新連載

【新連載】3回シリーズ(2)

保育者養成雑感(2)

大谷大学 冨岡 量秀

 さて今回2回目となりました。引き続き養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただ
こうと思います。

 前回、養成校の養成の高度化と出口(就職)のニーズの中、保育者養成校へ進学してくる学生の多くは、モチベーションの程度は様々ではあるが、「子どもが好き」や「先生への憧れ」などから、幼稚園教諭免許・保育士資格の取得を目指して進学してきています。しかし現在、養成校には、多様な課題を抱える学生が多く進学してきているのも事実ですし、養成の難しさも各校が実感していることですと書きました。その中で、各養成校が抱えている共通の問題として「ミスマッチの問題」があると思います。

 養成課程では、ほんとうに多くのことが求められていますし、カリキュラムも過密を極めています。幼稚園教諭免許のカリキュラムと保育士資格のカリキュラム、それに加えて各校の独自性を出すようなカリキュラムが加わります。この各校の独自性を出すものが、いわゆる各校の「売り」に繋がっていくと思います。これらを特に短期大学部では2年間で学生に取り組ませるわけですから、入学から卒業まで休むことなく「走れ!」とばかりに取り組ませていくわけです。このプロセスを走りきる原動力は「子どもが好き」や「先生になりたい」という熱い思いでしょう。しかしそれだけでは難しいのです。それは実際の現場も同じことだと思います。養成校でいえば、過密なカリキュラムですから、どうしても1時間目からの授業が多く組まれることになります。そして半期15 回の授業実施は必須であり、実習などで授業ができない場合は、土日に補講を設定されることが多くなります。また遅刻欠席を厳しくしている養成校がほとんどかと思います。さらに各科目(演習や実技系も多い)からの課題も多く出されます。つまり基本的な学習(修)習慣と基本的な生活習慣が身についていなければ、学生自身が「しんどい」のです。特に基本的な生活習慣は大切かと思います。実習もありますし、卒業後、先生というお仕事をする上で基本的なことだ思います。

 またコミュニケーション力も重要です。多くの受験生は面接などで「コミュニケーション力」があると自己アピールしますが、その多くは明るさ、ハキハキしているなどの一般的なコミュニケーション力です。しかし保育者の専門性としてのコミュニケーション力は、チームとしてお仕事をするうえでのコミュニケーション力であり、保護者の話に傾聴し、寄り添い、そして共に歩んでい行くという質のコミュニケーション力が求められているかと思います。つまり「大人」になることが求められる訳です。そのような意味で、私は保育者養成の学科やコースの学生は他の分野の学生より、社会人として、そして大人として素敵に育っていると思います。ちょっと贔屓目ですが。

 というか、それくらいの思いで、どの養成校も学生を育てていると思うのです。だからこそ途中で諦めたり、しんどくなって来れなくなってしまうことにつながるミスマッチを本当に減らしたいと思っているのです。このようなミスマッチを少なくするためにも、各高校ともっと連携し、保育者の専門性への理解を共有する努力を今後もし続けなければならないと考えています。

【新連載】3回シリーズ(1)

保育者養成雑感(1)

大谷大学 冨岡 量秀

  今回、3回シリーズの連載を書かせていただく機会をいただきました。私のシリーズでは、養成に携わって感じていることを「雑感」として書かせていただこうと思います。まずは養成を取り巻く状況について、ちょっと考えてみます。

 現在、保育者の養成校には、より実践的な専門的知識と技能を兼ね備えた「高度専門職」としての養成機能が求められていると思います。そして、そのニーズは今後ますます高まっていくのでしょうね。と同時に、国の待機児童対策もあって、都市部を中心に保育所の新設が長年続き、厚生労働省によれば2018年度11月の有効求人倍率は3.20 倍(全国で最も高い東京都では6.44 倍)といった状況であり、保育者の確保が喫緊の課題となっています。このような状況から、とりあえず必要とする保育者の数を確保することに各園が必死にならざるを得ない現状があると思います。

