新連載

【新連載】3回シリーズ(1)

言葉と言葉のあいだには…①

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 子どもたちに私の大好きなお話を語る時がある。それは「あくびがでるほどおもしろいはなし」松岡享子作、おはなしのろうそく5(東京子ども図書館出版社)である。「ここから北へ北へとすすんでいったある南の国に、たいへんかしこい、ばかな男がすんでいた。ある朝、夜が明けて、あたりが暗くなったので、男は目をさました。外はすばらしくよいお天気で、雨がザアザアふっていた。そこで、男は、『よし、きょうは山へ魚釣りに出かけよう』と考えてよく手入れのいきとどいた、さびたてっぽうをもって、うちを出た。なだらかな、けわしい山道を、どんどんのぼっておりていくと、まもなく木の一本もない森へ出た。そこで、男がはえていない木にのぼって、すなはまにこしをおろしてまっていると、やがて、見たこともないような、あたりまえの魚が、なみをけたてて、のろのろとおよいできた。男はすかさずてっぽをかまえて、ドーンと一ぱつぶっぱなした。たまはねらいたがわず見ごとにそれて、魚はバッタリ生きか
えった。男は、『ちきしょう、うまくやったぞ!』とさけんで、魚をひっつかみ、大いそぎでゆっくりと走ってうちに帰った。男がそれをりょうりして食ってみたところが、なんとほっぺたがおっこちるくらいまずかった。そこで、男は、魚をみんなにわけてひとりじめにし、ほねと身と皮をのこしてすっかりたいらげてしまった。あんまりはらいっぱい食べたので、おなかがぺこぺこになったそうな。」

 このお話を語ると子どもたちはざわざわし始める。そしておもむろにあちこちで笑いが増えていき、やがて笑いの渦ができる。小学生の子どもはそのお話をおぼえたいと必死に書きだそうとする。子どもは素直におもしろいという反応をしめすのである。一方、女子大学生の授業では雰囲気が一変する。このお話を語りだした途端に教室がシーンとする。挙句の果てにある学生は睨みつけるような眼で語り手を凝視する。ある学生は、お話が終わるや否や質問。「先生、どっちを信用したらいいのですか?」と。また感想文の多くは何を言っているのか理解できなかったと。

 学生の中にはこのお話のような矛盾する言葉の世界で遊んだり、矛盾する言葉の世界で楽しんだりする場所や時間、いわゆる「心の空間」がなく
なってきている感じがする。

 古い書物を手にした。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行である。ページをめくると、はしがきの冒頭の言葉に見入った。「幼児ばなしの世界は混乱している」や、「発達段階に即した話をしていかなくてはならない」とある。また目次をみても今に通じると感じた。「なぜ話すのか」という項目の中には、「人生における最初の経験」・「見えないものを見せる」・「深い人生を味わわせる」・「言葉は記憶されないが保存される」とあった。とくに「言葉は記憶されないが保存される」という言葉が心にのこった。これからを生きていくこどもひとりひとりの心の中に保存されていくような素敵な言葉を伝えているのか、伝えられているのか、言葉の世界で遊ぶという「心の空間」が存在しているのか私自身も考えていきたい。

【新連載】2回シリーズ(2)

「何にでも向くこと」

池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子

 子どもたちは日々、からだも心もひとつのものとなって表現しながら遊ぶことを楽しんでいる。遊びの中には表現の萌芽がたくさんちりばめられている。時には、無自覚な表出でさえ、保育者をはじめとした大人やお友達とのゆるやかなかかわりの中で志向性を持ち、その子らしさや思いを伴った表現へとなっていく。

 表現は、「言葉、音楽、造形、身体」という四つの手段で、内側から外側へと「あらわす」活動とされる。近年の社会が変化する中で、これらの行為を使って何かを「あらわす」力がより重視されているように感じる。この先の人生をより多くの人たちと関わりあいながら生きていくための一つの資質としてとらえられてもいる。だからこそ、大人に子どもに、表現力が重視され、表現を高め、発信することが求められる。

 子どもたちにとって表現とは、まず感じたものを受け止めて捉え、認める、というところから始まる活動である。つまり伝える力を育むことよりも、楽しみ、取り組んだ心の動きが言葉や動きとして表れ、造形や絵となる経験が始まりとなり、その過程を共に楽しみ、受け止められることから表現の楽しみを知ることが大切なのである。それは遊びを通し、自己内の対話を充実させるような活動である。自らの感性を育むことである。そのことをもとに自己を表現できるようになり、他者と対話し、仲間と対話しながら協働し、表現する
力が生まれる。

