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【新連載】3回シリーズ(1)

 子どもと言葉と英語教育(1)

福岡女学院大学 人文学部 現代文化学科(准教授)能勢 卓

 小学校での英語の教科化が様々な方面で話題となっている現在、多くの人々が早期英語教育への関心の高まりを感じているかと思います。そこでこの4月号から始まる3 回の連載を通して、子どもと言葉の関係に着目しながら、外国語としての英語を早い時期から学習することの有効性と注意すべき点について、少し考えてみたいと思います。

 そこで今回は子どもの言語獲得について考えてみたいと思うのですが、難解な議論をするのではなく、私の前任校である京都聖母女学院短期大学の講義におきまして学生に話していた、子どもの言語獲得に関します基本的な事柄から始めたいと思います。子どもと言語獲得については児童教育に関わる多くの人々が様々な不思議を感じているのと同じように、言語学者たちも様々な疑問を抱いていました。例えばレネバーグという言語学者は、「子どもが生後18ヶ月から28 ヶ月の間に言葉を話しはじめるのは、なぜであろうか?」と疑問に思いました。しかし世界中の母親がこの時期に言葉の訓練を始めている訳はないだろうから、それならば言語を発達させる要求は、主に子どもたちの内部における成熟過程によるものだと考えたのです。そしてレネバーグは、人に生得的に備わっている言語を獲得するプログラムのおかげでおおよそ2 歳頃の時期に言語が発生すると考えたのです。この人に生まれながら備わった言語を獲得する能力というのは、チョムスキーという言語学者が提唱したもので、人には何語であれ対応できる「普遍文法」(UG)が備わっており、それ故、人は生まれながらにして「言語獲得装置」(LAD)が備わっているのだという考えがもとになっています。

 さて話が小難しくなってきましたのでポイントを整理しますと、言語学者にとっても子どもが言葉を話すということ、つまり言語を獲得するということはとても謎に満ちたことなのです。その中で言語学者たちは、子どもが喃語や二語文などを経て言語を確立していくのは、人間に備わった言語獲得装置によるのだと考えたのです。そして子どもたちは大人では考えられない物凄い吸収力で言葉を獲得していくのです。ここで不図子どもの頃はよく覚えられたのに、大人になると中々覚えられなくなるということを思い出してしまいます。実はこの子どもと大人の物覚えの差は、いわゆる脳の柔らかさに原因があると考えられます。しばしば指摘されるように、子どもの脳はとても柔らかいのです。もう少し専門的な言い方をすると、子どもの脳はその可塑性が非常に高いのです。それ故子どもたちは、大人では考えられない程の吸収力で言葉を習得していくのだと考えられます。そしてレネバーグはこの脳の可塑性から、2 歳から12 歳の間を人が言語を獲得するのに適した時期とする「臨界期仮説」というものを提唱しました。つまり言語を獲得するには「脳の可塑性が高い(= 脳が柔らかい)時期」が良いという考え方です。そして実はこの考え方は、現在の日本の早期英語教育の潮流のもとになった考え方の一つなのです。そこで次号では、子どものための英語教育という話に進んでいきたいと思います。

【新連載】3 回シリーズ(3)