 以上のような養成校の養成の高度化と出口(就職)のニーズの中、保育者養成校へ進学してくる学生の多くは、モチベーションの程度は様々ではあるが、「子どもが好き」や「先生への憧れ」などから、幼稚園教諭免許・保育士資格の取得を目指して進学してきています。しかし現在、養成校には、多様な課題を抱える学生が多く進学してきているのも事実ですし、養成の難しさも各校が実感していることです。

 養成校の養成内容・方法の課題、そして学生自身の課題などなど、確かにあるのです。と同時に、私が個人的に感じることは、学んでる学生に対して「これだけのことをよくやってくれるなぁ」「すごいなぁ」です。もちろん現場の素敵な先生方にお会いした時には、「うちの学生もいつかはこんな先生になれるのかなぁ」、そしてやっぱり「すごいなぁ」と感じるのです。

【新連載】3回シリーズ(3)

第三回: 鬼あそび「あぶくたった」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 1 月から始まったシリーズ「幼児の生活に息づくわらべうた」も、今回が最終回となりました。今回は、私自身も幼い頃に遊んだ「あぶくたった」の魅力についてとりあげてみたいと思います。

 11 月の終わり頃、3 歳児の保育室の前を通りかかると、何やら懐かしい歌が耳にとびこんできたので、思わず足をとめて中をのぞいてみました。すると、子どもたちが担任教師と輪になって「あぶくたったにえたった、にえたどうだかたべてみよ…」と唱えながら遊びが始まったところでした。輪の真ん中には、鬼役の4 〜5 人の子どもが副担
任を中心にぎゅっと小さく固まってしゃがんでいます。「むしゃむしゃむしゃ」になると、外側を歩いていた子どもたちが円の中央に寄ってきて鬼役の子どもたちの身体や頭を「むしゃむしゃむしゃ」と突っついて食べる真似をします。この動作が3歳児にはたまらなく楽しいのか、「むしゃむしゃ…」が通常より長引いてしまいますが、担任は焦ることなく、子どもたちの気のすむまで「むしゃむしゃ…」を楽しんでいました。

 そしていよいよ、「もうにえた」を合図に鬼役がままごとコーナーに移動し、保育者のリードで「鍵をしめて、ガチャガチャガチャ」「ご飯をたべて、むしゃむしゃむしゃ」「お風呂に入って、ゴシゴシゴシ」…「お布団入ってね〜ましょ」と、受け入れ準備が整いました。続いて「トントントン」「何の音?」「風のおと」「あ〜よかった」「トントントン」
「何の音?」「おなべの音」「あ〜よかった」…と繰り返すうち、待ちきれなくなった子どもたちから「何の音?」に続いて、「お化けの音」の声がとび出し、キャーっといって、追いかけっこが始まりました。

 この遊びは、鬼遊びが始まる「お化けの音」に至るまでに、非常に長い劇的なやりとりがあります。特に最後の「トントントン」「何の音?」の部分では、「お化け」以外にも「恐竜の音」「狼の音」など、子どもたちの中からいろいろな発言が飛び出しました。このように、心地よいリズムにのって仲間と息を合わせながら、動いたり、イメージを膨らませたり、ことばのやりとりを楽しんだりする面白さがこの遊びの中には凝縮されています。

 この日から2 週間後、「おもちつき」の日に、園庭に設置したかまどで餅米を蒸していると、3歳児のA子が寄ってきて「あぶくたった、にえたった〜」を口ずさみはじめ、瞬く間に周りの子どもたちの大合唱になりました。幼稚園で経験したわらべうたが、これからもずっと子どもたちの心や身体の中に息づいていってほしいと願います。

【新連載】3 回シリーズ(2)

第二回: 鬼あそび「だるまさんがころんだ」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 前回は、鬼決めうた「いろはにほへと」を取り上げ、子ども同士の間でことばを唱えることが、仲間意識を高め、遊びへの導入に大きな役割を果たしている事例を紹介させていただきました。今回は、同じく「ことばを唱える」遊びの中で「だるまさんがころんだ」を取り上げ、この遊びのどんな点が子どもたちをひきつけているのか探ってみたいと思います。