 このような過程に大人はどうかかわっていくのか。以前に教員免許更新講習の講師をさせていただいた時、表現遊びの指導は正解がなく、技術が必要なので難しいとおっしゃられた先生がいた。きっとそうなのだろうと思う。正解がなく、たくさんの方策がある中で子どもたちの興味に合うことは何かと考え、時に子どもの葛藤やぶつかり合いに保育者自身も悩む、そんな時間と試行錯誤を楽しみながら子どもの表現に向き合っていくことにこそ醍醐味がある。保育者自身が発信優位になりすぎず、子ども達の今見つめて感じていることに共感しつつ、評価を押し付けない姿勢であること。できるできない、良い悪いをこえた自己肯定
感を育むことが求められている。

 「大らかで柔らかい笑顔の人の親もまた、大らかで優しいもんやろ?」これは家ではただの親でいいということをうまく体現できなくなっていた私に、息子が投げかけた言葉だ。大人は時として分からなさに目をふさがれ、そこに見えている正解らしいものに固執し、向き合うことが難しくなってしまう。先を急ぎすぎずに、子どもたちそのままの表現を大人が包み込み、大らかに柔らかに大人が向き合うとき、自然と表現の中の子どものイメージや心の動きが浮かび上がってくる。このような瞬間、わかり合う喜びに溢れ、学びと教育とが一つに交わり、保育の中で「表現」することの喜びが味わえるのではないだろうか。

【新連載】2回シリーズ(1)

「何にでも向くこと」

池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子

 私は、40 年後50 年後に社会を支えるそんな子どもたちの今を育てる先生になる人と日々学び、接しているのだと思っています。そしてそんな先生の卵を、本当の意味で「子どもって楽しいでしょ」「子どもとともにって感動がたくさんあるよ」「先生の仕事はこんなに面白いんだよ」と実感できるように導き、殻を破る場をくださるのは、彼らが現場で出会う先生方と子ども達なのだとも強く感じます。卒業生と久方ぶりに会うと、ひとり一人が学生時代とは異なる深い視点を持ち、目の色を輝かせて子どものことを思い、真心で保育のこと考え、意志をもって悩みを語る姿に感動します。
時には、先輩である諸先生方ともぶつかりながらも子どもとの関わりを模索している姿は胸を打つものがあります。その人の感性に影響し、みずみずしくそれだけの変化を引き起こした、保育教育現場の時間の流れや、現実の関わりの眩しさに、自分自身が養成校の亡霊のように思えてきます。おそらくそんな風に感じるのは、私には学生時代の彼らの姿が強く印象に残っているからです。

 身体表現と幼児体育という授業を担当する関係上、私は学生の咄嗟の表情や動き、思いの表出に直に触れ、学生自身が気づいてもないような内面を目にしたように思うことがあります。そこには不安や、引け目、悩みのようなものが含まれていることも少なくありませんが、素直な学生の姿であり、ありのままに愛おしいものです。ただ、良くも悪くも学生のありのままが息苦しく、もどかしいように感じることが、近年増えたようにも思います。リアルな生活経験が足りない姿。選び取れない、自信がない、迷い続け人とつながり合えない姿。自分のことだけで精一杯になり相手のことを思いやれない姿。「学生の弱さ」とか、「社会がそうさせる」としか説明ができないときもあります。感性を豊かに表現することの楽しみを知りながら幼少期を過ごしたはずの子どもたちが大人になるにつけ、傷つき、頑なに自分を守ろうとしている。その人本来の伸びやかな自我はどこにあるのだろうか。

 そんな時に最近思いを寄せるのは、先生という仕事の可能性です。幼児教育と養成教育は、対象者の主体性を大切にするという意味で常に響き合っていると感じます。子どもが一様でないように、多様性を持った専門職として、幼児教育・保育の先生はジェネラリストに近い存在でもある。その中で発揮される一人ひとりの先生の力が、子どもを支えていくために何より貴重なのだと思います。「子どもが好き」のその一念を職業として全うしていけるように、学生のありのままの保育に対して向けている思いを、保育に根差す価値観と知識へと導く。そんな養成教育が、実は人生や社会のすべてが詰まっている幼児教育・保育の中で、何者にでもなれるような先生を育てることができるのではないでしょうか。

