子育ては「うまくはがれるように離す事」(1)
Joyit 代表 臨床心理士 井上知子
若いお母さんたちとお話すると、「子どもに自己肯定感を育てるにはどうしたらいいのですか?」という質問を受けることがあります。とても知的なお母さん達が多いのです。おっとっと、いきなり本題ですね、と思うのですが、「で、そのためにどうしておられますか?」と尋ねると、「習い事をして何かできる事を身につけさせて自信を持たせるといいのかな?と思っています」と結構返ってきます。「そうですか。習い事はだいたい3 か月ハネムーンで、やる気満々ですが、そのうちお友達と遊びたいから今日はイヤとか言いませんか?」と尋ねると、「そう、それで嫌がる日があるので困っています。一度習い始めたらチャンとさせたいので、結構バトリ(battle)ます」という答えが多く聞かれます。
つまり嫌がった時に「一度習い始めたものは休んではならない。」という親の理想を子どもは強要されるという事です。これがあまり強く繰り返されると結構親子関係はまずいかも。自己肯定感を育てたいという親の目標は良しと思います。しかしそれを実現する日常のプロセスがあまりに大事にされていないのでは?と危惧することがしばしばです。強要して習い事を全うさせることに多くの保護者は焦点を当てていますが、
それよりも、それに関連して起きる日常的な事柄の処理の、出来る・出来ないではないそのプロセスこそ、自己肯定感を育てるのに関係するのではないかと筆者は考えるからです。そしてもう一つは、保護者の方が、「出来る」という事が自己肯定感につながる、と思っておられるというのは気になるところです。
5 歳児A 君のお母さんのお話。園から連絡があり、「A君がB 子ちゃんを蹴ってB 子ちゃんは泣き、蹴ったところを湿布しましたが、赤くはなっていません。園ではA 君に蹴ってはいけないと注意し、わかってくれたと思います。しかしB 子ちゃんの家に謝罪に行くことを薦めます」との事でした。先生の説明によると、A君が歌を歌っていた、B 子ちゃんが「静かにして」と言った、それでA 君は声を小さくした、それでもB 子ちゃんは「静かにして」と言ったのでさらにA 君は声を小さくして歌った、それでもB 子ちゃんは「うるさいから静かにして」と言ったので腹を立てて蹴った、との事でした。お母さんが聞いても同じ事情でした。その後ご両親でコンコンと「人を蹴ってはいけない」と言い聞かせて、親子3 人でB 子ちゃん宅に謝罪に行ったそうです。ごく普通にあるお話だろうと思います。
しかし…この措置で果たしてA 君についた力は何だろう?と考えると、さて?と思うのです。“悪い時は謝る”というのを学んだでしょうが、こういう事が頻繁に起きると、自分は悪い子という自己イメージが生じ、周囲にも乱暴な子、問題の子、という見方が定着します。
その中でA 君の自己肯定感って、どうやって育つのでしょうか?少なくとも周囲の大人が伝えたものは、そのトラブルが起きたのちの対処法でした。そのトラブルの直前や最中の扱いの力がA 君に付いたわけではないのです。そしてB 子ちゃんにはどういう力が付いたのでしょうか?私たちが子育てする時、この対処で誰にどういう力が付いたのか?そしてそれぞれを尊重できているのか?それを考える必要があるように思います。
言葉と言葉のあいだには…③
平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理
実習指導をしていく中で、「声を掛ける」「声掛けする」「声をかける」「声かけする」「言葉を掛ける」「言葉掛けをする」「言葉をかける」「言
葉かけをする」など、学生のノートを見るとこれだけの言葉の使い方に出会う。
私は「言葉をかける」を使ってほしいと願う。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行の中に「言葉は記憶されないが保存される」という項目に繋がっていると考えるからである。どんな言葉を子どもにかけるのだろうかと思いを馳せることができ、考える空間がうまれてくるような気がする。心の中に保存された言葉からうまれてくる心の空間。これが大切だと感じるのである。
「おほしさまのちいさなおうち」(渡辺鉄太 文、加藤チャコ 絵 瑞雲舎)という絵本がある。田舎の一軒家におかあさんとねこといっしょにすんでいる男の子がいる。いつもつまらないとなげき、猫と遊ぶ毎日…ある日 おかあさんが「たんけんにいってごらん」と提案する。「うちのまえのみちをそのままずっと おかのうえまで いってごらん。よく めをあけ みみをすませたら、きっと とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちは みつかるよ」男の子は猫と一緒におほしさまのおうちを探しにでかけていきました。最初に、女の子に出会い、女の子のお父