 「幼少期の間にしておくことが,今後につながる。」

京都市立開睛小学校 河田 理江

 「グー チョキ パー で グー チョキ パー で 何作ろう~ 何作ろう~♪」日本の幼稚園・保育園では,この歌に指遊びが付く。私が過ごしていた,ベナン共和国では,この歌が遊び歌ではなく,決まり歌になる。「アレ~エコール アレ~エコール オン トラバイ オン トラバイ♪・・・」(学校に行こう。しっかり勉強しよう。怠けてはいけない。しっかり勉強しよう。)この歌を幼稚園の子ども達が,園で歌っている。さらに,家で口ずさんでいる。この1つの歌を例に挙げたが,日本では,この他にも幼稚園・保育園で指を使った指遊びや指先を使った
創作活動をする事が多い。だから,小学生になった時に,折り紙の端と端をそろえて紙が折れるし,鶴を折ることもできる。はさみを使って上手に円を切ることもできる。しかし,ベナンの幼稚園では,指先を使った活動がほとんどない。だから,小学生に切り紙を教える為に,「紙の端と端を合せて三角に折りましょう。」と言った時もきれいに折ることができなかったのだ。担任の先生ですら上手に紙の端と端を合わせて折ることができなかった。指先には,末梢神経が集中していることから「第2の脳」と言われることがある。指先の運動は,脳にも刺激を与え,子どもの成長・発達を促す。日本の子ども達は,幼少期から指先を使ったたくさんの経験をしているから,大人になっても,細かい作業を簡単にすることができるのである。
 逆に,ベナン共和国の人々は,リズムに乗って踊るのが得意で,音楽が流れるとみんな踊れる。小さな子どもでも恥ずかしがることなくみんな自分でリズムをとって踊る。体育の時間に,担任の先生が「次は,だれが踊る?」と聞かれるとみんな手を挙げ踊りに来る。中には,身の回りにあるもので楽器を作り,音楽を奏でている子どももいる。日本の子ども達に「次は誰が踊る?」と聞いても,前にでてくる子どもは少ない。みんなの前で踊るとなると恥ずかしがって踊れない。しかし,ベナンに至っては,最後に,先生も踊りだす。この国で,踊りというのは家庭で教え,地域で教え,学校でも教える。だから,リズム感があるし,陽気なのである。
 このことから,幼少期にどれだけどんな経験をしているかによって得意なことに偏りができる。どちらが良いとは,言えない。ただ,言えることは,幼少期に学校や家庭で教えることが子ども達の未来にそのまま続くということだ。だからこそ,自分の目の前にいる子ども達にとって今,必要な力は何なのか?何を身に付けさせたいのか?ということを指導者がぶれてはいけない。どれもできない子どもになってしまう。新しい教育法ばかりを探していくので
はなく,日本の先人が伝え続けてきてくれた教育法を生かしつつ,目の前にいる子ども達と向き合った指導法を見つけていくことが大切だ。

【新連載】3 回シリーズ(2)

 「もっているものを引き出すためには」

京都市立開睛小学校 河田 理江

 (青年海外協力隊平成27 年度1次隊 ベナン共和国小学校教育)
 ベナン共和国の子ども達と体育の授業をしていて感じたことは,ものすごくバネがあること,体の使い方が上手な子どもが多いことである。しかし,指導する教諭の方が正しい知識がない為に,その子どもたちの能力を存分に引き出すことができていないことを残念に思ったことがある。
 ある日の授業で走幅跳をされていた時,担任の先生がこんなことを言われた。「両足でしっかり踏み切りましょう。」私は,そこで質問をした。「両足で踏み切って跳んで,どうなったらこれはいいの?」その先生の答えは,「わからない。両足で跳ぶんじゃないの?」だった。さらに,その授業ではただ跳ぶだけで,記録を測ったりしない。だから,子ども達がめあてや目標をもって授業に臨むこともないし,前の自分と比較することもできない。そして,授業が面白くなくなる。実は,先生自身も体育の授業での実技について,正しいことを教わっていないのだ。ベナンでは,体育の学習というのは「規律を学ばせる授業」という解釈がなされており,集合してウォーミングアップをすることと,授業後にしっかりと手洗いうがいをすることに重きを置いている。ボール運動の授業は,チェストパスのみ。50 m走を走っても記録を測らず,2人走って速かった人が勝ちで遅かった人が負けというようなものだ。そこで,実技のアドバイスをしてみた。すると子ども達がいきいきと運動を始めた。担任の先生が「もう疲れるから跳ばなくてもいいよ。」と言っても,できたことがうれしくてやめようとしなかった。「できる。」という喜びがその子どものやる気を引き出したのだ。
 子どもは,一人一人違う能力をもっている。運動が得意な人もいれば,音楽の得意な人,裁縫が得意な人や物作りが得意な人もいる。その時の教師の支援の一言は,子ども達の能力を最大限に引き出すこともできるし,下げることに繋がることもある。
 ベナン共和国で,ある人に「なぜこの仕事についたのですか」と尋ねた時「学校の先生が『上手だね』と言われたからこの仕事を選んだ」と言う答えが返ってきた。教師の一言が子ども達の将来を大きく変えることはどこの国でも同じなのだと感じた。そんな私も,小学生の時に担任の先生から「運動能力が高い。陸上競技を続けるべきだ。」と言われ、大学まで競技をすることになり,今も大会の運営や審判をしている。その時の先生の一言がなければ別の道
に進んでいたのかもしれないし,自分の能力に気づかなかったかもしれない。そう思うと、私たちは子どもにかける一言一言に重みを感じなければいけないし,そのためには普段から一人一人の児童をしっかりと見つめ,その子らしさが出せる環境を整えていかなければならないと思う。
 今目の前にいる子ども達にあなたは,どんな言葉をかけますか?