 先生は向いていなければなれないのでなく、「何にでも向くことができる」ことが先生の仕事のなかにはたくさんあるという理解が、専門領域で区切られている養成教員の中に何より必要なのではないか。養成課程では己の得手不得手と向き合いながら感性を磨き、先生として自分が向くものを見つけられるようにする。
養成教員は単に学生の先生としての向き不向きを量るのではなく、その人の向くところを先生としていかに発揮していくのかを導く存在でもありたい。不安定な社会の中で育つのは学生自身の課題でも、先生として育ち上がるためのヒントを工夫して提示できるように、私たちは学生自身の自分の向くところに対する育ちを深める存在になっているのだろうか。

 卒業目前、先生に向いてなければならないと思い悩む学生は後を絶ちません。就職と卒業をめぐる学生との面談、そして教員間のやり取り、現場の先生との対話がこの文章となりました。気が付けば養成校教員としての雑感がすっかり強くなってしまいました。次回は子どもと表現にかかわることを中心に語りたいと思います。

【新連載】3回シリーズ(3)

「白でも黒でもない保育の世界(3)園行事から子どもの参加を考える」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回、日本の保育における園行事は、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」で行う生活経験であり、そこで大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり、つくり手になるかを考えていかねばならないのではないか、と述べました。

 ここでの参加とは、いったいどういうことなのでしょうか。子どもが競技や出し物を行えば参加したことになるのでしょうか。園行事にまつわる事例から考えてみたいと思います。

 H ちゃんは、4 歳児のときの運動会で一歩も動きませんでした。前日まで、他の子どもたちと一緒に出し物やかけっこを楽しそうにしていましたが、当日は保護者が大勢見に来ていて、いつもとは違う雰囲気を感じたのでしょう。自分の番になっても一歩も動かず、「Hはやらない、見てる」の一点張りでした。保育者は、励ましたりもしましたが、無理強いはせず、H ちゃんと話をして、その思いを受け止めることにしました。そして、運動会が終わってから、運動会の持ち方に課題がなかったか、H ちゃんにとって運動会がどんなことであったか、行事と日常の保育がつながっていたかを話し合いました。母親によれば、H ちゃんがやらなかったのは「負けたくなかった、でも負けることはわかっていた、それを見られたくなかった」のだということでした。

 それから1年間、保育者は、H ちゃんの「負けたくない」という思いを共に感じ受け止めつつ、「負けるかもしれない、でも」という思いが芽生えるように、のんびりと、でも根気強く関わりました。H ちゃんが頑張っている姿を見つけたら、「頑張っているね」と言うだけでなく、どこまでやろうとしているか、H ちゃんが手応えを感じる瞬間をわかち合えるようにし、手応えが感じられた日には母親・父親ともわかち合いました。

 翌年の5歳児年長になっての運動会までには、保育者が「どんな運動会にしたいか」「運動会でこんなことをしたい」とういことを子どもたちと共有し、互いの気持ちや希望、不満を聴き合う時間を重ねました。5歳児の運動会ではリレーがあり、H ちゃんも出ることになっていました。同じチームの人と作戦を立て、何度も競いあい、負けて悔しくて泣くこともありました。当日、H ちゃんは前走者から1 位でバトンをもらい、走り出しましたが、その次の瞬間、見事に転び、2位、3位だった人たちにあっという間に抜かれていきました。保育者も親も子どもたちも、固唾を飲んでH ちゃんを見守り、1 秒が1 時間にも感じられました。しかし、H ちゃんは、すっくと立ち上がったかと思うと、迷いなく、落ちたバトンを拾い、走り出しました。そして、走りきってから、涙を流しました。別の出し物でもHちゃんは最後までやりきり、その後に満面の笑顔を見せ、クラスの仲間たちのところに戻って行きました。その笑顔は、大人の期待した姿を見せたというよりも、自分の殻を破ろうと挑戦し続けてきたことを誇っているように見えました。