さんに出会い、つぎに、おばあさんに出会うのです。「とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちが どこにあるか しってる?」すると おばあさんは「かぜに きいてごらん かぜは あちこち たびをしてまわっているから」と…。かぜに聞いた男の子はかぜに吹かれてりんご畑についた。かぜは男の子のそばにりんごをころがした。男の子はりんごを大切に手の中にいれ、これがお母さんのいっていた「とびらもない、まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうち」だと気づき、来た道をいそいでもどった。「これが とびらもない、
まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちかな?」とおかあさんに手渡すと、さっそくおかあさんは輪切りにする。「おほしさまがいた!」
「ろうそくよりも もっとあかるくひかる おほしさまがすんでいる」と男の子が驚いたように、子どもの心の世界もこの絵本と同じだと感
じた。
おかあさんから素敵な言葉をかけてもらった男の子のように、大好きな先生に言葉をかけてもらった子どもは、その言葉が保存され、安心し、広い世界を探検し、そして人や物や時間や空間と出会う。さらに「語彙が拡大」していくことで新たな探検が始まっていく。
子どもに素敵な言葉をかけること…わくわくしますね。
言葉と言葉のあいだには…②
平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理
『あそぼうよ』(五味太郎作 偕成社)という絵本がある。「あそぼうよ」と誘う〔とり〕がいて、「あそばない」という〔きりん〕がいる。その〔とり〕と〔きりん〕のかけあいの絵本である。〔とり〕が「あそぼうよ」と誘いかけると、〔きりん〕は長い首を曲げたり隠したりしながら「あそばない」という。最後のページになっても〔とり〕が「あそぼうよ」というと、〔きりん〕は最後まで「あそばない」と答える。「あした またあそぼうよ」と、〔とり〕がいうと「あした また あそばない」と〔きりん〕が答える。
〔きりん〕はとんでいってしまう〔とり〕をずっと眺めているが、裏表紙ではなんと〔とり〕と〔きりん〕が一緒にあそんでいる場面になる。
子どもは〔とり〕と〔きりん〕のあそんでいる姿を見て、何をしてあそんでいるのかと思いをめぐらせている。
この絵本をある学生が読み聞かせをした。「あそぼうよ」とゆったりと読んではいたが、「あそばない」のところでは「けんかしているの?」と思わず叫ん
でしまうくらいきつかった。「だってあそばないって…かいてあるし…」と学生は言う。喧嘩しているお話ではない。
子どもは「あそぼうよ」と言葉をかけられると、すっとあそびに入る子どももいれば「あそばない」と口走ってしまう子ども、その場からすっとどこかに行ってしまう子ども。そうかと思えば「あそばない」といいながらしっかりあそぶ子ども。子どもの言葉と子どもの行動の関係性は微妙で深遠さをもっているのである。
上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 (昭和28 年発行)をひらいてみることにする。そこには、「お話は深い人生を味わわせる」という項目があり、次のように書かれている。「お話には、必ず目的があります。別な言葉でいえば、作者の理想が含まれています。それはお話の表には少しもあらわれません。それについては、一言もいわれません。けれども、ことばの裏、筋の裏に、ぴったりくっついて、はじめからおわりまで、ついてま
わっています…」とある。子どもと言葉をつないでいくにはややこしさがある。しかし、一瞬のうちに子どもと言葉がつながることもある。
『コッコさんのともだち』(片山健 作・絵 福音館書店)という絵本の中に「コッコさんは ほいくえんで ひとりぼっち。なかなか みんなと あそ
