新連載

【新連載】3回シリーズ(3)

「白でも黒でもない保育の世界(3)園行事から子どもの参加を考える」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回、日本の保育における園行事は、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」で行う生活経験であり、そこで大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり、つくり手になるかを考えていかねばならないのではないか、と述べました。

 ここでの参加とは、いったいどういうことなのでしょうか。子どもが競技や出し物を行えば参加したことになるのでしょうか。園行事にまつわる事例から考えてみたいと思います。

 H ちゃんは、4 歳児のときの運動会で一歩も動きませんでした。前日まで、他の子どもたちと一緒に出し物やかけっこを楽しそうにしていましたが、当日は保護者が大勢見に来ていて、いつもとは違う雰囲気を感じたのでしょう。自分の番になっても一歩も動かず、「Hはやらない、見てる」の一点張りでした。保育者は、励ましたりもしましたが、無理強いはせず、H ちゃんと話をして、その思いを受け止めることにしました。そして、運動会が終わってから、運動会の持ち方に課題がなかったか、H ちゃんにとって運動会がどんなことであったか、行事と日常の保育がつながっていたかを話し合いました。母親によれば、H ちゃんがやらなかったのは「負けたくなかった、でも負けることはわかっていた、それを見られたくなかった」のだということでした。

 それから1年間、保育者は、H ちゃんの「負けたくない」という思いを共に感じ受け止めつつ、「負けるかもしれない、でも」という思いが芽生えるように、のんびりと、でも根気強く関わりました。H ちゃんが頑張っている姿を見つけたら、「頑張っているね」と言うだけでなく、どこまでやろうとしているか、H ちゃんが手応えを感じる瞬間をわかち合えるようにし、手応えが感じられた日には母親・父親ともわかち合いました。

 翌年の5歳児年長になっての運動会までには、保育者が「どんな運動会にしたいか」「運動会でこんなことをしたい」とういことを子どもたちと共有し、互いの気持ちや希望、不満を聴き合う時間を重ねました。5歳児の運動会ではリレーがあり、H ちゃんも出ることになっていました。同じチームの人と作戦を立て、何度も競いあい、負けて悔しくて泣くこともありました。当日、H ちゃんは前走者から1 位でバトンをもらい、走り出しましたが、その次の瞬間、見事に転び、2位、3位だった人たちにあっという間に抜かれていきました。保育者も親も子どもたちも、固唾を飲んでH ちゃんを見守り、1 秒が1 時間にも感じられました。しかし、H ちゃんは、すっくと立ち上がったかと思うと、迷いなく、落ちたバトンを拾い、走り出しました。そして、走りきってから、涙を流しました。別の出し物でもHちゃんは最後までやりきり、その後に満面の笑顔を見せ、クラスの仲間たちのところに戻って行きました。その笑顔は、大人の期待した姿を見せたというよりも、自分の殻を破ろうと挑戦し続けてきたことを誇っているように見えました。

 4歳児、自分のできなさも見えてくるとき、「できないかもしれない」という心の揺れはとても大きいものです。もしかすると、自分の枠や限界を人生で初めて感じているのかもしれません。H ちゃんの「やらない、見てる」という参加の形を受け止めるのは、大人にも勇気のいることです。園行事は、このような節目を顕在化するものでもあります。それをどう考えるかは、園の理念や方針によるでしょうが、園やクラスというコミュニティの中で大きな力をもった保育者が、一つ
の参加の形に子どもの在り様を合わせるのでなく、その子なりの思いと参加の形を受け止め、願いをもって、子どもの心の揺れ動きに丁寧に関わることがなければ、行事は大人主導になりがちではないでしょうか。行事、そして「それまで」と「それから」の日々の中で、その子にとっての節目を刻んでいくには、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」が絡み合う関係性のなかで、白とも黒ともいえないグレーな織物を時間をかけて織っていくということが必要なのだと思います。白黒はっきりさせることを求めがちな、スピード感のある社会に大人も子どもも生きています。だからこそ、このじっくりと織物を織る生活を乳幼児期に生きることが貴重なことだと思います。