 4歳児、自分のできなさも見えてくるとき、「できないかもしれない」という心の揺れはとても大きいものです。もしかすると、自分の枠や限界を人生で初めて感じているのかもしれません。H ちゃんの「やらない、見てる」という参加の形を受け止めるのは、大人にも勇気のいることです。園行事は、このような節目を顕在化するものでもあります。それをどう考えるかは、園の理念や方針によるでしょうが、園やクラスというコミュニティの中で大きな力をもった保育者が、一つ
の参加の形に子どもの在り様を合わせるのでなく、その子なりの思いと参加の形を受け止め、願いをもって、子どもの心の揺れ動きに丁寧に関わることがなければ、行事は大人主導になりがちではないでしょうか。行事、そして「それまで」と「それから」の日々の中で、その子にとっての節目を刻んでいくには、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」が絡み合う関係性のなかで、白とも黒ともいえないグレーな織物を時間をかけて織っていくということが必要なのだと思います。白黒はっきりさせることを求めがちな、スピード感のある社会に大人も子どもも生きています。だからこそ、このじっくりと織物を織る生活を乳幼児期に生きることが貴重なことだと思います。

【新連載】3回シリーズ(2)

「白でも黒でもない保育の世界(2)」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回は,日本だけでなく,世界の様々な国や地域で,大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく,そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が起こっていることについて書きました。

 日本の保育で,大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく,「どちらも」が見られる生活経験に,園における行事があります。

 行事は,日本の保育を語る上で欠かせないものです。秋田(2011)は,日本の子育てについて,アメリカやイギリスなどのアングロ・サクソン諸国とは異なる伝統と文化的信念をもつこと(エスピン・アンデルセン,2000)を挙げ,園のカリキュラムが,読み書きや社会性といったような個人の能力領域をもとにした構成ではなく,園の生活経験の活動領域を柱にし,日々の生活と遊びを基盤に構成されていることを指摘しています。行事は,そのような園の生活経験を考える上で節目のような役割を果たしてきました。

 川田(2019)もまた,日本の保育にとって,行事は本質的な役割をになっていると言います。そして,それは個人個人に何かのスキルや知識が身につくということではなく,もっと集団的な側面を意味するものであることを示唆しています。

 日米の教育現場の調査・研究を続けているキャサリン・ルイス(1995)もまた,アメリカ人の眼からみた日本の小学校や幼稚園での行事について興味深い指摘をしています。アメリカに比べて,日本の初等教育は,知的な発達だけではなく,社会の一メンバーとしての発達を大切にする全人教育であり,そこに行事が重要な役割を果たしているというのです。どういうことでしょうか。例えば,運動会では,足が速い人,力が強い人にスポットライトが当たり,クラス(社会)の一メンバーとして欠かせない人と周囲に認知されます。クラスで出し物をするときは,子どもがそれぞれの経験や個性から生まれる持ち味を出すことで,クラス全体のものができあがっていき,雰囲気ができていきます。それぞれの子どもの持ち味が見えてきたり発見されたりして,それがそのクラス(社会)にとってかけがえのないものになり,同時にその子ども自身にとっても発達の節目を刻んでいくものになることが,社会の一メンバーとしての発達ということの意味なのでしょう。

 このような園行事は,大人主導か子ども主導かの「どちらか」では進めることができないものです。大人がすべて決めて,それを子どもに「やらせる」行事については見直しが進んでいます。意識しなければ,すべて大人が主導して見栄え良く終わらせることができる活動なので,大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり,つくり手になるかを考えていかねばならないものだと思います。とはいえ,どんなに子ども主導で行おうとしても,「子どもの育ちの節目になりそうだから,来週運動会をやります」ということはできないので,時期などは大人が前もって決めて主導する部分も多分にあるのが行事です。何より,子どもたちの日々の生活のなかでの育ちや経験,「この人は今こんな様子だから,こんなことを経験してほしい」,「この人たちとこんなことをやってみよう」という保育者の丁寧なみとりに基づく思いや願いがあり,子どもたちと織り成していくものが行事だと思います。

引用文献
秋田喜代美・佐川早季子(2011)保育の質に関する縦断研究の展望. 東京大学大学院教育学研究科紀要, 51, 217-234.
エスピン= アンデルセン,G. 渡辺雅男・渡辺恵子(訳)(2000)『ポスト工業経済の社会的基礎−市場・福祉国家・家族の政治経済学』櫻井書店
川田学(2019)『保育的発達論のはじまり:個人を尊重しつつ、「つながり」を育むいとなみへ』ひとなる書房
Lewis, Catherine (1995) Educating Hearts and Minds:
Reflections on Japanese Preschool and Elementary
Education, Cambridge University Press.