べません。…でも ごらんなさい コッコさん…アミちゃんもひとりぼっち。… でも ちょっと みた ふくのいろ、 おんなじ おんなじ すると だんだん うれしくなって うんと うんと うれしくなりました。それから ふたりは いつでも いっしょ…」とある。子どもはまわりにいる子どもに単純に「おなじ」をさがし、「おんなじ おんなじ」という言葉から一瞬のうちに行動がうまれる。いいかえれば、子どもは微妙と深遠さという複雑な世界と、一足飛びに関係がつながる魔法の言葉「おんなじ おんなじ」も兼ね備えている。やっぱり子どもの世界はおもしろい…。
言葉と言葉のあいだには…①
平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理
子どもたちに私の大好きなお話を語る時がある。それは「あくびがでるほどおもしろいはなし」松岡享子作、おはなしのろうそく5(東京子ども図書館出版社)である。「ここから北へ北へとすすんでいったある南の国に、たいへんかしこい、ばかな男がすんでいた。ある朝、夜が明けて、あたりが暗くなったので、男は目をさました。外はすばらしくよいお天気で、雨がザアザアふっていた。そこで、男は、『よし、きょうは山へ魚釣りに出かけよう』と考えてよく手入れのいきとどいた、さびたてっぽうをもって、うちを出た。なだらかな、けわしい山道を、どんどんのぼっておりていくと、まもなく木の一本もない森へ出た。そこで、男がはえていない木にのぼって、すなはまにこしをおろしてまっていると、やがて、見たこともないような、あたりまえの魚が、なみをけたてて、のろのろとおよいできた。男はすかさずてっぽをかまえて、ドーンと一ぱつぶっぱなした。たまはねらいたがわず見ごとにそれて、魚はバッタリ生きか
えった。男は、『ちきしょう、うまくやったぞ!』とさけんで、魚をひっつかみ、大いそぎでゆっくりと走ってうちに帰った。男がそれをりょうりして食ってみたところが、なんとほっぺたがおっこちるくらいまずかった。そこで、男は、魚をみんなにわけてひとりじめにし、ほねと身と皮をのこしてすっかりたいらげてしまった。あんまりはらいっぱい食べたので、おなかがぺこぺこになったそうな。」
このお話を語ると子どもたちはざわざわし始める。そしておもむろにあちこちで笑いが増えていき、やがて笑いの渦ができる。小学生の子どもはそのお話をおぼえたいと必死に書きだそうとする。子どもは素直におもしろいという反応をしめすのである。一方、女子大学生の授業では雰囲気が一変する。このお話を語りだした途端に教室がシーンとする。挙句の果てにある学生は睨みつけるような眼で語り手を凝視する。ある学生は、お話が終わるや否や質問。「先生、どっちを信用したらいいのですか?」と。また感想文の多くは何を言っているのか理解できなかったと。
学生の中にはこのお話のような矛盾する言葉の世界で遊んだり、矛盾する言葉の世界で楽しんだりする場所や時間、いわゆる「心の空間」がなく
なってきている感じがする。
古い書物を手にした。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行である。ページをめくると、はしがきの冒頭の言葉に見入った。「幼児ばなしの世界は混乱している」や、「発達段階に即した話をしていかなくてはならない」とある。また目次をみても今に通じると感じた。「なぜ話すのか」という項目の中には、「人生における最初の経験」・「見えないものを見せる」・「深い人生を味わわせる」・「言葉は記憶されないが保存される」とあった。とくに「言葉は記憶されないが保存される」という言葉が心にのこった。これからを生きていくこどもひとりひとりの心の中に保存されていくような素敵な言葉を伝えているのか、伝えられているのか、言葉の世界で遊ぶという「心の空間」が存在しているのか私自身も考えていきたい。
「何にでも向くこと」
池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子
子どもたちは日々、からだも心もひとつのものとなって表現しながら遊ぶことを楽しんでいる。遊びの中には表現の萌芽がたくさんちりばめられている。時には、無自覚な表出でさえ、保育者をはじめとした大人やお友達とのゆるやかなかかわりの中で志向性を持ち、その子らしさや思いを伴った表現へとなっていく。
表現は、「言葉、音楽、造形、身体」という四つの手段で、内側から外側へと「あらわす」活動とされる。近年の社会が変化する中で、これらの行為を使って何かを「あらわす」力がより重視されているように感じる。この先の人生をより多くの人たちと関わりあいながら生きていくための一つの資質としてとらえられてもいる。だからこそ、大人に子どもに、表現力が重視され、表現を高め、発信することが求められる。