 2 月のある日、園庭での遊びが一段落し、片付けがたちに誘いかけました。すると、「わーい、するする…」
と子どもたちは大喜びで集まってきました。ちなみに「だるまさんがころんだ」は、クラスで何回か遊んだ経験があり、子どもたちの間ではお馴染みです。この日は、従来の「だるまさんがころんだ」の変形バージョン(「お部屋までもどる」バージョン)だったため、鬼役が徐々に部屋に近づきながら(本来は鬼が定位置)「だるまさんがころんだ」を唱え、子どもたちをお部屋まで導く、というシンプルな遊び方でしたが、4 歳児にとってはわくわく感満載の遊びとなっていたようです。

 まず遊びのはじめに、子どもたちは「は~・じ~・め~・の~・だい・いっ・ぽ」のかけ声で大きく1 歩、ジャンプで前進します。続いて、鬼役の教師が少し離れた場所で後ろ向きになり、「だーるまさんが…」と唱えはじめると、子どもたちはそれぞれ好きな速さで前進し、「こーろんだ」でピタッと止まります。一瞬、その場に漂う緊張感…。「だ」で振り返った鬼に「あっ、〇〇ちゃん動いた」と指摘され、スタート地点に戻されないよう(この日のルール)、みんな真剣です。中には、むしろその緊張感を楽しんでいるかのようにくすくす笑いながら滑稽なポーズで立ち止まる子どもの姿も見られます。このようにして、何回か「だーるまさんが・こーろんだ」を繰り返しながら、子どもたちは楽しくお部屋に入っていきました。鬼が、時折わざと「だーるまさんが…」をゆっくり、「ころんだ」を早口で…、などとフェイントをかけると、更に遊びの面白さが盛り上がります。

 このように「だるまさんがころんだ」という短いフレーズの中で、鬼と心理的に駆け引きしながら距離感を図ったり(空間認知)、素早く移動してぴたっと止まったり(緊張と弛緩)、鬼に見つからないようなテンポで歩いたりするなど、子どもたちは頭や心や身体のいろいろな感覚を総動員して遊んでいることが分かります。「だるまさんがころんだ」が子どもたちをひきつける魅力は、こんなところにあるのではないでしょうか。

【新連載】3回シリーズ(1)

第一回 : 鬼決めうた「いろはにほへと」

京都教育大学附属幼稚園長 平井恭子

 今回から 3 回シリーズで「幼児の生活に息づく わらべうた」というテーマで、お話したいと思い ます。私は十数年前から現在勤務している大学で 将来保育者をめざす学生たちに「音楽表現」の指 導をしてきましたが、その傍ら昨年の春からは、 大学の附属幼稚園で園長を兼務することとなり、 3 歳から 5 歳までの子どもたちと触れ合う時間が 多くなりました。子どもたちと触れ合う中で見え てきたのは、私の予想以上にわらべうたがしっか り子どもたちの遊びや生活の中に息づいていると いうことです。今回は「鬼決めうた」を例に、わ らべうたがもつ魅力についてお伝えしたいと思い ます。
11 月の終わり頃、園庭の大きないちょうの木の 下で 7 ~ 8 人の 5 歳児がぎゅっとかたまって何や ら相談中です。近づいてみると、今から「こおり鬼」
(鬼ごっこの一種で、鬼にタッチされた子は凍って 動けなくなるというルール)が始まるところで、 誰が鬼になるかを決めている最中でした。その方 法はまず、全員が円の中心に向かって片足を出し、 しゃがんでいる一人が「い・ろ・は・に・ほ・へ・ と…」(譜例)と唱えながら、順に靴を指さしてい きます。そして、「…ち・り・ぬ・る・を」まで指 したところで手を止め、「を」で指された子は、足 を引っ込めます。そうして、足の本数が 1 本少な くなったところで再度、「いろはにほへと…」が始 まり、同様のやり方で足の本数を減らしていき、最後に残った足の子が鬼になる、という方法でし た。この日は、「鬼が 3 人」という取り決めだった らしく、足が 3 本になった瞬間に「わーっ」と蜘 蛛の子を散らすように子どもたちは走り出し、鬼 ごっこが始まりました。 この場面を見て疑問に思ったのは、なぜ子ども たちは鬼決めの方法として「うたを唱える」という、 大人からすると回りくどい方法を選択するのかと いうことです。鬼を選ぶことのみが目的なら、機 械的にじゃんけんで決める方が断然、楽な気がし ます。しかしわざわざ譜例のようなうたを用いる のには、何か理由がありそうです。ここからは想 像ですが、この遊びでは「を」で指された足が抜 けていくたびに、自分が鬼役になる確率が高まっ ていき「誰が最後に残るんだろう」というドキド キ感があります。それは唱え役の子の手先を、音 に合わせて頷きながら真剣に見つめる子どもたち の様子から伝わってきます。「うたを唱える」こと で、仲間の気持ちが一つになり、遊びの楽しさを 盛り上げる、そんな力がわらべうたの中には隠さ れていると考えられます。ごっこ遊びの中でドロ ーンやパソコンなどが登場する現代っ子たちが、 平安後期に作られたとされる「いろはうた」の一 部を嬉々として唱えている様子から、時を経て子 どもから子どもへ歌い継がれてきたわらべうたが もつ力を改めて感じることができました。