【新連載】3回シリーズ(1)

「白でも黒でもない保育の世界(1)」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 「なんでも見守るべきなんでしょうか。見守ってばかりだと、遊びがバラバラで続かなくて…」
「でも保育者の思いが、子どもの自由な思いを囲い込んでいるような気もして…」

 保育を実践されている先生方がふとした瞬間にこぼす悩みやためらいに、こういう声が聞かれます。体を丸ごと投げ出して、子どもと同じ時を生きている先生方の葛藤する声として、なぜこのような悩みやためらいが出てくるのかを考えました。

 幼稚園教育要領や保育所保育指針の変遷を見る限り、現在は、大人主導の一斉保育型の活動ではなく、子ども主導・遊び中心の保育を目指している園が多いと言っていいでしょう。子ども主導・遊び中心の保育をシロだとするならば、大人主導の一斉保育型の保育はクロとでもいうような二項対立の図式が、この二つの保育方法(保育形態)を指す物言いには含まれているようにも感じます。シロかクロかの世界は、わかりやすいものであり、人はわかりやすいものに惹かれるものでもあるようです。

 2019 年12 月、イギリスの乳幼児教育研究センター(CREC)のホームページに、保育研究者であるクリス・パスカルとトニー・バートラムの対話が掲載されまし
た。その対話は、「ハイブリッドな保育方法」(Hybridpedagogy)をめぐるものでした。
「ハイブリッドな保育方法」とは何でしょうか。ハイブリッドカーが、電気とガソリンという二つの動力源を組み合わせて走る自動車であるように、ハイブリッド
な保育方法とは、異質に見える保育方法を組み合わせて行う保育と言えそうです。

なぜ、今、「ハイブリッド」という言葉を使うのでしょうか、また、異質に見える保育方法とは何を指すのでしょうか。2 人の保育研究者の対話では、次のように
語られています。

 子ども主導・遊び中心の保育と大人主導の保育には緊張関係があり、この二つの保育のあいだで「バランスの取れた保育方法」がよさそうだということについては根拠があります。でも、私たちの調査では、「バランス」というよりも「融合」「ブレンド」の方がしっくりくるということがわかりました。

 バランスというと、保育者が子どもたちに、大人主導の活動と子ども主導・遊び中心の活動を別々に提供しているように思えてしまいます。でも「ハイブリッドな保育方法」は、二つの保育方法が切れ目なく融合され、一つの活動のなかに入っているようなことを指しています。とは言っても、このときの大人主導の保育方法というのは、大人が強要したり強制したりするものではありません。

 この対話からは、大人主導か子ども主導かのどちらかにだけ重きを置いたり分けたりする議論ではなく、そのブレンドや融合とも言える保育を考える議論が、日本に限らず、他の国でも起こっていることなのだということを確認できます。

引用文献
Pascal,C. , Bertram, C. & Fisher, J. (2019)“ Considering the value of a ‘Hybrid pedagogy’ for the EYFS: Chris Pascal and Tony Bertram in dialogue with Julie Fisher.”
CREC Homepage
http://www.crec.co.uk/announcements/considering-valuehybrid-
pedagogy-eyfs?fbclid=IwAR2AAeT578nNJp9t_faapi
Q9CW8DKD_5qWYy9DLgvYbncYZmY1omRw2WJ8k
(2020 年10 月30 日閲覧)

【新連載】3回シリーズ(3)

「大好きな歌」

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 人それぞれ、自分にとって“特別な歌”や“大好きな歌”というものがあるでしょう。私は長年歌うことを専門的に学び、学んだことを今、教員として還元している最中ですが、今回はその中で私にとって特別な一曲をご紹介したいと思います。職業柄、おそらく普通の人より多くの曲を知っている方だとは思うのですが、この曲を私に教えてくれたのは教え子のたみちゃんでした。たみちゃんは卒業間近のお別れが迫った最後の授業で「先生、これ私の大好きな歌やねん。先生、歌って!」と私に楽譜をくれたのです。その歌は「先生」という歌でした。