子どもたちにとって表現とは、まず感じたものを受け止めて捉え、認める、というところから始まる活動である。つまり伝える力を育むことよりも、楽しみ、取り組んだ心の動きが言葉や動きとして表れ、造形や絵となる経験が始まりとなり、その過程を共に楽しみ、受け止められることから表現の楽しみを知ることが大切なのである。それは遊びを通し、自己内の対話を充実させるような活動である。自らの感性を育むことである。そのことをもとに自己を表現できるようになり、他者と対話し、仲間と対話しながら協働し、表現する
力が生まれる。
このような過程に大人はどうかかわっていくのか。以前に教員免許更新講習の講師をさせていただいた時、表現遊びの指導は正解がなく、技術が必要なので難しいとおっしゃられた先生がいた。きっとそうなのだろうと思う。正解がなく、たくさんの方策がある中で子どもたちの興味に合うことは何かと考え、時に子どもの葛藤やぶつかり合いに保育者自身も悩む、そんな時間と試行錯誤を楽しみながら子どもの表現に向き合っていくことにこそ醍醐味がある。保育者自身が発信優位になりすぎず、子ども達の今見つめて感じていることに共感しつつ、評価を押し付けない姿勢であること。できるできない、良い悪いをこえた自己肯定
感を育むことが求められている。
「大らかで柔らかい笑顔の人の親もまた、大らかで優しいもんやろ?」これは家ではただの親でいいということをうまく体現できなくなっていた私に、息子が投げかけた言葉だ。大人は時として分からなさに目をふさがれ、そこに見えている正解らしいものに固執し、向き合うことが難しくなってしまう。先を急ぎすぎずに、子どもたちそのままの表現を大人が包み込み、大らかに柔らかに大人が向き合うとき、自然と表現の中の子どものイメージや心の動きが浮かび上がってくる。このような瞬間、わかり合う喜びに溢れ、学びと教育とが一つに交わり、保育の中で「表現」することの喜びが味わえるのではないだろうか。
「何にでも向くこと」
池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子
私は、40 年後50 年後に社会を支えるそんな子どもたちの今を育てる先生になる人と日々学び、接しているのだと思っています。そしてそんな先生の卵を、本当の意味で「子どもって楽しいでしょ」「子どもとともにって感動がたくさんあるよ」「先生の仕事はこんなに面白いんだよ」と実感できるように導き、殻を破る場をくださるのは、彼らが現場で出会う先生方と子ども達なのだとも強く感じます。卒業生と久方ぶりに会うと、ひとり一人が学生時代とは異なる深い視点を持ち、目の色を輝かせて子どものことを思い、真心で保育のこと考え、意志をもって悩みを語る姿に感動します。
時には、先輩である諸先生方ともぶつかりながらも子どもとの関わりを模索している姿は胸を打つものがあります。その人の感性に影響し、みずみずしくそれだけの変化を引き起こした、保育教育現場の時間の流れや、現実の関わりの眩しさに、自分自身が養成校の亡霊のように思えてきます。おそらくそんな風に感じるのは、私には学生時代の彼らの姿が強く印象に残っているからです。
身体表現と幼児体育という授業を担当する関係上、私は学生の咄嗟の表情や動き、思いの表出に直に触れ、学生自身が気づいてもないような内面を目にしたように思うことがあります。そこには不安や、引け目、悩みのようなものが含まれていることも少なくありませんが、素直な学生の姿であり、ありのままに愛おしいものです。ただ、良くも悪くも学生のありのままが息苦しく、もどかしいように感じることが、近年増えたようにも思います。リアルな生活経験が足りない姿。選び取れない、自信がない、迷い続け人とつながり合えない姿。自分のことだけで精一杯になり相手のことを思いやれない姿。「学生の弱さ」とか、「社会がそうさせる」としか説明ができないときもあります。感性を豊かに表現することの楽しみを知りながら幼少期を過ごしたはずの子どもたちが大人になるにつけ、傷つき、頑なに自分を守ろうとしている。その人本来の伸びやかな自我はどこにあるのだろうか。
そんな時に最近思いを寄せるのは、先生という仕事の可能性です。幼児教育と養成教育は、対象者の主体性を大切にするという意味で常に響き合っていると感じます。子どもが一様でないように、多様性を持った専門職として、幼児教育・保育の先生はジェネラリストに近い存在でもある。その中で発揮される一人ひとりの先生の力が、子どもを支えていくために何より貴重なのだと思います。「子どもが好き」のその一念を職業として全うしていけるように、学生のありのままの保育に対して向けている思いを、保育に根差す価値観と知識へと導く。そんな養成教育が、実は人生や社会のすべてが詰まっている幼児教育・保育の中で、何者にでもなれるような先生を育てることができるのではないでしょうか。