【新連載】3回シリーズ(1)

特別支援学校のこどもたち(3)

京都教育大学附属特別支援学校 小学部主事 小坂眞由美

 本校では、「人は人とかかわり合う中で人として育つ」という考えのもと、集団での活動を大切しています。「人は、さまざまな人とかかわりあいながら、社会の中で人と共に生きるために必要なことを学び身につけ、世界を広げていく。子どもたちは他者とのかかわりあいを介して自分を知り、自分の存在を意味づけていく。さらに、学び身につけた力を人とのかかわりの中で使い、役に立ったり喜ばれたりする経験、認められる経験をとおして自分が必要とされるかけがえのない存在であることを実感しながら社会的存在としての自己を形成していく。これは対人関係を形成することや対人関係を土台とした発達の獲得に遅れる知的障がいの子どもたち、知的障がいを伴う自閉症の子どもたちも変わりはない」。これは本校の平成26 年度研究紀要からの抜粋です。

 B ちゃんは自閉症スペクトラムです。初めての場所に行くことはとても不安で、入学式も式場に入らず、外にいました。入学当初、教室に入れない日が続きましたが、焦らず見守り、ひとしきり遊んだころ、教室へ誘ってみたり、担任から呼んでもらったりしているうちに、教室で過ごせる時間が増え、2学期が終わる頃には集団の中で活動にほぼ参加できるようになりました。大人に対しては視線や手差しで要求を伝えたり、手の合図で返事をしたり、笑いかけたりするなどのコミュニケーションが出はじめていますが、まだ友だちと遊ぶ姿は見られません。

 ある日、同じクラスのC ちゃんが教室のモニターで動画を楽しんでいました。たまたまB ちゃんもその近くで遊んでいて、偶然、モニターの電源を切ってしまったのです。C ちゃんは、「あ~っ!!」と声を上げました。その声に驚いたのもあると思いますが、C ちゃんに何かしてしまった、とも思ったようで、Bちゃんは泣き出してしまいました。C ちゃんは教室移動のときなどに「B ちゃん、行くよ」と声をかけてくれます。それも、自分から、絶妙のタイミングで、しかも自然な距離感で。B ちゃんはその誘いかけに必ずしも応じるわけではないのですが、おそらく心地よく感じていたのでしょう。好きなお友だちになっていたようです。B ちゃんの泣き声の中に、「ごめんね」が聞こえてくるようでした。一緒に何かをして遊ぶ、といった明確なかかわりあいは見られなくても、そこにいて、声をかけてくれる人がいて、泣いていてもそこにいさせてくれる場があることで自分の存在を肯定的にとらえられる・・。これは周りに人がいてこそ作りうる「環境」なのだと思います。