 たった8 小節のささやかな歌なのですが、歌い始めた途端、胸が熱くなり、涙が溢れそうになりました。
それから何度もこの歌を歌ってきましたが、歌う度にこみあげる涙をこらえるのが大変なのです。作詞・作曲をされたのは、保育・教育の世界ではとても有名な“ゆずりん”こと、中山譲さんです。8 番までの歌詞に「先生」という仕事の尊さや指標が凝縮されています。ここで歌詞をご紹介させていただこうと思います。

1:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どものことを好きでなければ先生にはなれない
2:いつも ニコニコしてるだけではだめだけど 心を許し 笑えなければ 先生にはなれない
3:情熱ひとすじ 向かうだけではだめだけど きらめく情熱 持てなければ 先生にはなれない
4:思った事を 話すだけではだめだけど 思いを言葉にできなければ 先生にはなれない
5:子どものそばを 歩くだけではだめだけど よりそい共に歩けなければ 先生にはなれない
6:子どもを守り かばうだけではだめだけど 子どもの生命 守れなければ 先生にはなれない
7:信じた道を 進むのはつらいことでも 仲間と夢を信じなければ 先生にはなれない
8:子どものことを 好きなだけではだめだけど 子どもを愛するあなただから 先生と呼びたい

 本来、私が歌を教える立場なのですが、この「先生」は私にとって、子どもが教えてくれた宝物の歌です。
この歌はその内容的に、子どもが歌うと何だか不思議な感じがするので、歌うシチュエーションは若干限られているかもしれませんが、私はこれから先生を志す学生たちや、現場で奮闘している現職の先生たちに向けて、そして無事に教職人生を終えられた同僚の先生のご退職の機に、心を込めてこの歌を幾度となく歌わせていただきました。

 自分自身が先生になって、子どもが教え、気づかせてくれることの方がずっと多くて豊かであるということを感じる日々です。私には残念ながらこんな素晴らしい歌を作る才能はありませんが、数ある歌の中から子どもたちの豊かな心を耕す歌を選びとり、心を込めて歌い、伝えていくことが私の使命だと感じています。素敵な歌をもっと素晴らしく、子どもが初めての歌との出会いに心を踊らせるような歌の伝え方を追求したいと日々奮闘しています。

 そして子どもたちが、これからの山あり谷ありの人生をたくさんの歌で彩り、歌とともにいろんな苦難も乗り越え、力強く成長していってほしいと願っています。そんな子どもたちを全力で支える「先生」でありたい。

【新連載】3回シリーズ(2)

「人に優しく、自分に厳しく」考

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 人はそれぞれ、生きていく上で大切にしている言葉があると思います。それは“座右の銘”と呼ばれるような、その人の生き方や戒め、モットーを表すような言葉の場合もあるでしょうし、日常生活や読書の中で出会った、心に残る言葉の場合もあるでしょう。私はいつからか、それらの言葉を心に留めておくため、すてきな言葉を「採集帳」に記録するようにしています。

そこには特に子育て期や子どもにかかわる場面での、たくさんの忘れがたい言葉が記録されています。その中で、今回は私の大切にしている言葉にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。

 私が自分に課している座右の銘は「人に優しく、自分に厳しく」です。いつごろからか、このような生き様が自分にとって最も理想とする姿であり、そうありたいと願ってきた言葉です。しかし、自分自身を律する厳しさを、時として他者にも求めてしまうこともありました。大学生の頃、アルバイトで家庭教師をしていた折、教えていた小学5 年生の女の子に勉強を頑張ってもらいたいという激励の意を込めてこの言葉をかけたところ、「どうして人に優しく、自分に優しくだったらだめなの? 私、みんなにも自分にも優しいのがいいと思う!」という想定外の答えが返ってきました。

キラキラした目で訴えたその子に私は「そっか、それもいいかもね」と妙に納得させられて、返す言葉も見つからなかった記憶が今も鮮やかに残っています。幸福感や優しさに溢れた彼女の性格は、彼女の生い立ちや家庭環境から醸成された彼女固有のものであり、彼女の生き方の道標は彼女自身が決めていくものだということを思い知った出来事でした。教育者を目指していた大学生の私が、自分の理想を押し付けようとしてしまったこの一件は、今も自分への戒めとして事あるごとに思い出しています。この時から私の座右の銘は「人に優しく、自分に厳しく。でももし自分にも優しくしたいという人がいれば、それもいいと思います」と、少し長くなりました。