先生は向いていなければなれないのでなく、「何にでも向くことができる」ことが先生の仕事のなかにはたくさんあるという理解が、専門領域で区切られている養成教員の中に何より必要なのではないか。養成課程では己の得手不得手と向き合いながら感性を磨き、先生として自分が向くものを見つけられるようにする。
養成教員は単に学生の先生としての向き不向きを量るのではなく、その人の向くところを先生としていかに発揮していくのかを導く存在でもありたい。不安定な社会の中で育つのは学生自身の課題でも、先生として育ち上がるためのヒントを工夫して提示できるように、私たちは学生自身の自分の向くところに対する育ちを深める存在になっているのだろうか。
卒業目前、先生に向いてなければならないと思い悩む学生は後を絶ちません。就職と卒業をめぐる学生との面談、そして教員間のやり取り、現場の先生との対話がこの文章となりました。気が付けば養成校教員としての雑感がすっかり強くなってしまいました。次回は子どもと表現にかかわることを中心に語りたいと思います。
「白でも黒でもない保育の世界(3)園行事から子どもの参加を考える」
京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子
前回、日本の保育における園行事は、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」で行う生活経験であり、そこで大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり、つくり手になるかを考えていかねばならないのではないか、と述べました。
ここでの参加とは、いったいどういうことなのでしょうか。子どもが競技や出し物を行えば参加したことになるのでしょうか。園行事にまつわる事例から考えてみたいと思います。
H ちゃんは、4 歳児のときの運動会で一歩も動きませんでした。前日まで、他の子どもたちと一緒に出し物やかけっこを楽しそうにしていましたが、当日は保護者が大勢見に来ていて、いつもとは違う雰囲気を感じたのでしょう。自分の番になっても一歩も動かず、「Hはやらない、見てる」の一点張りでした。保育者は、励ましたりもしましたが、無理強いはせず、H ちゃんと話をして、その思いを受け止めることにしました。そして、運動会が終わってから、運動会の持ち方に課題がなかったか、H ちゃんにとって運動会がどんなことであったか、行事と日常の保育がつながっていたかを話し合いました。母親によれば、H ちゃんがやらなかったのは「負けたくなかった、でも負けることはわかっていた、それを見られたくなかった」のだということでした。
それから1年間、保育者は、H ちゃんの「負けたくない」という思いを共に感じ受け止めつつ、「負けるかもしれない、でも」という思いが芽生えるように、のんびりと、でも根気強く関わりました。H ちゃんが頑張っている姿を見つけたら、「頑張っているね」と言うだけでなく、どこまでやろうとしているか、H ちゃんが手応えを感じる瞬間をわかち合えるようにし、手応えが感じられた日には母親・父親ともわかち合いました。
翌年の5歳児年長になっての運動会までには、保育者が「どんな運動会にしたいか」「運動会でこんなことをしたい」とういことを子どもたちと共有し、互いの気持ちや希望、不満を聴き合う時間を重ねました。5歳児の運動会ではリレーがあり、H ちゃんも出ることになっていました。同じチームの人と作戦を立て、何度も競いあい、負けて悔しくて泣くこともありました。当日、H ちゃんは前走者から1 位でバトンをもらい、走り出しましたが、その次の瞬間、見事に転び、2位、3位だった人たちにあっという間に抜かれていきました。保育者も親も子どもたちも、固唾を飲んでH ちゃんを見守り、1 秒が1 時間にも感じられました。しかし、H ちゃんは、すっくと立ち上がったかと思うと、迷いなく、落ちたバトンを拾い、走り出しました。そして、走りきってから、涙を流しました。別の出し物でもHちゃんは最後までやりきり、その後に満面の笑顔を見せ、クラスの仲間たちのところに戻って行きました。その笑顔は、大人の期待した姿を見せたというよりも、自分の殻を破ろうと挑戦し続けてきたことを誇っているように見えました。