 自閉症スペクトラムの人は人とのかかわり合いが苦手なのではなく、かかわり方が私たちと同じではないだけだと思っています。一見、集団に入れないように見えても、彼らなりの入り方(友だちや先生の動きをじっと見ていたり、声を聞いていたり)で参加しています。個に応じた指導、個別の対応が必要なことは当然ですが、集団の中で個を大切にする、この姿勢をこれからも本校では大切にしていきたいと思っています。

【新連載】3回シリーズ(2)

特別支援学校のこどもたち(2)

京都教育大学附属特別支援学校 小学部主事 小坂眞由美

 本校は学習の一環として自主通学を行っており、中学部と高等部の生徒は公共の交通機関を利用して通学しています。小学部は、本大学附属桃山小学校までスクールバスを運行し、そこまで保護者の送迎で通学しています。近年は放課後等デイサービス等の利用が増え、下校時は事業者さんに迎えてもらう児童も増えています。

 自主通学ではハプニングもありました。筆者が中学部で担任をしていたときの話です。携帯電話のGPS 機能が搭載され始めたころで、万が一のときは居場所を検索できるようになっていましたが、A さんは携帯を持っていませんでした。A さんはJR の京都線と奈良線を乗り継いで通っていて、人なつっこく、一生懸命話すのですが発音が明瞭でなく、会話は難しい生徒でした。ある日、A さんが登校してきません。奈良線には乗ったということで、乗り越した可能性が高かったので、奈良線沿線を捜しましたが、見つかりません。児童生徒の下校後、教員総出で京都駅や奈良駅、大阪など、考え得るところを捜索に行きました。担任だった筆者はAさん宅へ行き、両親と連絡を待ちました。

トイレは?、おなかはすいていないか?、どこかで事故に遭っていないか・・・。心配がつのります。結局、もうすぐ
終電というころに枚方警察から「保護している」という連絡がありました。京阪の私市の駅員さんが、改札の外でうろうろしているAさんを不審に思い、警察に連絡してくださったのです。このときはなぜ私市駅の改札の外にいたのか私たちにも想像がつかず、わからずじまいでした。

 A さんの大冒険はまだ続きました。朝、奈良線に乗ったことは確認できているのに学校に来ず、また乗り越したと思われました。14 時ごろ、USJから「保護している」という電話・・。ユニバーサル前駅の自動改札を突破し、年間パスポートのつもりで「緊急カード(学校名記載)」を堂々と見せたそうです。USJ が大好きで、家族でよく行って
いたAさん、乗り越して乗り継いでいるうちに見知った駅にたどり着き、「行ける!」と思ったと想像がつきました。事情を聞いて私たちは笑ってしまいましたが、もちろん本人には、保護者からも学校からも大目玉でした。A さんは携帯を持つようになりました。しかし、今度は「帰宅しない」と保護者から連絡がありました。GPS では大阪方
面へ移動中だとか。筆者は京都から新快速に乗って追いかけましたが、GPS では加古川、三宮とどんどん西へ行きます。結局終点の姫路で保護してもらいました。その後、A さんの冒険はなくなりました。何度かの失敗や経験を通して学習したのでしょう。このときは、乗り越してしまったことに気づき、大阪で引き返そうと同じ色の電車に乗ったところ、姫路行きだった・・。A さんなりにがんばった結果のまちがいだったと思われます。私たちも本人の行動パターンや考え方がわかるようになったのです。

 最近ではこのような捜索をする事例はなくなりました。通学や移動の支援が充実してきたためでしょうか。リスクは大きいですが、良くも悪くも経験の中でいろいろなことを本人だけでなく、周囲の大人たちも学んでいたのだと思います。

【新連載】3回シリーズ(1)

特別支援学校のこどもたち(1)