 そして次はこの言葉にまつわる少々恨みがましいエピソードですがご容赦を。娘が4歳の頃、お世話になっていた保育園に仕事を終え、お迎えに行った際に、若い担任の先生からかけられたのがこの一言:「M ちゃんって、“人に厳しく、自分に優しい”ですよね~」。
娘がそう言われるような言動をしていたことも容易に想像はできたのですが、そうは言っても自分の大切にしている言葉の真逆の表現で我が子を形容されたショックは大きく、言い得て妙だと感心して笑えるほどの心の余裕もなく、失笑を残してその場を後にしました。

先生に一切悪気はなく、軽い気持ちで発せられた一言だと思うのですが、先生が発する言葉の重みを痛感させられた出来事で、10 年たった今でも苦々しい思い出として記憶されています。

 そもそも“人に優しく、自分に厳しい”幼児っているのでしょうか? この先生は3 歳児の本来の姿をどのように捉えておられたのでしょうか? いろいろ疑問の残る出来事でしたが、この一件からも大切なことを学びました。採集帳より自戒の念を込めて引用:「子どもたちのことをよく分かっている先生だからこそ、その子のことをうまく伝える言葉を、いや、うまく伝えられなくてもせめて真意の伝わる誠実な言葉を注意深く選び、その子の個性と思いを尊重しながら健やかな育ちを願う言葉をかけていきたい。」

【新連載】3回シリーズ(1)

「お節介おばさんになった日」

佛教大学 教育学部 講師  臼井 奈緒

 関西の梅雨入りが発表された翌日、ジメジメした空気とマスクの中の熱気をとても不快に感じながら、いつものバス停で職場に向かうバスを待っていた。その時、折りたたんだベビーカーを一生懸命広げようとしている女性が目に留まった。胸の前のスリングと呼ばれる布状の抱っこひもの中には赤ちゃんがいるようだ。手にも大きな荷物を持っている。おそらくさっきバスを降りたのだろう。こんな雨の日に大荷物で、しかもベビーカーで出かけるなんて、子育て熟練者に違いない。しばらく見ていたがなかなかベビーカーが開かないようだ。「あれ?もしかしてまだ慣れていないのかな?大丈夫かな?手伝いに行こうかな?」と思っているうちに無事に開いたので、一安心。胸にはとても小さな赤ちゃんの頭が見えたが、スリングは赤ちゃんには大きすぎるように思えた。

 バスがもうそこまで来ていたのでバスに乗ろうと赤ちゃんから目を離したその瞬間、女性のただならぬ悲鳴が聞こえた。振り返った時には赤ちゃんは雨に濡れた路上に落ちていたのだ。女性はパニックになり、その場に崩れ落ち、赤ちゃんを抱き上げようともせず、ただ泣いていた。慌てて駆け寄り泣いている赤ちゃんを抱き上げたが、それはまだ首もすわっていない生後2 か月の本当に小さな赤ちゃんだった。母親に「病院は?どこに行こうとしていたの?」と尋ねても気が動転していて答えられない。とにかく病院に連れていかなければ、と歩き出した時、彼女は震える手で携帯電話の地図を示し、「ここ」と病院を指示した。どうやら病院に連れて行こうとしていたらしい。母親に「大丈夫だから、しっかり!」と声をかけながら300 mほど先の病院まで急いだ。母親は大声で泣きながら空っぽのベビーカーを引きずり、何とかついてきている。

 病院で看護師に赤ちゃんを手渡した瞬間、力が抜けて安堵感が押し寄せてきた。半狂乱でその後到着した母親はよく見るとまだとても若く、新米ママさんで、出産後初めての検診をこの病院で受けるつもりであったと看護師が説明してくれた。看護師の話を聞き、安堵感のあとに押し寄せてきたのは自責の念である。「なぜベビーカーを開けるのに手こずっていた時に手助けに行かなかったのだろう。」「スリングが少しゆるいのでは?と思った時に、なぜ彼女はまだ不慣れなのだということに気がつかなかったのだろう………」。不慣れだからこそこんな雨の日に、慣れないベビーカー、スリングに大荷物でバスに乗るという暴挙とも言える行動に出てしまったのだろう。看護師の方も「私も電話で予約された時に、彼女に助言すべきでした」と反省されていた。

