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【新連載】3回シリーズ(1)

絵の具やパスを使って

京都聖母女学院短期大学 准教授 山成 昭世

 本学の美術科授業では保育や教育現場で日常よく使用されている絵の具やパスを使ったさまざまな表現技術を習得し体験する授業を設けています。学生の中には「小さいころから思ったように上手く描けない」など造形表現に苦手意識を持ち、積極的になれず周りの目を気にして萎縮した態度で課題に臨む学生が多くいます。私は保育者や教育者を目指す学生が消極的な態度で苦手意識を抱えたまま、保育の場で造形指導に臨むことは避けたいと常々思っています。言葉による自己表現がまだまだ拙い子どもは絵や形に表したり、音やリズムに身体全体を使って何かを表そうとします。その思いを受け止め、子どもと共感できる保育者を育成したいと考えています。授業は具体物をそのままに書き写すのではなく、絵の具やパスを使ったさまざまな技法による表現を体験し、偶然できた色や形から意外性や面白さを感じ取り、思いがけない造形表現を発見する授業内容を取り入れています。絵の具やパスを使ったさまざまな技法をモダンテクニックと言い、小学校の「図画工作科」や幼稚園、保育園の造形指導でも多く取り上げられています。
 マックス・エルンストやジャクソン・ポロックなどの芸術家もさまざま技法を用いて作品を制作しています。シュルレアリスム作家を代表するマックス・エルンストはコラージュ(はり絵)やフロッタージュ(こすりだし)やドリッピング技法を用いて幻想的な作品を制作しました。エルンストにとってデカルコマニーやフロッタージュによる偶然の造形表現は想像力を刺激し創作に駆り立てイメージの源を与えるものでした。アクションペインティングを代表
するジャクソン・ポロックは、大きなキャンバスの上を筆を用いず絵の具を垂らしながら歩き回るドリッピング(drip)技法で、絵の具の重なり合った軌跡を表現し鑑賞者を圧倒しました。1950 年作「One(NO.31)」はポロックの代表作といえます。保育や教育の場でもよく使われているこれらの技法は、多くの芸術家も創作活動に取り入れており造形表現は広く深いと言えるでしょう。機会があれば是非、画集をご覧になってください。
 さまざまな技法を学ぶ授業は机上の作業に縛られず、一人ひとりの感性と身体全体の感覚を駆使しながら躍動感やリズム感を表現し新しい造形表現の発見になります。自らが体験することで全身を使った子どもの身体的リズムや感情表現と結びつき、子どもの自発的な造形活動を理解する手がかりとなっています。線を引いたり、点を打ったり、手で描いたり、見たままを描く緊張感から解放され、造形遊び的な活動を通して試行錯誤しながら表現する楽しさを味わえるように工夫しています。しかし、これらの技法表現は簡単に取り組むことができるが故に無意識に量産されて作品つくりの意識が低くなることは否めません。そこで瞬時の造形表現も時間をかけて取り組むように指導することで、画面構成や色調、リズム感、動静などが反映されテーマ性を帯びた作品となります
 授業アンケートからは「造形表現が深まり広がった。」「解放感がありのびのびと楽しく取り組めた。毎回わくわくした気持ちで活動したので、この気持ちを保育・教育の場で子どもと共有したい。」造形活動への意欲の高まり、さらに教育や保育現場での支援や環境設定や言葉かけにも意識が向き保育者としての気付きも伺うことができました。最終的に作品集としてまとめ作品を振り返ることで、「新しい表現に出会い、自分の作品を客観的に評価し自信が持てるようになった。自分の本ができたようで嬉しかった。」など達成感、自己肯定感が述べられていました。
この授業を通して自分が楽しんだ造形活動を子どもと共に実践し共感したいと意欲的に保育現場での造形活動を考える一助になったのではないかと思っています。

【新連載】4回シリーズ(4)

森のようちえんの世界的広がり

広島文教女子大学教授(人間科学部・初等教育学科) 杉山 浩之

 保育者(スタッフ)は、保育園・幼稚園の保育者を初めとして、キャンプ野外活動の指導者、小学校教員、森林関係の指導者、保護者など様々な出身からなる。無認可の場合、資格免許は必要とされてはいない。しかし当然、保育者としての感性や野外活動・自然についての基礎的な知識は必要である。それは一つの園で全員が持っている必要はなく、保育者が協働で得意分野や苦手分野を支え合いながら子どもたちの成長を見守っている。