京都教育大学附属特別支援学校 小学部主事 小坂眞由美

 筆者が勤務している支援学校には、知的障がいがある、小学1年生から高校3 年生までの約70 名が在籍しています。学校は伏見桃山城の北側、住宅街の谷間にあります。周りを竹藪や林に囲まれた、自然豊かなところです。春には裏山の竹林(「たけのこやま」と呼んでいます)にたけのこが顔を出し、子どもたちが掘って、校内にある屋外調理場でゆで、たけのこご飯を作って食べて新入生歓迎会を開きます。夏はブルーベリー、秋は栗や柿、冬はみかんが成り、収穫して食べたり、ジャムにしたりします。校内には小さい田んぼもあり、高等部の生徒が餅米を栽培しています。できたお米は全校でのもちつき大会でお餅にして食べます。校内には他に、椎茸のほだ場があり、植菌から栽培、パッケージ、販売まで、年間を通して高等部の生徒が協力して管理しています。

 中学部や高等部の生徒は、たけのこ山に登るための階段を、杉の間伐材を使って作ったり、校内のあちこちに花壇を作って花を育てたりもしています。小学部の児童は、その階段があるから、けっこう急な斜面のたけのこ山でも登ることができるのです。小学生はお兄さん・お姉さんに「作ってくれてありがとう」と感謝し、それをとおして中・高等部の生徒は自分たちの作業が、誰かの役に立ち、喜んでもらえた、という達成感・満足感を得ています。

 さて、小学部の子どもたちは「あそび」を中心とした取り組みをとおして学習をしています。知的障がいがある子どもたちは抽象的なことが苦手なので、実際的な場面で、具体的な取り組みをとおして考えたり表現したりすることができるようになっていきます。しかし、子どもたちは、自分にとって必然性の低いことには当然ながらあまり興味を示しません。「おもしろそう!」と思えることが、子どもの主体性を引きだし、自主的に取り組むことにつながります。

 たとえば、6月に行う「スライダー」は、芝生の斜面に防水シートを何枚か敷き、水を流して幅2m、長さ5m~ 20 mほどのウォータースライダーをつくり、滑ってあそぶ題材です。水の感覚が心地よく、スピードも出るので楽しくて何度も斜面を登っては滑ります。

子どもたちにとっては楽しいあそびですが、この中に「斜面を登る→体づくり」「滑る→姿勢を保つためのバランス感覚、スピードを調節する力、安全に対する感覚」などの学びの要素がたくさん含まれています。また、防水シートは幅が広いので、先生や友だちと2~3人で横に並んで滑ったり、縦に一列になって滑ったりします。自分から友だちを誘ってあそぶことや、人と関わりあうことが苦手な子どもたちにとって、「友だち(人)と一緒に」楽しむことを学ぶ時間でもあります。また、「スタートの合図を聞いてから滑る」「シートの外側を登る」などの約束やルールを守ること(社会性)も学習内容の一つです。

 スライダーを一例に挙げましたが、どの授業でも同様に、子どもたちが楽しめる活動を中心に授業を作っています。

【新連載】3回シリーズ(3)

 タイムリーにつながっていく

皇學館大学 教育学部 准教授 山本 智子(上級教育カウンセラー・臨床発達心理士・学校心理士・ガイダンスカウンセラー)

 私たちは,常に知識と経験を総動員して子ども達に向き合っているでしょうか。時には,次の段取りに気を奪われていたり,いつもうまくいっていることを「当たり前」と思って注意を払わなかったりすることはないでしょうか。子どもたちには先生のことがよくわかるようです。誤魔化しはききません。慢心がないか,内省する習慣を持ちたいものです。

 スポーツで優れたプレイができる選手は,「基本をしっかり身につけ,それを応用しているだけだ。」といわれます。意外な気もしますが,納得できます。華やかなプレイに見える動きも人体システムを総動員して行われているだけです。ひとつひとつの筋肉がそのパフォーマンスを最大限に発揮できるよう努力を続けた結果だと思います。

 私たちは,発達途上の子ども達のいのち溢れる眼差しに対して,常に向き合っています。スポーツのように毎回結果が出て,その度にリセットできるものではありません。止めることのできない時間の中で,「全ては子どものために」ありたいと
思います。

