新連載

【新連載】3回シリーズ(2)

「白でも黒でもない保育の世界(2)」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回は,日本だけでなく,世界の様々な国や地域で,大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく,そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が起こっていることについて書きました。

 日本の保育で,大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく,「どちらも」が見られる生活経験に,園における行事があります。

 行事は,日本の保育を語る上で欠かせないものです。秋田(2011)は,日本の子育てについて,アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソン諸国とは異なる伝統と文化的信念をもつこと(エスピン・アンデルセン,2000)を挙げ,園のカリキュラムが,読み書きや社会性といったような個人の能力領域をもとにした構成ではなく,園の生活経験の活動領域を柱にし,日々の生活と遊びを基盤に構成されていることを指摘しています。行事は,そのような園の生活経験を考える上で節目のような役割を果たしてきました。

 川田(2019)もまた,日本の保育にとって,行事は本質的な役割をになっていると言います。そして,それは個人個人に何かのスキルや知識が身につくということではなく,もっと集団的な側面を意味するものであることを示唆しています。

 日米の教育現場の調査・研究を続けているキャサリン・ルイス(1995)もまた,アメリカ人の眼からみた日本の小学校や幼稚園での行事について興味深い指摘をしています。アメリカに比べて,日本の初等教育は,知的な発達だけではなく,社会の一メンバーとしての発達を大切にする全人教育であり,そこに行事が重要な役割を果たしているというのです。どういうことでしょうか。例えば,運動会では,足が速い人,力が強い人にスポットライトが当たり,クラス(社会)の一メンバーとして欠かせない人と周囲に認知されます。クラスで出し物をするときは,子どもがそれぞれの経験や個性から生まれる持ち味を出すことで,クラス全体のものができあがっていき,雰囲気ができていきます。それぞれの子どもの持ち味が見えてきたり発見されたりして,それがそのクラス(社会)にとってかけがえのないものになり,同時にその子ども自身にとっても発達の節目を刻んでいくものになることが,社会の一メンバーとしての発達ということの意味なのでしょう。

 このような園行事は,大人主導か子ども主導かの「どちらか」では進めることができないものです。大人がすべて決めて,それを子どもに「やらせる」行事については見直しが進んでいます。意識しなければ,すべて大人が主導して見栄え良く終わらせることができる活動なので,大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり,つくり手になるかを考えていかねばならないものだと思います。とはいえ,どんなに子ども主導で行おうとしても,「子どもの育ちの節目になりそうだから,来週運動会をやります」ということはできないので,時期などは大人が前もって決めて主導する部分も多分にあるのが行事です。何より,子どもたちの日々の生活のなかでの育ちや経験,「この人は今こんな様子だから,こんなことを経験してほしい」,「この人たちとこんなことをやってみよう」という保育者の丁寧なみとりに基づく思いや願いがあり,子どもたちと織り成していくものが行事だと思います。

引用文献
秋田喜代美・佐川早季子(2011)保育の質に関する縦断研究の展望. 東京大学大学院教育学研究科紀要, 51, 217-234.
エスピン= アンデルセン,G. 渡辺雅男・渡辺恵子(訳)(2000)『ポスト工業経済の社会的基礎−市場・福祉国家・家族の政治経済学』櫻井書店
川田学(2019)『保育的発達論のはじまり:個人を尊重しつつ、「つながり」を育むいとなみへ』ひとなる書房
Lewis, Catherine (1995) Educating Hearts and Minds:
Reflections on Japanese Preschool and Elementary
Education, Cambridge University Press.