【新連載】3 回シリーズ(1)

 「物がないなら与える」のがいいのか?

京都市立開睛小学校 河田 理江

 (青年海外協力隊平成27 年度1次隊 ベナン共和国小学校教育)
 私がベナン共和国から日本に帰って来て、こんなことをよく言われた。「もう,履いていない靴があるのだけど,これってアフリカとかに送ったりすると助かるかな?」約2年間ベナン共和国で生活をしていた私が出した答えは,「助かるとは,思わない。」である。なぜそのように答えたのかというと,まず,私が住んでいた町で運動靴を履いている人が,ほとんどいなかったということが挙げられる。特に子どもは,ビーチサンダルを履いており,体育の時間になると教室でビーチサンダルを脱ぎ,はだしで体育をするのがノーマルである。はだしだから,けがをすることもある。そこから破傷風や感染症になることもある。「じゃあ,あった方がいいやん。」と言われそうだが,それは,その場にいない人の考え方である。例えば,その村の子ども全員に靴が配られたとする。きっと大切に履いてくれると思う。しかし,用意された靴の中に自分の足とぴったり合うサイズの靴がなくても「ぴったりだ。」と言ってその靴をもらうだろうし,足が大きくなって履けなくなっても無理やり履き続けるだろう。そのまま履き続けたらどうなるだろう?私の知人もサッカーをするのに靴が必要で,小さい靴を無理やり履いてプレーしていたらしい。その彼の指は曲がってしまっている。
「靴がなくてかわいそうだから送ってあげよう」ではなく,その後の事も考えてもらいたい。
 そこで,私は発想を変えてみた。裸足でも,けがをしない環境を作ればいいのだ。ベナンの人々はとてもきれい好きである。みんな朝早く起きて,家の前の門掃きをする。学校も同じで、児童は学校に「バレイ」というほうきを片手に登校する。学校についたら校庭と教室をきれいに掃除する。しかし,だれも住んでいない道や砂浜は,ごみであふれていた。
だから私は「人が見ていないところも掃除をしよう。」と掃除大会を市長に提案しにいった。異国の地に住んでいる日本人が突然言った提案にも関わらず,市長は地区長を集めて話をしてくれ,清掃活動が行われることになった。普段は時間にルーズなことがあるベナンの人々が、朝7時から昼まで掃除を続けてくれた。提案した1回で終わることなく,私の手を離れた企画なのに、今も続いている。もし,靴を送ることを選択していたら、きっと物を送る人がいなくなった時点で、またふりだしにもどっているだろう。物がないから物を送ってあげればいいのではなく,住んでいる人々の生活にあった無理のない形で代案を提案すれば、生活の一部になって続くのだ。相手の立場,環境を考えたうえで提案していくことが,今後も続いていくカギであり,本当の支援であると思う。
 できなくて困っている子どもがいたら,すぐに手を貸しやってあげることがいいですか?それとも,時間がかかっても、できるまでやり方を教えてあげるほうがいいですか?

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【新連載】3 回シリーズ(3)

カメルーン版インクルーシブ教育?

国立民族学博物館 戸田美佳子

 昨年(2016 年) 4 月、障害者差別解消法が施行された。それにともない、学校や役所などの行政機関や、鉄道会社やレストランなどの民間事業者が、個々の障害者のニーズに応じて、具体的な場面で合理的な配慮(reasonable accommodation)をすることが求められている。

 私が勤める博物館も10 年前から、ユニバーサル・ミュージアムを目指し、さまざまな年齢や国籍、言語、障害をもつ人びとに対してひらかれた展示を実践している。(たとえば見るだけではなく触れる資料の展示や、多言語による音声ガイドの提供など)。ただし現実には、個別のニーズにどのように応えればいいのだろうかと悩んでしまうことも多い。そのような時、私はカメルーンで目にした学校のことを思い出す。

 多くのアフリカ諸国では、障害者の教育は、財源の乏しい政府ではなく宣教師や慈善組織、篤志家によって担われてきた。私が訪れたカメルーンでも、障害者施設の多くが慈善団体などによって運営されていた。そのひとつに、フランス人篤志家がつくっ
た障害者施設が首都ヤウンデにあった(現在はカトリックの神父が運営している)。