 森のようちえんでは、保育者は積極的な関わりや声かけはしない。安全性の確保に関しても例外でなく、前もって安全のためのルールを子どもたちは覚えている。相当な危険な場所は、初めから遊び場として排除されている。ルールを守れば安全性が確保される環境が中心とはいえ、草むらに入れば蛇がいる可能性はある。しかし、前もって下見して、まむしなど毒蛇がいるような場所は出来るだけ避ける。深い池があるような環境であるとか、落ちれば命に関わるような崖がある環境などは適当な場所ではない。植物の漆(かぶれの木)やマムシ草が生える場所は自然環境では至る所にあるので、そのような場所では子どもたちに毒性のある植物は触れないことを教えておく。木の実に関し
ても、食べてよいものと食べてはいけないものとがあるので、自然状態に応じて決めるが、似ている木の実があるときなどはすべて禁止することが安全である。
ジュースや飴などは蜂を誘うので、森の中には持って来ないようなルールも必要である。安全性確保のための、服装があり、長袖長ズボンは夏でも同じである。胸元や足首の露出は危険である。それも環境によって柔軟に対応することが基本であろう。

 日本の森のようちえんでは、森に傾斜のある場合が多く、そこには小川や渓流がある。保育環境に水があることは活動の幅を広げる。水の中には生物が棲息し、生命活動がある。きれいな石があり、植物も育っている。
さらに日本では森に針葉樹や広葉樹など多様な樹木があり、食べられる木の実や果物も豊富にある。可能な食べものを見分け、調達する力も生きる力として大切である。

 多様な経歴を持つ保育者がいることは子どもにも良い刺激となる。生物多様性は種の保存を支える条件となる。人間組織の場合も同様のことが言える。保育者の特技や感性・考え方が多様であることは保育の豊かさを保障する。

 森のようちえんでは、森や里山など自然環境を中心にした野外保育が行われる。森や里山には、不思議で感動を与える自然の事象があふれている。そこでは、子ども一人ひとりが自分のペースで興味・関心のある事象にかかわることを通して、自己発揮を遂げ、遊びこんでいく。さらに、豊かな自然の中で好奇心を満たされて、仲間ととともに遊びを深めた満足感や達成感を味わいながら、子どもたちは遊びきっていく。保育者は自然環境の豊かさを十分に生かし、子どもたちが異年齢交流しながら、仲間とともに協同して遊びを創造したり工夫したりすることを援助する。森のようちえんの子どもたちは、豊かで不思議に満ちた自然環境の中で遊びきることを通して、健康な身体、豊かな人間性、学びの基礎を培い、仲間との遊びを通して思いやりや探究心が育ち、生きる力の基礎を身につけていく。

【新連載】4回シリーズ(3)

森のようちえんの世界的広がり

広島文教女子大学教授(人間科学部・初等教育学科) 杉山 浩之

朝の会が終わると子どもたちは目的の場所まで走ったり、ゆっくりと道草したり、それぞれの自分のペースだったり仲間と一緒だったりする。6 人に1人程度のスタッフ(保育者)は先頭付近と後尾付近を子どもと共に歩んでいく。

 子どもの遊びにはいろんな活動がある。季節の草花の造形、お店屋さんごっこを初めとしたごっこ遊び、鬼ごこ、川遊び、小動物を見つける遊び、木登り、ツリーハウス造り、ターザンごっこ、野菜栽培や収穫・調理、薪割りや焚き付けなどなど。すべて生の自然から創り出す遊びの生活である。

 身体の爆発的な成長期でもある幼児期は、体力の限界に挑戦するような急な山道登りも達成感や冒険心を味わう活動として好まれる。身体面の発達と精神面の発達が重なった時、子どもは大きく成長する。帰りの会では、一日の活動の振り返り、歌、読み聞かせなどが行われる。最後に、森にあいさつして、森を後にする。

 保護者は、森のようちえんに様々な思いや期待を込めて子どもを預ける。認可外の森のようちえんに子どもを預ける保護者は、子ども時代の自然体験の良さを知っている場合が多い。子どもの教育だけでなく、生活スタイルも自然を大切にし、食生活を初めとする衣食住に拘る保護者もいる。