4歳児、自分のできなさも見えてくるとき、「できないかもしれない」という心の揺れはとても大きいものです。もしかすると、自分の枠や限界を人生で初めて感じているのかもしれません。H ちゃんの「やらない、見てる」という参加の形を受け止めるのは、大人にも勇気のいることです。園行事は、このような節目を顕在化するものでもあります。それをどう考えるかは、園の理念や方針によるでしょうが、園やクラスというコミュニティの中で大きな力をもった保育者が、一つ
の参加の形に子どもの在り様を合わせるのでなく、その子なりの思いと参加の形を受け止め、願いをもって、子どもの心の揺れ動きに丁寧に関わることがなければ、行事は大人主導になりがちではないでしょうか。行事、そして「それまで」と「それから」の日々の中で、その子にとっての節目を刻んでいくには、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」が絡み合う関係性のなかで、白とも黒ともいえないグレーな織物を時間をかけて織っていくということが必要なのだと思います。白黒はっきりさせることを求めがちな、スピード感のある社会に大人も子どもも生きています。だからこそ、このじっくりと織物を織る生活を乳幼児期に生きることが貴重なことだと思います。
「白でも黒でもない保育の世界(2)」
京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子
前回は,日本だけでなく,世界の様々な国や地域で,大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく,そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が起こっていることについて書きました。
日本の保育で,大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく,「どちらも」が見られる生活経験に,園における行事があります。
行事は,日本の保育を語る上で欠かせないものです。秋田(2011)は,日本の子育てについて,アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソン諸国とは異なる伝統と文化的信念をもつこと(エスピン・アンデルセン,2000)を挙げ,園のカリキュラムが,読み書きや社会性といったような個人の能力領域をもとにした構成ではなく,園の生活経験の活動領域を柱にし,日々の生活と遊びを基盤に構成されていることを指摘しています。行事は,そのような園の生活経験を考える上で節目のような役割を果たしてきました。
川田(2019)もまた,日本の保育にとって,行事は本質的な役割をになっていると言います。そして,それは個人個人に何かのスキルや知識が身につくということではなく,もっと集団的な側面を意味するものであることを示唆しています。
日米の教育現場の調査・研究を続けているキャサリン・ルイス(1995)もまた,アメリカ人の眼からみた日本の小学校や幼稚園での行事について興味深い指摘をしています。アメリカに比べて,日本の初等教育は,知的な発達だけではなく,社会の一メンバーとしての発達を大切にする全人教育であり,そこに行事が重要な役割を果たしているというのです。どういうことでしょうか。例えば,運動会では,足が速い人,力が強い人にスポットライトが当たり,クラス(社会)の一メンバーとして欠かせない人と周囲に認知されます。クラスで出し物をするときは,子どもがそれぞれの経験や個性から生まれる持ち味を出すことで,クラス全体のものができあがっていき,雰囲気ができていきます。それぞれの子どもの持ち味が見えてきたり発見されたりして,それがそのクラス(社会)にとってかけがえのないものになり,同時にその子ども自身にとっても発達の節目を刻んでいくものになることが,社会の一メンバーとしての発達ということの意味なのでしょう。
このような園行事は,大人主導か子ども主導かの「どちらか」では進めることができないものです。大人がすべて決めて,それを子どもに「やらせる」行事については見直しが進んでいます。意識しなければ,すべて大人が主導して見栄え良く終わらせることができる活動なので,大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり,つくり手になるかを考えていかねばならないものだと思います。とはいえ,どんなに子ども主導で行おうとしても,「子どもの育ちの節目になりそうだから,来週運動会をやります」ということはできないので,時期などは大人が前もって決めて主導する部分も多分にあるのが行事です。何より,子どもたちの日々の生活のなかでの育ちや経験,「この人は今こんな様子だから,こんなことを経験してほしい」,「この人たちとこんなことをやってみよう」という保育者の丁寧なみとりに基づく思いや願いがあり,子どもたちと織り成していくものが行事だと思います。