 保育者養成に携わっている職業柄、子育て中の人を応援したいという強い思いは常々抱いている。でも、やりすぎてお節介と思われるのが怖くて、躊躇する自分がいた。社会のつながりが希薄になってきたと言われる昨今、子育て経験、保育の専門的知識を有する者の援助を必要としている新米パパやママはたくさんいる。お節介と思われるか、ありがたいと感謝されるかを見極める線引きは非常に難しいが、世の中にお節介覚悟で若い親ごと育ててくれる大人たちが増えていってくれることを切に願う。保育においては、それが子どもの生命を守ることにつながっていくということを改めて感じる出来事であった。

 検査を終えた母親が電話で赤ちゃんの無事と感謝の意を伝えてくれたので、今、胸をなでおろし、自戒の念を込めてお節介おばさんはこの記事をしたためている。

【新連載】3回シリーズ(3)

就学前の擦り込み(その3)

龍谷大学短期大学部 こども教育学科 教授 羽溪 了

 前回(5 月号)は、教育上何の根拠もない題材設定と、こども達の反応から、就学前後に底通する問題を話題にしました。今回は、優しい先生が困った題材を何とかしようとされる実践を紹介しながら、問題を見つめていきたく思います。

 「〈まずベロを描こう。〉と四つ切画用紙を渡し、ベロを描く大まかな場所と大きさを伝えるとともに、どのように描いたらいいのかを指示した。教師も、黒板に同じように描いていった。〈次は、唇を描こう。〉〈唇の次は、鼻を描こう。〉と、顔のパーツを一つ一つ描くようにした。指示を出す度に、子どもたちの絵を見てまわると、あちこちから〈この大きさでいいですか。〉〈どうですか。〉〈この場所に描けばいいですか。〉と心配そうに聞いてきた。」

 幼稚園でも時々みかける実践です。この話題を学生達と共有し一緒に考えています。そのやり取りの中で明らかになってくる問題を紹介します。

 一つは、「この様なやり方では、みんな同じ絵になってしまい気持ちが悪い。」「こどもの表したい思いやイメージが育たない。」という意見です。描く手順等を見せてやるやり方を如何に考えるか?領域表現や図工科で目的とする「こどもの心を育てる」という視点から考えています。

 みんな同じ絵になる、本来育てるべきこども一人一人のイメージが育たないと、理解はするものの、次のような意見を出す学生たちもいます。「描けない子にとっては、有り難いことではないか?」「絵が苦手だったので、助かるような気もする」等々。如何でしょう?確かに「あるある」です。実はこの二つ目の問題が、最も厄介で難しい問題です。

 この問題は「描ける・描けない」「上手・下手」「得意・不得意」と言う絵に対する考えです。本来は、描きたい・表したい思いが育っていないことが問題で、生活の中で遊び込めていない、心を動かすような経験の不足、すなわち日頃の保育環境に繫がる問題としたいところです。保育における表現活動の問題として、常に考えなければならないのは、この問題です。しかし、残念ながら問題はそこではなく、<見た目に近い>形が描ける=上手=得意、描けない=下手=不得意という意識のようです。現実の形への拘りが自ずと芽生えるのは、小学校の中学年頃で、就学前後で育てるものは、見た目の形を表すことではなく、感じ想像する心であり、それを何の気兼ねもなく表せる姿です。
しかし、見た目の形に囚われる心の定規が、知らぬ間に形成されてしまってはいないでしょうか?

 私たちが上手と思う絵は、絵が描けると思う子の絵は、どういう絵でしょう?その思いがついつい言動に出ることが、こどもの心に大人が誉め期待するイメージがいつしか出来てしまうのではないでしょうか。出来上がった心の定規が邪魔をして、描けない、下手・不得意との思いをさせているのではないでしょうか?そして就学後、先生の期待通りに出来るかとの思いに縛られるこどもになっているのでは?シリーズ冒頭に話題としたこどもの姿に繫がってきます。日頃から胸に手をあて考えてみたいところです。

 「就学前の擦り込み」と、少々乱暴な標題で3回に渡り書かせていただきました。十分深めることが出来ませんでしたが、紹介したこどもの姿から、就学前に関わる私たちが、今一度何が大切なのかを考える機縁となることを願ってやみません。