 自立した子どもを育てるためには、保育者の援助は控えめがふさわしい。積極的に手伝う、助けるという行為は自立を遅らせるからである。転んで泣いても、近づいて、慰める必要はない。褒める、叱るもしてはいけないわけではないが、余計なお節介は必要ない。ただし、一人ひとりの発達を見極め、必要に応じて、自己肯定感を高めたり、自
惚れを戒めたりするような関わりを行うことは大切なことである。ナイフやノコギリ、鉈も徐々に使えるようになる。マッチで火をつけることも覚えていく。かつての子どもたちがしていたように、遊ぶ道具を自然から調達し、自分で作る。自然の中で生きるための技術と知恵も身につけていく。自分で食べるものを自分で調理する経験も必要で
ある。森のようちえんでは「木登り」もよく行われる。昔は子どもの遊びとしてよく見られたが、最近は木登りする子どもは見かけない。木登りは腕や足だけでなく、恐怖心を克服する勇気や登り方を工夫する前頭葉の知的活動である。年少児は、初めは年長児の登る様子をじっと見ているが、やがて身体が大きくなり登れる日がやって来る。精神的にも大きくなる契機となる。

 森のようちえんは森が活動の中心であるが、地域で暮らす人々と交流し、社会生活も体験する。高齢者と子どもの生きるリズムが合い、お互いに求め合うということもある。里山保育がそれを可能にし、地域の伝統も継承される。

【新連載】4回シリーズ(2)

森のようちえんの世界的広がり

広島文教女子大学教授(人間科学部・初等教育学科) 杉山 浩之

日本の森のようちえんは、無認可つまり法的な保障がなく、運営費用は保育料のみに頼っている。それにもかかわらず、2010 年代以降、週一回のお散歩保育から週三日、やがて毎日型の森のようちえんへと普及拡大している。とはいえ、その数は三ケタになったばかりである。未満児の親子組クラスもある。その背景には、私たちの生活が自然から遠ざかり、子どもたちの遊びも屋外から屋内へとシフトし、いわゆる携帯型ゲーム等の個別型の遊びが流行していることから、子どもの教育環境への危機意識があること、さらには、学びあう教育から一方的に教える教育が幼児教育の現場にも浸透したり、学力に繋がる早期教育が就学前の子どもたちに拡大していることなどがある。自然が失われた大都市から自然豊かな地方へ移住し、子育てをするという動きともリンクしている。

 その先導役を果たしている一つが、鳥取・智頭町にある森のようちえん「まるたんぼう」および「杉ぼっくり」である。ここには、森のようちえんで子育てをしようと関西はもちろん沖縄・福島など全国からの移住者が来ている。日本の森のようちえんは、世界でも珍しく無認可・補助金なしで運営されているが、例外がある。それが森のようちえん認証制度を県条例(2015年)で定めた鳥取県である。県から1/4、市町村1/4、保護者の保育料1/2という基準で運営費が決められている。智頭町を始め、鳥取市、倉吉市、伯耆町などで、20 人前後、3歳から5歳の異年齢の子どもたちが集まり、毎日森の中で遊んで過ごしている。スタート時点では六園(二園が智頭町にある)認証されている。鳥取ではさらに開園する動きがある。そして認証制度が始まった後も主催者会議で実態や課題を交流
し改善策を検討している。

 国内では、長野県において最も多くの森のようちえん(16 園)が運営されており、森のようちえんを支援する組織として「信州型自然保育認証制度」が2015 年度に始まった。そこでは、一般の保育園や幼稚園も加盟して、自然保育の質保障ということをスローガンに事例を集め、保育研究が推進されている。その他、三重県、岐阜県などにおいても行政の支援が始まろうとしている。

 森のようちえんの一日は、午前十時ごろから午後二時ごろまでの四時間が平均的である。その間に昼食(子どもたちが相談して始まる)が入る。活動の始まりと終わりには、必ず朝の会と帰りの会が行われる。