 この学校には、視覚障害や発達障害をもつ生徒のための学級がある。視覚障害者学級を覗くと、脚に障害のもつ先生が教鞭に立ち、目の見えない生徒は点字ボードを、近所から通う障害のない生徒は木のボードやノートを使い、一緒に学んでいた。

 施設自体は(日本のようにエレベーターなどないので)階段や段差などバリアだらけなのだが、身体障害をもつ生徒たちも車椅子を使い通っていた。彼らが階段などを移動する際は、同級生やその場にいあわせた生徒たちが車椅子を持ち上げていた。そう
した風景がここでは日常だった。インクルーシブ教育を目指して作られた学校ではないが、障害のある人と障害のない人が共に学ぶ仕組みが無理なくできていた。

 こうした障害者学校に非障害者が通うというような体制をとるのは、私立の学校経営にとって利点があるからでもある。そのひとつに、確実な運営資金の確保がある。学校の収入源は生徒からの授業料であるが、この学校にはシスターや神父の援助によっ
てカメルーン各地からやって来た地方の(金銭に余裕のない)障害をもつ児童が数多く通っており、こうした生徒たちの費用(授業料と寄宿費)のねん出が大きな問題となっている。だからこそ、障害の有無にかかわらず児童を集めて、教育を提供し、収入を増やすことが重要となっている。近所から通う子どもの親達も、安心できるキリスト教系の学校に通わせることを望んでいる。つまりは、共に学ぶことが「理に適っ(reasonable)」ているのだ。

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写真 視覚障害者学級の授業風景。視覚障害をもつ子ども達が点字を使い、近所に住む子どもたちと一緒になって授業を受けている。

 カメルーンは障害者へのサービスが充実しているわけではなく、日本以上に多くの問題を抱えている。それでも、共生するためのヒントがここにはあるように私には思える。

【新連載】3 回シリーズ(2)

新学期の始まり

国立民族学博物館 戸田美佳子

 「ラントレ・スコレー(La entrée scolaire)のた
めにお金がいるのよ」
 8 月末になると、カメルーンではこうした声があちらこちらで聞かれます。この時期は、市場の女性達から釣銭を渋られても仕方がないなあと思ってしまうものです。

 「ラントレ・スコレー(La entrée scolaire)」はフランス語で新学期を意味します。カメルーンの
学校は3 学期制(9 月~ 12 月中旬、1 月~ 3 月中旬、4 月~ 6 月)で、日本の夏休みにあたる長期休暇(7~ 8 月)が明けた9 月初めが新学期の始まりです。
カメルーンでは、2000 年にポール・ビヤ大統領が小学校6 学年制の授業料を無償化しており、初等教育は義務教育となっています。ただし実際には、学校に通う子どもを持つ親達は、新しい学年の教科書、通学用の新しい靴や鞄、ノートを購入しないといけません。学校に入るためには高額な登録料もかかり、学童期の子どもがたくさんいる家庭は本当に大変です。

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カメルーン熱帯林の村の小学校。カメルーンの国旗を掲げて、朝礼が始まります

 小学校を卒業すると、中等教育(中高一貫教育が一般的)へと進みます。地方の村にも義務教育の小学校はありますが、中学・高校は町にしかありません。義務教育期間の就学率は90%を超えており、日本の中学校にあたる前期中等教育への進学率も5 割に達しているといわれています。このように、多くの親が教育の重要性を認識していますが、地方の村に暮らす子ども達が進学するのは容易でありません。

 まず大変なのは、親元を離れて、町で生活をしないとけないことです。寄宿学校がほとんどないので、親は家賃を払い部屋を借りないとけませんし、子ども達は自分達だけで食事を作らないといけません。

 ラントレ・スコレーまでに、村の親達は町に出て子ども達が生活する家を探し、次の休みまでの食費を子どもに渡し、さまざまな学校用品を購入するのです。子ども達も貰ってばかりではありません。町の学校に通う子ども達も、夏の休暇シーズンには村に戻ってカカオの収穫作業などの家族労働を手伝います。