引用文献
秋田喜代美・佐川早季子(2011)保育の質に関する縦断研究の展望. 東京大学大学院教育学研究科紀要, 51, 217-234.
エスピン= アンデルセン,G. 渡辺雅男・渡辺恵子(訳)(2000)『ポスト工業経済の社会的基礎−市場・福祉国家・家族の政治経済学』櫻井書店
川田学(2019)『保育的発達論のはじまり:個人を尊重しつつ、「つながり」を育むいとなみへ』ひとなる書房
Lewis, Catherine (1995) Educating Hearts and Minds:
Reflections on Japanese Preschool and Elementary
Education, Cambridge University Press.
「白でも黒でもない保育の世界(1)」
京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子
「なんでも見守るべきなんでしょうか。見守ってばかりだと、遊びがバラバラで続かなくて…」
「でも保育者の思いが、子どもの自由な思いを囲い込んでいるような気もして…」
保育を実践されている先生方がふとした瞬間にこぼす悩みやためらいに、こういう声が聞かれます。体を丸ごと投げ出して、子どもと同じ時を生きている先生方の葛藤する声として、なぜこのような悩みやためらいが出てくるのかを考えました。
幼稚園教育要領や保育所保育指針の変遷を見る限り、現在は、大人主導の一斉保育型の活動ではなく、子ども主導・遊び中心の保育を目指している園が多いと言っていいでしょう。子ども主導・遊び中心の保育をシロだとするならば、大人主導の一斉保育型の保育はクロとでもいうような二項対立の図式が、この二つの保育方法(保育形態)を指す物言いには含まれているようにも感じます。シロかクロかの世界は、わかりやすいものであり、人はわかりやすいものに惹かれるものでもあるようです。
2019 年12 月、イギリスの乳幼児教育研究センター(CREC)のホームページに、保育研究者であるクリス・パスカルとトニー・バートラムの対話が掲載されまし
た。その対話は、「ハイブリッドな保育方法」(Hybridpedagogy)をめぐるものでした。
「ハイブリッドな保育方法」とは何でしょうか。ハイブリッドカーが、電気とガソリンという二つの動力源を組み合わせて走る自動車であるように、ハイブリッド
な保育方法とは、異質に見える保育方法を組み合わせて行う保育と言えそうです。
なぜ、今、「ハイブリッド」という言葉を使うのでしょうか、また、異質に見える保育方法とは何を指すのでしょうか。2 人の保育研究者の対話では、次のように
語られています。
子ども主導・遊び中心の保育と大人主導の保育には緊張関係があり、この二つの保育のあいだで「バランスの取れた保育方法」がよさそうだということについては根拠があります。でも、私たちの調査では、「バランス」というよりも「融合」「ブレンド」の方がしっくりくるということがわかりました。
バランスというと、保育者が子どもたちに、大人主導の活動と子ども主導・遊び中心の活動を別々に提供しているように思えてしまいます。でも「ハイブリッドな保育方法」は、二つの保育方法が切れ目なく融合され、一つの活動のなかに入っているようなことを指しています。とは言っても、このときの大人主導の保育方法というのは、大人が強要したり強制したりするものではありません。
この対話からは、大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく、そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が、日本に限らず、他の国でも起こっていることなのだということを確認できます。
引用文献
Pascal,C. , Bertram, C. & Fisher, J. (2019)“ Considering the value of a ‘Hybrid pedagogy’ for the EYFS: Chris Pascal and Tony Bertram in dialogue with Julie Fisher.”