 朝の会のプログラムが園により多少異なるが、園独自な歌から始めることも多い。手遊びや身体表現もよく行われる。そして健康観察と点呼があり、子どもたちは森の入り口で大きな声を出し、森にあいさつし、元気さをアピールする。最後に今日の遊びや活動、そして森の遊びのルールが確認される。棒を人に向けない、大人が見えないところや声の届かない所には行かない、友だちを押さないなど安全に関わることが多い。安全確保は、スタッフと子どもとで確保され、認証制度は1 人以上いる有資格者を信頼する。

【新連載】4回シリーズ(1)

森のようちえんの世界的広がり

広島文教女子大学教授(人間科学部・初等教育学科) 杉山 浩之

 人間は自然の中で生命を継承し、自然を活用し文化を発展させた。人間は自然によって生かされ、生き方を学ぶ存在である。森のようちえんにおいて大人(スタッフ、保育者)は自然の中で主体的かつ協働的に遊び成長する子ども(3 ~ 6 歳)を見守る。一般の保育と同じように幼児の発達課題を洞察し、必要な関わりはするが、好奇心を否応なく刺激する自然の中、大人が自然と子どもの間に介入し興味関心に応じて働きかけることには限界があり、邪魔にもなりかねない。森のようちえんでは自然も教師である。
 質の高い保育のための見守り保育は、必ずしも子どもの活動を成功や達成に効率的に導くとは限らない。自分の力で解決したことを子どもは決して忘れることはなく、生きる力を身につけていくのである。例えば、自然環境を初めに設定するのは大人であるが、当日の天候から、どこの森や自然を選択するかは、朝の子どもたちの主体的な話し合いに任されている。

 「森のようちえん(Forest Kidergarten)」は北欧のデンマークで発祥したと言われているが、スウェーデンにおいても自然の中での保育は以前から行われていた。幼稚園の創始者と言われるフレーベルも森の入り口に園舎を立て、自然の教育力を認識していた。

 デンマークでは20 世紀半ば、既存の保育に魅力を感じなかった母親たちが森の中で保育を始めた。この毎日型の森のようちえんは、20 世紀の後半から今世紀にかけて隣のドイツや韓国など、そして日本へ波及した。しかし、日本の森のようちえんは無認可の保育である。国の法律には幼稚園設置基準があるが、園舎など適合しない部分が多く、幼稚園として認可されていない。これは、世界的に見れば異例なことである。デンマークの私立園は、大型バスが移動兼保育室として認められ、園舎の形に拘ることはない。国が定めた保育内容の基準を満たす保育をしていれば有資格者の専門性を信頼して、人件費等の補助金が交付されている。ドイツの場合も森の中にバウ
ワーゲンという貨物列車の車両風の小屋や劇団から譲り受けた移動式小屋などが設置されている。いずれの国も森での保育の後も預かり保育を行う園では園舎を持っている。

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 森林教育の活性化法を整備し、幼児教育から大学教育まで野外で自然教育を普及する教育政策が始めた韓国の森のようちえんの場合は、森組が一般的な幼稚園の中に設置され、週に三日以上野外保育を行うタイプがあり、希望者全員が入れないほど人気である。毎日型の森のようちえんも当然あり、例えばソウル市内の南山公園などで活動している。韓国は、日本と同様、知的に偏った早期教育が流行し、外国語教育や受験中心教育の勢いが激しく、青少年の不登校、落ちこぼれ、引きこもりなどの問題が深刻化し、この精神的な問題を解決するために森林教育が導入された。カナダ、オーストラリア、アメリカ合衆国などでも野外保育(Outdoor Preschool)という名称のもと、自然保育が積極的に行われている。オーストラリアなどでは、環境教育を意識した野外保育が流行している。

 近代文明が発達し、人間は益々、自然から遠ざかりつつある。大人は偶に大自然に帰れば心身がリフレッシュして人間性を回復したり疲れを癒されたりするが、五感の敏感期にいる幼児は、この時期に十分に自然体験を積み重ねておくべきであろう。

【新連載】4回シリーズ(4)

子どもを見る目 その4
~戦時下の倉橋惣三~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

 前回は倉橋惣三の思想を取り上げ、彼の“子どもを見る目”について考えました。では、戦時下においてはどうであったか、ということを今回のテーマとしたいと思います。

 当時、多くの幼稚園では戦争を題材とする教材が扱われ、天皇や国家への忠誠心を育成する教育方針が取り入れられていました。では、倉橋はこの頃どのような考えを持っていたのでしょうか。ここでは、1942 年発行の『幼児の教育』(第42号、第8・9号)に掲載された倉橋の講義内容である「現時局下に於ける幼児教育」から当時の考えに迫ってみましょう。