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カカオの収穫を手伝う子ども達

 皆でなんとかやりくりして、9 月の新学期を迎えるのです。

【新連載】3 回シリーズ(2)は、今回はお休みします。

2018年夏の「政令私幼 京都大会」に向けて
〜私幼から未来の社会へ〜

京都市私立幼稚園協会 会長 升光 泰雄

 青空が広がるこの季節になると、私はよく高い空に昇っていっては、昼間自分がバタバタとして動き回っている地上を眺めています。それでも愛宕山のてっぺんくらいが関の山で、自分たちがどこに向かって進んでいるのかはその高さからではなかなか見えてはこないようです。人工衛星から地球を見ると、日本は夜でも明かりがたくさん点っていて、列島の形が分かるくらいだと言うのを聞いたことがあります。特に人口の多い大きな都市、政令指定の都市などは「なかなか眠らない街」の最たるものなのでしょうね。

 全国の3 〜5 歳300 万人程の幼な子の多くは大きな都市で生まれ育ち、その1 割近くの30万人くらいの子どもたちは政令都市の私立幼稚園で過ごしています。「寝る子は育つ」と言いますから、人が生きるのに夜も明るい町というのは少々不思議で、不自然なところがあるのでしょう。しかし実際、そこでたくさんの子どもたちが育っているのですから、子どもたちがゆたかにのびやかに自分らしく過ごせる環境や、モデルとしての人の営みを力を合わせて作っていくのが、私たち私幼に関わる者たちが担っている課題なのだと思います。

 政令都市が結びついて、私幼の団体協議会が作られています。毎年順に大会を開いて今日的なテーマで学び確かめ合う時間を持っていますが、58回目を数える来年の夏は京都での開催が予定され
ています。

 そこでは、それぞれの私立幼稚園が持ち味を生かして、自分たちの役割をゆたかに果たし続けていくために、私幼団体はどう在ったらいいのか考える場を持つことは、これまでと同様に大切なことでしょう。しかし、さらに私たちは幼な子と子育て世代の若き「家庭人(かていびと)」たちが自らを育む環境としての幼児教育の現場から未来の社会に向けて、どう行動し何を発信し続ける必要があるのかを確認しなくてはならないのではないでしょうか。

 少子・高齢の社会、真の真のワークライフバランス、地域コミュニティの再構築…。どの社会問題への糸口も、「人が人として自分らしく生きる」という、精神生活の自由の問題として社会が向き合えるかどうかにかかっている気がするのです。

 政令私幼からのささやかな確認・発信であったとしても、あらためて幼児期の教育のかけがえのない意味と、いのちあふれる有機的な未来の社会作りを、現場の熱い思いとして、行政の皆さま共々につむいでいけるような大会でありたいと思っています。

 そのために、みらい館の館長であり私たちの愛する永田萠先生の人間味あふれる基調講演と、「はぐくみ憲章」を共に作り今レジリエント統括として未来の社会の在り方を思い巡らす契機を与えて下さる(※)藤田裕之氏の基調提案を大会のはじめに共有し、心に響かせ合いながら、私幼団体の方向を模索できればと願っています。

 京都大会に各政令都市から、来年7月に仲間が集まって来ます。京都の皆さまもどうぞご予定に
お加え下さい。

※「レジリエンス」については、協会で行った特色ある!研修会での概要をあらためて『共に』で掲載する予定です。

【新連載】3回シリーズ(1)

カメルーンの森に暮らす子どもたち

国立民族学博物館 戸田美佳子

 中央アフリカに位置するカメルーン共和国。アフリカの縮図と呼ばれるこの国は、赤道近くの南部熱帯雨林帯から、北に向かって雨季と乾季をもつ半乾燥の草原であるサバンナ、そして乾燥したステップへと、湿潤から乾燥へと連なる多様な気候や植生が広がっている。人びとはそれぞれの自然環境に適応した狩猟や採集、農耕、牧畜を営み、平等主義的な社会から王をもつ重層的な社会まで多様性に富む社会を築いてきた。

 私は2006 年からほぼ毎年この国を訪れ、人類学的な調査をおこなっている。この国の公用語である仏語も現地語もできなかった私に「これは・・って言うんだよ」とたくさんの物の名前を教えてくれ、川や森で一緒に遊びながら生活の仕方を身につけさせてくれたのが、優しくも頼もしい、そこに暮らす子どもたちである。
3回にわたって、私の先生でもあるカメルーンの子どもたちを紹介していく。初回は、熱帯雨林に暮らす狩猟採集民である。