CREC Homepage
http://www.crec.co.uk/announcements/considering-valuehybrid-
pedagogy-eyfs?fbclid=IwAR2AAeT578nNJp9t_faapi
Q9CW8DKD_5qWYy9DLgvYbncYZmY1omRw2WJ8k
(2020 年10 月30 日閲覧)
「大好きな歌」
佛教大学 教育学部 講師 臼井 奈緒
人それぞれ、自分にとって“特別な歌”や“大好きな歌”というものがあるでしょう。私は長年歌うことを専門的に学び、学んだことを今、教員として還元している最中ですが、今回はその中で私にとって特別な一曲をご紹介したいと思います。職業柄、おそらく普通の人より多くの曲を知っている方だとは思うのですが、この曲を私に教えてくれたのは教え子のたみちゃんでした。たみちゃんは卒業間近のお別れが迫った最後の授業で「先生、これ私の大好きな歌やねん。先生、歌って!」と私に楽譜をくれたのです。その歌は「先生」という歌でした。
たった8 小節のささやかな歌なのですが、歌い始めた途端、胸が熱くなり、涙が溢れそうになりました。
それから何度もこの歌を歌ってきましたが、歌う度にこみあげる涙をこらえるのが大変なのです。作詞・作曲をされたのは、保育・教育の世界ではとても有名な“ゆずりん”こと、中山譲さんです。8 番までの歌詞に「先生」という仕事の尊さや指標が凝縮されています。ここで歌詞をご紹介させていただこうと思います。
1:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どものことを好きでなければ先生にはなれない
2:いつも ニコニコしてるだけではだめだけど 心を許し 笑えなければ 先生にはなれない
3:情熱ひとすじ 向かうだけではだめだけど きらめく情熱 持てなければ 先生にはなれない
4:思った事を 話すだけではだめだけど 思いを言葉にできなければ 先生にはなれない
5:子どものそばを 歩くだけではだめだけど よりそい共に歩けなければ 先生にはなれない
6:子どもを守り かばうだけではだめだけど 子どもの生命 守れなければ 先生にはなれない
7:信じた道を 進むのはつらいことでも 仲間と夢を信じなければ 先生にはなれない
8:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どもを愛するあなただから 先生と呼びたい
本来、私が歌を教える立場なのですが、この「先生」は私にとって、子どもが教えてくれた宝物の歌です。
この歌はその内容的に、子どもが歌うと何だか不思議な感じがするので、歌うシチュエーションは若干限られているかもしれませんが、私はこれから先生を志す学生たちや、現場で奮闘している現職の先生たちに向けて、そして無事に教職人生を終えられた同僚の先生のご退職の機に、心を込めてこの歌を幾度となく歌わせていただきました。
自分自身が先生になって、子どもが教え、気づかせてくれることの方がずっと多くて豊かであるということを感じる日々です。私には残念ながらこんな素晴らしい歌を作る才能はありませんが、数ある歌の中から子どもたちの豊かな心を耕す歌を選びとり、心を込めて歌い、伝えていくことが私の使命だと感じています。素敵な歌をもっと素晴らしく、子どもが初めての歌との出会いに心を踊らせるような歌の伝え方を追求したいと日々奮闘しています。
そして子どもたちが、これからの山あり谷ありの人生をたくさんの歌で彩り、歌とともにいろんな苦難も乗り越え、力強く成長していってほしいと願っています。そんな子どもたちを全力で支える「先生」でありたい。