 この頃、日本は太平洋戦争の真っ只中にあり、物的・人的資源を戦争遂行のために統制する国家総動員体制下にあ
りました。子どもは人口政策の観点から重要視される人的資源とみなされました。当時の厚生省は、10 人以上の子ど
もを持つ「優良多子家庭」に対して「国本ノ培養ニ資スル」として表彰していたほどです。

 この時代状況における子どもについて、倉橋は次のように述べています。「現時局下とは、日本が大きい戦争と大きい建設とを同時にしている時です。しかもそれが、長期に亙るべき戦争であり、建設であり、従って我等のあの可愛いゝ子供達に荷って貰はねばならぬ戦争であり、建設であるのです。」建設とは、「大東亜共栄圏」の建設のことで、つまり日本によるアジアの植民地化を進める考えを指します。子どもたちは将来、戦争と植民地支配の任にあたる人材として倉橋に認識されています。では、保育が目指す方針についてはどうでしょうか。「その第一は子供達にしっかりと皇民教育をすること」、「皇民的性格を養ふこと」、つまり、天皇への忠誠心を持つための教育を目指すべきだと唱えたのです。

 倉橋は、「彼等〔子ども達〕も皇民精神の最も熱い風、強い波に毎日ひしひしと押されている。即ち今日に生きる事によって幼児達も皇民精神を一杯に享け与へられている」と述べ、普段の生活のなかで「皇民精神」の育成がなされていると言います。こうした普段の生活に加えて幼児教育においても、「先ず皇国に対する感謝教育、歓喜教育が与へられなければならない」と言うのです。つまり、日本の国に生まれた喜び、天皇の威光の下に生まれた有難さを感じる歓喜を幼稚園で子どもに与えよう、ということです。

 倉橋は変わってしまったのでしょうか。そうではないと思います。少なくとも彼のなかで矛盾はなかったのでしょ
う。倉橋は子どもの実際の生活をそのままに、そこに幼稚園教育を順応させたいと考えていました。そうであれば、
総力戦体制にある社会のなかでの生活は戦時色に染まるのであり、それに幼稚園教育を順応させる、ということにな
ります。

 子どもの生活を重んじる児童中心主義の考えは、今日においても重要です。しかし、弱点もあったと言えるでしょう。子どもの生活の背景には、その時代の政治や社会があります。政治や社会に対する厳しい評価が欠如すると、生活を重んじる保育は、政治や社会の状況に応じてゆらゆらと揺れ動いてしまうのです。

 子どもを見る目は、子どものありのままの生活を大切にし、子どもの心のうちを見つめる、というだけでは不十分
なのかもしれません。保育者には子どもの生活の背景にある政治や社会を見極める目が必要だと言えるでしょう。保
育者は社会が子どもをどのように見ているかについても厳しいチェックをし、時にはそれに対してNoを唱える必要
があると思います。人口政策や人材育成・人材確保の観点から保育を考えることは、社会のなかで不可欠なことかも
しれません。しかし、国家が求める人材となることと、個人が幸せになるということは必ずしも一致しません。教育
や保育の任にあたる者は、第一に後者のために存在しているのではないでしょうか。戦時下日本の保育界と同じ轍を
踏まないよう気をつけなければなりません。

【新連載】4回シリーズ(3)

子どもを見る目 その3
~倉橋惣三の思想から~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

 日本の“幼児教育の父”とも呼ばれ、児童中心主義に基づく保育の発展に寄与した倉橋惣三はどのような目で子どもを見ていたのでしょうか。1926(大正15)年に出版された『幼稚園雑草』に収められている「かく育てたしと思うこと」と題された文章を頼りに考えていこうと思います。

 「かく育てたしと思うこと」とは、現代語に言い直すと「このように育てたいと思うこと」ということです。親は子どもに対して、将来このようになってほしいなどの期待を持つものです。例えば、「人に対して親切になってほしい」と親は期待をよせます。では、どうしたら親切さを養うことが出来るのでしょうか。