 カメルーン東南部は、世界第2の森林面積を誇るコンゴ盆地の北西端に位置し、森林性のマルミミゾウやゴリラ、チンパンジーなどの希少動物が生息している。そしてこの森に古くから暮らしてきたのが、肘から拳までの長さを表すギリシャ語にちなんで「ピグミー」と名付けられた狩猟採集民たちである。

 鬱蒼とした森林のなかをさっそうと駆け回る彼らは、まさに「森の民」といえる。動植物について驚くほどの知識をもち、例えば、(私には)どこにいるのかもわからない動物の鳴き声だけで「(動物の名)がいるよ」と発見し、何かに擦れた樹皮をみつけて「ここはゾウの道だよ」と教えてくれる。こうした豊かな森の知識を子どもたちはどのように身につけていくのだろうか。実は、狩猟採集民社会では、学校制度をもたないだけではなく、大人が子どもに物を教えるという態度がほとんどなく、しつけらしいしつけもみられない。子どもは年長者や大人と行動をともにしながら、森の知識や生きていくための技術を身につけていく。

 そうした狩猟採集民社会では近代的な学校教育は馴染まないものだと言われてきた。狩猟に適した乾季や野生果実の結実期には、普段暮らす村を離れて、森のなかで遊動生活をする。なかなか学校に通わない狩猟採集民に学校関係者は頭を抱えているのも事実だ。

 他方で現在、森林の開発と自然保護をめぐる政策の間で、彼らは主流社会から排除されてきた「先住民」としての立場が強調されるようになっている。

 本誌で紹介した狩猟採集民はバカ語を話すが、カメルーンでは250 以上の民族集団が存在し、それぞれに独自の言語をもつ。幼稚園、小学校から大学まで公立学校では公用語である仏語と英語が使われており、仏語が話せないと町で仕事をしたり、公的なサービスを受けることもできない。ただし、学校に通ったことがない狩猟採集民の年長者や女性のなかには仏語を話せない人が少なくない。狩猟採集民が公に発言できる機会は限られており、不利な立場を強いられてきたのも事実である。

 最近では、彼らのなかにも教育を受けて、自分たちの生活を守るために活動する人が増えてきた。ただ、変わるべきは狩猟採集民だけなのであろうか。伝統と近代といった2 項対立的な選択を迫るのではなく、私の小さな先生が目を輝かせて語る森の話に耳を傾け、彼らのよりよい生を探っていきたい。

※おすすめ本『森の小さな<ハンター>たち―狩猟採集民の子どもの民族誌』
亀井伸孝著(2010 年、京都大学学術出版会)

【新連載】3回シリーズ(3)

 保育者の専門性について問う
─同僚性─

金沢星稜大学 福井 逸子

 最近、保育の現場では、「同僚性」という言葉が良く聞かれます。「同僚性」とは、小学校以降の教育現場では、同僚同士が授業を見合い、それぞれの知識や経験を行き来させながら、相互に授業力を高めていけるような関係やあり方を指します。保育現場には、「授業」は存在しませんが、園内研修、クラス会議などを通して子ども理解を深め、専門性を高め合う関係を「同僚性」と呼ぶようです。

 文部科学省の「今後の教員養成・免許制度の在り方について」の答申の中では、社会の変化への対応や保護者等からの期待の高まり等を背景として、教員の中には、多くの業務を抱え、多忙感を抱いたり、ストレスを感じたりする者が少なくないことを指摘しています。このような現状の中でこそ、学びの共同体として「同僚性」を十分に発揮していくことが課題ではないでしょうか。昨今、保育現場でも、業務内容の拡大と共に、多様化する保護者のニーズへの対応などが山積しており、心の健康を損なう人も少なくありません。このような時こそ、保育者同士が互いにサポートし合い、同僚間で学び合い、教え合う園内体制が整えば、ストレス軽減に繋がるのではないかと考えます。

 さらに、現行の『幼稚園教育要領解説』では、保育者間で、互いに指導事例を持ち寄り、話し合うなどの園内研修の充実を図ることの必要性について言及されています。この記述からも、保育の専門性を高めていくこと、即ち、自分の保育の見直しやより深い子ども理解の習得には、同僚間での連携が欠かせないことが理解できます。

