に未来の保育者がいるのでしょう。子どもにとって遊びが大事と言いながら、遊べない環境を作り出し続けていく大人たち、この関係性はいつまで続くのでしょうか?このような状況にあって、保育者を目指す学生自身が、自らの興味のあることに取り組んだり、そこで試行錯誤したり、他者と
協働する経験等々を、養成課程の段階において、改めて経験できるような機会を保障していくということも必要な育ちと学びなのだろうと思います。

 この度、「保育者養成雑感」と題して、好き勝手なことを書かせていただきました。本当に申し訳ありません。今回書かせていただいたことを今後も課題として、皆様からもアイディアをいただいたり、様々な機会で連携・協働させていただき、より良い養成を考えていきたいと思います。