 倉橋は、第一に大人が子どもの好意を受け取ることが重要だと述べます。「第一に子供が好意を表する時に――たとえ、それがいかに小さな事であるにせよ、またその結果はかえって此方には迷惑な事になるにせよ、――取敢えず敏感にこれを受取ってやりたい」というのです。

 例えば、母親がしきりに何かを探している。子どもはそれを見て「きっと物差が御入用なのだろう」と思って物差を持っていく。すると母親はいらいらして「何だね、物差じゃない、鋏がいるのではないか」と怒鳴る。このような場面は現代の家庭生活のなかでも時々起こることかもしれません。しかし、これによって子どものやさしい心は折れて引っ込んでしまう。忙しければ忙しいなりに子どもの好意を受け取ってあげよう、というのが倉橋の考えです。

 第二に倉橋が挙げているのは、容赦することです。つまり、「許す」ということです。子どもが悪さをし後、罰を与えたり、叱ったりした後に「許す」ということは現代でも一般的になされていると思いますが、倉橋は、罰や叱ることなく子どもを許すことの尊さについて論じています。たとえば、遊戯室で子どもが遊んでいる時、許可なくピアノを弾いてはいけないのに、弾いてしまった。ちょうどそこへ先生がやってくる。子どもはハッと思ってピアノを弾くのをやめて先生を見る。「許可なくピアノを弾いてはいけないもの」ということをその子はよく承知しているのです。もうこの心持ちだけで、何も言わなくてもいい。黙って初めから許してあげたらどうでしょう、と倉橋は言います。悪いことをして罰なしに許された時に子どもの心に「美しいもの」が現れる。それは実に尊いものだ、というのです。

 つまり、倉橋の考えによれば、すべての人が自分に好意をもってくれる、容赦の世界に抱き包まれているという感覚が子どもの中に与えられることが重要なのです。

 倉橋のこのような教育論に対して全面的に頷けない方もおられるだろうと思いますが、現代に生きる私たちが学ぶべきこともあると思います。それは第一に、心の教育はまず大人が子どもの好意や内面を敏感に感じ取ることから始まり、それを伸ばすということに主眼を置かなければならないということです。大人が考える「親切とはこうあるべき」と教え込んでいく教育とは異なる方針です。

 第二に、この文章のタイトルは「かく育てたしと思うこと」ですが、内容を見ていくと、倉橋は大人が子どもにこうなって欲しい、例えば、将来は社会的地位の高い成功者になって欲しいなどの理想を持つことをたしなめているように思われます。人生にとって本当の幸福は社会的地位によって決まるわけではない。幸福な人間は、子ども時代を好意と容赦の間に保護されている世界で過ごし、大人になって実際の社会で失望や不平を感じても、他者からの好意を感じ取ることのできる人間だ、と倉橋は考えました。

 子どもにこうなって欲しいという大人の理想は、子どもを見る目を曇らせてしまうのかもしれません。子どもが幸福な人間へと成長していくためのサポートとは、子どものありのままを見つめ、それを受け止める大人の目を基本とするものなのでしょう。

【新連載】4回シリーズ(2)

子どもを見る目 その2
~“突っ伏す”子どもを作らない保育~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

 これは、ある幼稚園での公開保育研究会に参加したときに学んだことです。

 その日は、発表会にむけて子どもたちが準備を進めていました。ある10 名のグループの出し物は縄跳びでした。限られたスペースのなかで、どうやったら皆が縄跳びを飛べるのか、先生と子ども達が体育座りで輪になって、一生懸命相談していました。

 一人の子どもが、「全員じゃ飛べないから、分けよう」と提案すると、これを受けて他の子どもたちから「じゃあ、3人、3人、4人にしたらどうだろう」、「いや、3人、3人、2人、2人に分けたほうがいい」などと次々に意見が飛び出します。

 それを見ていた私は、「ここの幼稚園の子どもは皆賢いな~」と感心していたのですが、よく見ていると、皆が色々と意見を言い合うなかで、一人だけ体育座りの膝に顔をくっつけて突っ伏し、沈黙する子どもがいました。