 しかしながら、その一方で、昨今、保育者がバーンアウトしないように保育業務の効率を図ることも推奨されています。限られた時間の中で、保育者の専門性を担保していくためには、会議の方法や研修体制の見直しを考えていく必要があります。そこで、私は、ある保育現場で「振り返りノート」と「赤ペン先生」と命名した実践を行いました。「振り返りノート」は、日々日記をつけるような感覚で、目の前の子どもの印象的な場面とそれに対して気づいたことを二つの柱(その子どもの行動の意味と自らの保育のあり方)で取り上げ、A 4 一枚以内に書き留めました。その中から毎月一事例を選択して、集まったものをまとめ職員室で順次、チエックをして回覧していくという方法です。各自のチエックポイントは、この場面では、子どもの姿が頭に浮かんでこない?この気づきは、別の見方をしてみることも必要なのでは?等どちらかというと批判的な見方(クリティカルな思考)で取り組むことを目標にしました。保育者同士の共感は大事ですが、そればかりだと、保育の専門性の向上には繋がりません。当初、若い保育者が先輩保育者には、意見を書きにくいという課題もありましたが、若い保育者から回覧して自由に意見を書き込めるように配慮しました。慣れてくると他者からの意見を基に自らの子ども理解や子どもへの関り方がフィードバックされる効果も見られました。このように、同僚性は、互いに成長し、高め合っていく関係であり、集団になくてはならないものであると考えます。

【新連載】3回シリーズ(2)

 保育者の専門性について問う
─保育保健とは─

金沢星稜大学 福井 逸子

 今回は、保育者の専門性の中でも、特に「保育保健」というテーマを取り上げてみたいと思います。幼稚園現場では新学期のこの時期、新入園児を対象にトイレや手洗い、うがいの方法、衣服の着脱など、基本的な生活習慣の確立を目指した「保健指導」が行われています。一般的に幼稚園では、学校教育法ならびに学校保健安全法規定の下に、内科検診/ 歯科検診/ 眼科や視力検診など様々な健康診断が年間を通して実施されており、日々の幼稚園生
活においても子ども達の健康観察は保育者の必須事項となっています。それに対して、より専門的観点に立つ「保育保健」という言葉は、幼稚園の現場では、馴染みのない言葉ではないでしょうか。

 兵庫県医師会発刊の『保育所・幼稚園における健康管理マニュアル』では、保育現場における、日常的な観察のポイントとして、「か・き・く・け・こ」に留意すべきと記載されています。【か:顔つき・顔色】 子どもの表情に眼力があるか、顔色が悪くないか。【き:機嫌】機嫌が悪くて親から離れられない、理由もなくずっと泣いている。不機嫌というだけでなく、実は中耳炎や尿路感染症、鼠径(そけい)ヘルニアなどの疾患が隠れていることもあるそうです。【く:食い気(食欲)】 子どもは病気になると途端に食欲が落ちて、食べられなくなります。さらに重症の場合になると、水分摂取もできず、脱水症状に陥ります。【け:元気】 子どもは健康な時は元気に動き回っていますが、急にじっとして動かなくなった、眠いわけでもないのにぼんやりとしている場合は、発熱の有無や呼吸の状態など全身のチェックを心掛けると良いでしょう。【け:元気】け:元気 子どもは重症の疾患になると呼吸が浅く、速くなることが多いと言われています。普段よりも呼吸数が多く、努力呼吸が見られる場合は、呼吸困難とならないよう、直ちに適切な処置が必要です。

 しかしながら、園児の健康観察・保育保健を行う保育者は、上記のような疾病や異常を発見するだけでなく、心身の健康のひずみを思わせる変化や、何気ない子どもの訴えなどのソフトサインも見逃せません。そして、気になる子どもの親には助言をしたり、親同士の交流の機会を設けるなど健康面でのサポート体制の強化、保護者への健康指導も、昨今、保育者の重要な役割となっています。

 さらに、幼稚園では、子どもの生活の場となる施設の通風や換気、気温や湿度、採光の調整、砂場やプール、遊具や玩具など子どもを取り巻く全ての環境に対する安全面の配慮と衛生管理も必須です。

 近年、幼稚園は、3 歳児保育、3 歳未満児保育等、入園児が低年齢化しており、日々の保育の中で子どもの生命を守り、育てることが以前にも増して重要な課題となっています。保育者は、個々の子どもの健康問題に適した対応が行えるように、日頃から子どもの健康に関わる知識や技術を身に着けておかなければなりません。この姿勢も保育者としての専門性のひとつではないかと考えます。

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