 新任教諭のA も半年経ち,少し余裕が持てるようになりました。運動会も無事に終わりましたが,その練習ではB 君には難しい部分もあったようです。ご家庭との話し合いや園内でのサポートが功を奏し,チャレンジすることで乗り切れたと聞きました。ご家庭との連携では,A は、多くのことを学んだといいます。母親だけでなく父親が話し合いの場に来てくださることで,膠着状態が解消
したこと。また,園長先生が,「最終的にどうするかどうかは保護者の方に決めていただきたい。」といいながら,両親の回答を全面的に支持し,「うまくいかなかったら、また一緒に考えましょう。」と付け加えられたこと。その一言でご両親の表情が和らいだそうす。その様子をA は「すごいな」と感じたようです。

 A は,園長先生の愛と勇気で保護者とつながっていることを実感できたのだと思います。教諭という仕事は感情労働です。きっと自分が自覚しているよりもストレスが多い仕事です。これからもA には,子ども目線で子どもを理解し,その時々の指導を大切にタイムリーな対応を心掛け,愛と勇気をもって子どものために必要なことができることを目標にしてほしいと思います。そのためにもA には,先生方とたくさん会話すること。一日の中で必ず自分の時間を持つこと。一週間に一度は,大好きなケーキを食べること等自分へのご褒
美を忘れないようにと伝えました。

 アンパンマンのように愛と勇気でつながっていく関係性は,これから時代が進んでもかわらない教諭の基本姿勢であると思います。

【新連載】3回シリーズ(2)

 タイムリーにつながっていく

皇學館大学 教育学部 准教授 山本 智子(上級教育カウンセラー・臨床発達心理士・学校心理士・ガイダンスカウンセラー)

 卒業生のAは,その後も新米教諭ながら誠実にB君と向き合っているようです。

子ども理解においては,アセスメントが重要だといわれますが,特別な空間で時間を切り取って行うアセスメントより,日常における気づきを精査してタイムリーな支援に生かすことがより重要です。Aは,B君が毎日下校前にすべての送迎バスに乗り込む点検行動を見守ることにしました。また,滑り台で突然逆走してしまうことや,友だちの使用している玩具を奪ってしまうことについても,「なぜ,Bはこのようなことをするのか。」と考えてみました。すると,興味関心がその一点に集中してしまい,他のことが全く抜け落ちてしまうということに気づきました。その状況を改善させるためには,B君だけでは抜け落ちてしまう部分をAが補っていくことが必要になります。
Aは,「B君,滑り台にはC,D,Eがいて順番に階段から上がって滑っているねぇ。」と言葉かけしながら滑り台でB君とみんなを出会わせ,順番に遊ぶことを見守りました。

自由遊びの時間には,園庭から戻ってきたB君に,それぞれの子どもが遊びたいものを選んで活動している様子を実況中継するように話しかけました。みんなの様子を見ながらじっと聞いていたB君は,D君の使っている玩具と同じものを探しはじめましたが見つかりませんでした。Aは,B君を促してD君の所に行き「同じ遊びがしたいので来たけどいい?」と声をかけました。するとB君はD君の返事を待っていました。Aには,B君が状況を理解できれば望ましい行動がとれるのではないかという仮説があったようです。

どんな支援も子ども本位のものでなければいけません。子どもの苦戦状況に対して隙間を作らない支援は子どもとの関係性を構築します。Aは,日々の対応を振り返り,B君が友だちと望ましいコミュニケーションを築くにはどうしたらよいかを常に考えていました。

どんな子どもも学びたい,育ちたいと思っている運動体です。大人の「あとでね」「ちょっと待ってね」は,チャンスを潰すことになります。コミュニケーションの場から離れた生活が続くと不適応を起こすしかありません。AがB君の気持ちに寄り添い、園という集団の中で必要な力を身につけていくことを応援したいと考えた背景には,タイムリーな支援を隙間なく適切に積み重ねることの大切さを教えてくださった園長先生や先輩の先生方のご指導があったようです。新任・中堅・ベテランとそれぞれが持つ強みを生かし,教諭も互いにタイムリーな会話でつながっていくことが,子どもたちとのタイムリーな関係構築の原動力になるのだと思います。