 発表会の日が差し迫っている、ということもあって、先生はその他の子ども達と話を進め、どのように縄跳びの発表を行うか決めてしまいました。

 その日の午後、今日見た保育活動をもとに研究会が始まりました。上記の縄跳びの件も話題に取り上げられました。講師として迎えられていた先生は、話の進むスピードや計算についていけない子どもがいる、ということを確認した上で、そうした子どもが沈黙してしまう状況を作ってはいけない、とアドバイスをしました。「果たして今日中
に発表のやり方を決める必要があったのだろうか」、「話の進め方をゆっくりにして、その子どもが参加できる形でできなかっただろうか」と問いかけました。

 体育座りの膝に顔をつけて突っ伏す子ども、沈黙する子どもを作り出しているのは保育者で、そうならない保育~子どもたちの様々な個性が認められ、ひとり一人が活き活きと活動できる保育~を目指す必要がある、というメッセージであったと思います。

 そんなメッセージは、短大の教育活動において、限られた時間のなかでカリキュラムをこなしている私自身にも突き刺さりました。幼稚園、短大に限らず、集団での教育活動は、一斉性が求められる場面がたびたびあります。日本における一斉教授法の導入は明治期にまでさかのぼり、その効率の良さから教育現場で重宝されてきました。しか
し、上記の事例からマイナス面も少なくないと言えそうです。学校という組織における教育活動に効率の良さが求められることは事実です。しかし、教師はそれにとらわれ、活動の流れに乗れない子どもを“問題児”として見ることがないよう、よくよく注意をする必要があります。

 黒柳徹子さんの自伝である『窓ぎわのトットちゃん』に登場する校長先生は、前の小学校を「退学」になったトットちゃんとの最初の面談で、「さあ、なんでも先生に話してごらん。話したいこと、全部」といって、4時間もかけてたっぷり話をきいてあげています。そして、たびたび「君は、本当は、いい子なんだよ!」と声を掛けました。授業を妨害する“問題児”として「退学」となったトットちゃんの疎外感を校長先生は感じ取っていたのかも知れません。ひとり一人の個性を尊重する教育は、時間がかかるものであり、効率の良さからは縁遠いものであることを物語っています。

【新連載】4回シリーズ(1)

子どもを見る目 その1
~信頼関係を築く「視線」/実習生の学びから~

立教女学院短期大学 幼児教育科 准教授 高瀬 幸恵

  保育者養成校に勤務し、教育・研究に携わっていますと、「子どもを見る目」について考えさせられることが度々あります。今回から4回にわたって「子どもを見る目」をテーマとして考えていきたいと思います。

 「子どもを見る目」とは、子どもをどのように理解するか、どのように捉えるかといったような子ども観や、子どもの言動や表情から思いを読み取り理解する力のこと、とすると、両者とも保育者にとって欠くことのできないもの、ということができるでしょう。

 短大の教員である私にいたっては、自分の「学生を見る目」の無さに反省することが多いのですが、保育者の卵である学生たちは実習を通してどうやって「子どもを見る目」の芽を育てていくのでしょうか。とある実習生の日誌の一部を抜粋して紹介したいと思います。

* * * * * * * * * * * *

 今までお弁当前のお祈りの時に、手を合わせることができなかったM ちゃんが、今日は自らお祈りをすることができていた。その様子を担任の先生は見ていて、お弁当の時間の後に、「今日、自分でちゃんとお祈りできてたね!」とM ちゃんをほめていた。お弁当の後は、色々とやることがあるにもかかわらず、さらに先生は、Mちゃんの前で他の先生にも「今日、M ちゃんがきちんとお祈りできていたんですよ!」と報告していた。

 M ちゃんは嬉しそうに体をゆらし、私に「今日ね、一人でお祈りできたの!」と教えてくれた。私が、「やったねM ちゃん!先生にもほめてもらえて嬉しかったんだね!」と言うと、顔をくしゃくしゃっと満面の笑みでいっぱいにして、私と一緒にジャンプした。そして、「お外へ遊びに行こう!」と私を誘い、元気に外へでていった。お片づけの時も、「ちょっとあっちのお手伝いしてくるわ!」と言って、自分からすすんで動くMちゃんの姿が見られた。

