【新連載】ハッキリさせられる私 4 回シリーズ(3)
真宗佛光寺派 大行寺住職 英月
こんにちは、英月です。早いもので『共に』でのご縁も3 回目となりました。先月は、時々講演に行っているよ、と申しておりましたが、何をしている人だろう? と、お思いの方もおられるかも知れません。ご挨拶が遅れましたが、こんなことをしていますと少し紹介をさせてください。
実は私、普段は学生をしています。今年の4 月から大学院で真宗学を学んでいて、週に4 日は大学に通っています。余談ですが、20 年ほど前、アメリカでカレッジに行っていましたが、日本の学食はいいですね。見た目もよく美味しいだけでなく、健康にも配慮されていて感動しました。
さて、学生ではありますが、僧侶として講演やカルチャーセンターでの仏教講座の講師なども務めています。『毎日新聞』では映画コラム「英月の極楽シネマ」を連載しています(「ひとシネマ」のサイトでお読みいただけます)。仏教書、エッセーなどの本も5 冊ほど出ていますので、機会があればお手に取っていただけると嬉しいです。と、なんだか宣伝のようになりましたが、時々、テレビやラジオにも出ているので、見たことあるよという方も、おられるかも知れません。
さてさて、これは私がテレビの情報報道番組で、コメンテーターをしていた時の話です。自身がその立場になるまでは、テレビを見ていて「自分が思ったことをしっかり話して欲しいわぁ」と、コメンテーターの方たちに対して思っていました。「歯切れの悪い話し
方はしんといて」と。しかしいざ、自分が出る側となると大違い。私個人として出演するなら、好き勝手に、自分の感情の赴くまま、自分が思ったことを発言すればいいのです。けれども僧侶として出演する以上、仏教の教えを通した視点が必要になります。しかしこれが、思いの他に難しいのです。
たとえば、元気に走り回る子どもたちが、画面に映し出されたとしましょう。キャスターの方に「英月さん、どう思われますか?」と聞かれたとしたら、私はどう答えるのか。「いいですねぇ。元気な子どもたちの姿に、私が元気をもらった気がします!」という、当たり障りのないコメントでさえ、病気のお子さんを抱えた方がご覧になられたら、傷つかれるかも知れない。そう思うと、言葉を発することが恐ろしくなりました。誰も傷つけない言葉などないのだと、知らされた思いがしたからです。と同時に、ハッキリしたことがありました。それは私自身の中に、子どもは元気でないといけない、そうでないと可哀想だとの思い込みがあったということです。確かに不便なことはあるでしょう、けれども決して可哀想な存在ではないのです。
仏教の教えを知るというのは、難しい言葉の意味を知ることでも、偉い人になることでもないのです。仏教の教えによってハッキリするのは、口を開けば誰かを傷つけている私、自分の思いや価値観で勝手に可哀想だと他人を評価している私、他でもない、そんな私自身がハッキリさせられるのです。