 M ちゃんは先生たちに強い信頼感を持てるようになったと感じた。先生たちの、個を見ながら集団を、集団を見ながら個を見ることができる視線が、きちんと子ども達に伝わり、信頼関係のもとになっているのではないかと思った。また、子ども達はそういった「ちゃんと見ているよ」というメッセージを受け取ることができるからこそ、自ら活発的に動こうという気持ちを持てるのだと思った。

* * * * * * * * * * * *

 この実習生は、M ちゃんと保育者の間に形成された信頼関係を感じ取り、さらにその背景には、保育者の「視線」があるのではないか、と気が付きました。その「視線」とは、集団を見ていながら個を見る視線です。この「視線」がもとになって信頼関係が形成されているのでは、と分析しています。また、子どもたちは保育者の個を見る「視線」のメッセージを受け取ることができ、それが子どもの自発性につながる、と考察しました。

 集団を見ながら個を見る、という言葉は保育を学ぶときによく耳にするフレーズですが、この実習生はそのことを実際の現場を通して自ら掴み取ったということがはっきり分かります。こうした学びを獲得するためには、学生自身が一人の人間として信頼関係を感じ取る力、他者からの「視線」のメッセージを感じ取る力を持つことが必要なのだろうと思います。そのためには、養成校や幼稚園の教員も、学生を一人の人間としてその個性を見つめ、信頼関係を築きながら学生と関わり、育てていくことが不可欠、と言うことができるでしょう。

【新連載】2回シリーズ(2)

子どもの発達とおもちゃ

神戸女子短期大学 永井久美子

 今回は、保育者・保護者の視点から子どもの発達とおもちゃの関係を考え直す事を趣旨として、記載させていただきます。とかく子どもとおもちゃの関係ということになると、一般家庭でのそれと幼稚園・保育所での保育のそれとはまったく別のものとして捉えられています。というのは、一般家庭での子どものおもちゃと言えば、保護者が買い与えた商品として流通しているおもちゃであり、後者の教育・保育現場においては自然物や文房具、廃材などを使って作られたおもちゃ等ということになるからです。前者の場合はともかく話題の既製品を購入し、その最新の仕様を決められた形で楽しむことに主眼があり、後者の場合はそのままではおもちゃとして遊べない素材を製作過程と見立ての遊びを通して、おもちゃへと加工していくプロセスこそに主眼があります。幼児教育学・保育学の研究ということで言えば、前者についてはあまり触れられることなく、後者の作成方法やつくられたおもちゃの保育への活用は研究の対象として扱われることが多くあります。

 このようなおもちゃをめぐる家庭と保育現場の違いについては、ここでお伝えする必要はないかと思われます。そして、今日の子どもを取り囲むおもちゃ環境は、教育や保育に精通した専門家や保護者が首肯できるものとは言いがたいものがあります。1年ごとに仕様変更されるヒーローものは遊びの継続性を切断し、また保護者に商品を買わせる経済的な意図しか持たないように思われます。また幼児から電子ゲーム機器といった遊びになじませることは、弊害が多くあります。電子ゲーム類のような、身体的な活動ではなく脳・神経系のみに特化した刺激的な遊びは、依存性があり、また実際の身体を用いないため、運動や巧緻性の発達を促しません。

 このような事情から、全面的に今日のおもちゃ・遊び環境に賛意を表することはできませんが、しかし今日の大多数の教育施設・保育施設に子どもを通わせ、近隣の子どもや保護者と人間関係を営んでいる限り、商品経済、マスメディアと結びついたおもちゃや文化環境から離脱することは困難であると思います。それゆえ、子どもの文化世界および発達を守る環境として、教育施設・保育施設の保育環境は重要だと考えます。
一方で、このような観察や考察は、商品としてのおもちゃを普段は使わない幼児教育・保育の実践者にも資するところが大きいと思います。それを顕在させるためには、私たちは、家庭のおもちゃと教育・保育のおもちゃという高い壁、そして家庭の遊びと教育・保育の遊びという高い壁を取り払う事は無理としても、壁を低くして研究していく必要があるのではないかと考えます。

参考・引用文献
弘田陽介・永井久美子(2015)子どもの発達と「メディア」としてのおもちゃ-保育現場におけるおもちゃと家庭における「妖怪ウォッチ」の商品の狭間で- 大阪城南女子短期大学研究紀要 49,69-92

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